第2話 無謀な計画
それだけ言うと翠雨は近くのウォーターサーバーへ行き、コップに水を入れる。眺めながら翠雨の言葉に思考を巡らせた。
翠雨の話にはいつも順序がしっかりとある。一見したら、回りくどく、話が見えてこない。けれど最後まで聞けば、ストンと腑に落ちる話し方だ。簡単に言えば、ミステリー小説の探偵が、事件の真相を話す様子に近い。
今回もきっと目的を持って話しているのだろう。
見てもいない者について意見を求められても困る。それでも翠雨なりに説明の努力をしてくれていることはわかる。椅子に戻ってきた翠雨に、情報を整理してできる限りの考察を口にした。
「人間ではないだろうね。着物であったことを考えると、かつて日本にいた何か。常識的な出来事ではないことを前提に考えれば、幽霊のような超常的な生き物かな」
翠雨は言葉を探すように視線を彷徨わせて話す。いつもの翠雨の、答えがわかっていて迷いなんてものは知らないと言わんばかりの自信に満ちた話し方ではない。それこそが、翠雨の動揺の一端に思えた。
香月は彼女がそこまで追い詰められていると改めて思い知った。
「私も、概ね先輩と同じ意見です。空中で何かに入っていくように消えた。幽霊や妖だろうと私も考えました。そしてもう一つ見解があります」
香月はその発言に、同情に変わり始めていた好奇心が刺激された。
香月は人並み以上に好奇心が強い。そして、人並み以上に厭世的だ。真面目に生きなくても優秀以上の成績は残せるし、世渡りも上手い。
そんな彼がなぜ人気のない地味な研究室を選んだか。答えは簡単だ。日常に退屈し、非日常を求めたからだ。厨二病臭いと言われるかもしれないが、意味不明で謎めいた何かに日常を壊して欲しかったのかもしれない。けれど、香月には超常的な生き物を求める以外の気持ちも持っていた。
超常的な生き物はいない。
そう証明するという思考だ。いないものに縋る自分への戒めや、今まで楽しいものに出会わなかったことは、優れた人間の運命である。ゆえに自分は悪くない。
人生が退屈であることは自分が悪いわけではない。自分が優れているからだ。他人からは理解されない考えかもしれない。超常的な生物がいたとして、今まで出会えなかったことを偶然で済まされることが嫌なのだ。このどうしようもない退屈に耐えてきた自分を偶然の一言で片付けられたくない。超常的な生物がいなければ、この退屈にも諦めがつく。
超常的な生き物にいてほしい、いてほしくない。そんな思考がオセロのようにせめぎ合う。
ここまでしおらしい翠雨の力になりたい反面、翠雨の話に期待した。非日常や刺激的な何かが待っていることを。そして、その期待とは裏腹に、事実を客観的に分析する気持ちも、香月にはあった。
そんなことがあるはずがない、そう考えてしまう自分だ。現実はもっと退屈で、もっと簡単なのだ、と。その思考は今までの香月の経験からくるものだ。今まで心から楽しめたものはない。どれも簡単で単純で単調だ。
「どこか別の空間へ連れて行かれた可能性です」
「それで?」
香月の口から想像以上に冷たい声が出た。椅子の背もたれに体を預ける。期待する気持ちと同時に、失望することが決まっているかのように論破していくような思考が現れる。結果、香月は翠雨の話に耳を傾ける気持ちは変わらない。
「幽霊や妖がどこかへ瞬間移動のようなことをしていない場合の仮定の話ですが、もし幽霊や妖の世界、いわゆる隠世に連れて行かれたのなら。そう考えたわけです」
翠雨は、分かったでしょう、と言いたげに見つめ返してくる。香月は理解が追いつかない。翠雨の言いたいことは半分ほどしか理解できていないだろう。彼女は優秀な香月とは違う。いわゆる天才だ。
才能の代償に、翠雨は大きな物を失ったのだろうと香月は考えていた。たとえば社交性やコミュニケーション能力といったもの、それに空気の読み方だ。
香月には見えない理論が彼女には見えている。悔しくも感じたが、それでもわからないものはわからない。
「行けないよね、普通」
「そうですね、普通なら」
翠雨は香月にバッグをよこせと右手を差し出す。ここまで話したのだからもう逃げていくこともないだろう。話の続きも気になるので、重いバッグを翠雨へ渡す。翠雨はしばらくゴソゴソと音を立ててバッグを漁る。
分厚い青色のファイルを机に広げようとするので、香月はコップを退けた。
ついでにヨーグルトの入っていた空の容器を、食器の返却口へ運んだ。翠雨はファイルのページをペラペラめくっている。戻ってくる頃には目的のページを開いていた。
香月が座るところまで目で追った翠雨は説明を始める。
「伝承から神話、民話まで。調べ上げた情報をまとめたものです。隠世や黄泉と言われる世界へ連れて行かれた話が幾つも残っています」
そう言って指差したページは、異世界に行ったという話を日本地図にマークしたものだ。
その情報は、香月も覚えがある。
たとえばイザナギとイザナミの言い伝え。出産の失敗で黄泉へ行ったイザナミを迎えに行ったイザナギの話。
鬼に攫われて隠世へ渡る乙女の話もある。
しかし全てに共通する条件が幾つかあった。
「人ではない者に導かれた場合。人ではなくなった場合。このどちらか、または両方をクリアしなければ異世界には行けない。簡単な方法は死ぬことだけど、翠雨。君、死ぬ気?」
翠雨は呆れた様子でファイルを片付け始めた。
「ちょっと待って」
香月はファイルを片付ける翠雨の手を掴んで凝視した。日本全国にマークがされ、一見するとどこからでも異世界へ行ける印象だ。強いて言えば、街中あたりではあまり異世界へ行った事例が少ないということくらいだ。よく見れば何かわかるかもしれないと思ったが、気のせいだったようだ。
「ねえ、本当に死ぬ気なの?」
「そう見えますか」
そう見えますか、と言われても。香月にも翠雨にも、人外の知り合いはいないだろう。少なくとも香月にはいない。死ぬ以外の方法なんて、妖怪にでもなる気なのか。
「滋賀……。人外……」
翠雨の掲示した情報は、香月の知識でも辿り着ける内容のはずだ。翠雨はいつも、わかるように説明してくれるのだ。香月は首をひねる。閃いた香月は目を輝かせた。
「そういうことか。わかった」
シンプルな話だった。翠雨はすぐに気が付かなかった香月を待つこともなく移動を始める。翠雨はいつの間にかファイルを片付け終えて、香月の反応を確認した。翠雨にしては律儀に声をかけた。
「ではしっかり説明したので、私は行かせてもらいます。できれば学校に休学届を出しておいてくれるとありがたいです。万が一、戻って来ない場合には、教授にも説明をお願いしても良いで……」
香月が事実に気が付くまでの時間を片付けに使ったことは、律儀でもなんでもなく、時間短縮でしかなかったようだ。そして香月に声をかけたのも、相談の礼を伝えるためではなく、自分が滋賀へ行った事後処理を任せるためだった。
しかし今の香月に、そのようなことは関係がなかった。いまだかつてない胸の高鳴りを感じている。
「俺も行くよ」
翠雨は首を傾げた。
「何を言っているのですか」
気でも狂ったか、と言わんばかりの表情で翠雨は言った。
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