たとえ千里はなれても、いつかまた逢える
真生えん
第1話 正反対の二人
冷ややかだった空気が、徐々に熱を帯び始める四月の末。不安で落ち着かないことは、学生も社会人も変わらない。
新しいクラス、新しい職場。それに伴う新しい人間関係。多かれ少なかれ不安と変化で落ち着かない時期である。
葉沼香月はその不安や落ち着かない気持ちとはあまり縁がない生活を送ってきた。
基本的に穏やかで誰にでも、特に女性に優しい性格である香月は、こういった時期も平常運転だ。大きな変化への順応が早く、大勢に好かれやすいので不安もあまり感じない。
そして、そんな香月とは正反対の性格をしているはずであるが、彼と同じく不安や落ち着かない気持ちとは縁遠い者が一人いる。
その女性は天野翠雨と言い、香月の大学の後輩だ。香月と同じく、日本伝承を主にする研究室に在籍している。
人と関わることが極端に少なく、研究以外には興味を持たない容姿端麗な変人であると有名だ。翠雨が研究室に入った時に香月も声をかけたが、ゴミでも見るような目で見られた。人に興味を持たない、目も合わせてもらえない。そんな噂の絶えない彼女は、香月を見つけると、未だ軽蔑を隠しもしない目を向ける。水と油、とでも言うのだろう。そんな関係だ。
香月は周りから意外だとよく言われるが、成績は優秀な方である。真面目に取り組めばどれほど優秀な人材になるか、と教授たちは惜しむ声をかけるが一向に聞く耳を持たない。
今日、会う予定だった女性から謝罪の連絡が来た。真面目であると思ったことはない。けれど突然、予定が空いた時にふらりと研究室へ向かうことは、香月の癖でもあった。
学内でも地味で人気の薄い研究室にはいつも通り先客がいた。噂の翠雨である。
香月の入室にも気がついた様子はなく、資料をひっくり返して作業を続けている。
普段ならば一瞬でも視線をよこすのだが、今日に限っては様子がおかしい。
何とはなしに研究室に来たが目的はないので、そのまま自分のデスクに座る。様子のおかしい翠雨を観察することにした。少し目が充血しているように見えるが気のせいだとは思えない。
翠雨の没頭ぶりには、平常時の淡々とした集中ではないものを感じる。気迫や焦りがひしひしと伝わってくるようだ。
無機質で古い資料の香りがする研究室が、香月は好きだった。落ち着いた雰囲気や静かな空気が気に入っている。
だが今日は穏やかな研究室で、翠雨が異様な空気を振り撒いている。香月と翠雨だけしかいないというのに、張り詰めた緊張感が居心地悪い。
香月が観察を始めて数十分が経った。結果、焦りの原因の特定には至らなかった。情報が少なすぎた。今までの彼女とのコミュニケーション不足が原因と言えるだろう。
しかし避けていたのは彼女の方で、香月としては可愛らしい女性と仲良くしたい気持ちはある。容姿以外はあまり可愛らしいとは言えないが、そこもまた周りの女性と違って新鮮さを感じる。
けれど、女の子に嫌がる顔をさせることは香月の理念に反するので、すれ違った時に声をかけたり、困っている様子の時に手を貸したりする程度の接点しかないのが現状だ。全力で嫌そうな顔をした後に、屈辱的な声で短く礼を言うという愛想の無い反応である。
香月が眺めていると、翠雨は外出の準備を始めた。
普段はここで寝泊まりをしているのではないかと思えるほど、いつ来てもいるのが翠雨だ。研究室にいなくとも資料室か、せいぜい付近のコンビニを捜せば見つかる。
そんな翠雨が、少なくはあるが自身の私物をバッグに放り込んでいく。まるでもうここには帰らないとでも言っているようだ。
不思議な生き物の生態観察のような気分だった。香月は、心配というには好奇心が強い感情を抱いていた。思わず声をかける。
「翠雨、どうしたの」
「先輩、私、滋賀へ行ってきます」
香月への返事というよりも、伝言に近い言葉だった。ノートパソコンをビジネスバッグへ詰め、資料の整理されたファイルを押し込んでいく。旅行にしては特有の浮ついた雰囲気がまるでない。今思い立ったようなスピード感だ。出発準備も終わりが近付いてきた。
時折、机の角やファイルの保存されているラックにぶつかっている。ひどく動揺しているようだ。いつもの洗練された所作の翠雨からは、想像もできない要領の悪さにハラハラしてくる。
無駄の多い動きで準備を終え、大荷物でフラフラと歩き出す。彼女の私物を全てまとめると意外にもバッグがいっぱいになっている。
彼女をここまで動揺させる人物がいたのだろうか、と香月は想像を膨らませる。そんな人物がいることが想像できなかった。だとしたら、何か動揺するような出来事があったのだろう。そう考えると香月の好奇心がますます掻き立てられる。
大きなバック二つを抱えて研究室を出ようとする翠雨の前に立ち塞がり、笑顔を向ける。
「なんでしょうか。急いでいるので退いてください」
正面から見れば、翠雨のやつれた様子がありありと伝わってくる。泣き腫らしたであろうと思われる目は、充血だけではなく、少し赤く腫れている。食事を摂っていないのか青白い顔も放って置けない。香月は女性が好きだが、一線は超えないし紳士的だ。そんな香月にはやつれた年下の女性がボロボロになっている姿を見て放っておくことなどできなかった。
と言えば聞こえは良いが、香月は事情を聞き好奇心を満たしたいのだ。今の香月は研究者で、その目に映る翠雨は可愛らしい女性ではなく、奇妙な研究対象だ。
「面白いことをするみたいだね。少し話を聞かせてくれないかな」
赤く腫れた目で睨んでくる翠雨のバッグをサッと取り上げて腕を掴み、学内の食堂へ引っ張って行った。
食堂に着き一番に思ったのは、香月が自分でも想像していなかったことだった。
翠雨の事情でも考察でもなく、翠雨に水分と食事を摂らせなければ。
翠雨がどう思っているかは知らないが、香月は翠雨のことを思いの外、可愛がっていたということだろう。
朝の早い時間だったため、食堂に人気はなく、部活動で早朝から練習する学生の声くらいしか聞こえない。少し気分を入れ替え、冷静さを取り戻してもらおうと考えた香月は、あえてテラス席に翠雨を座らせた。今にも、バッグを取り返して逃げ出さんとする翠雨からバッグを遠ざける。
飲み物を取りに行こうと立ち上がった香月だが、バッグを持って去られては元も子もない。仕方なく翠雨の大荷物を持って行くことにした。
「翠雨はいつも緑茶を飲んでいるよね? 少し暑くなってきたから冷たいのにしたけど、良かった?」
黙り込む翠雨は「なんでも良いからさっさとバッグをよこせ」と目で訴えている。連れてくる時も苦労したが、話を聞くことにも苦労しそうだ。香月はため息を吐く。
ついでに軽食も頼んだので食堂のおばちゃんに持って来てもらう。両手にはコップ、右腕には自分のバック、左腕には翠雨から取り上げたバッグ。これ以上物を持つことは難しい。
食堂のおばちゃんは気安い性格で、他に利用者もいないから、とトレーに乗せて持って来てくれた。翠雨を見た後に、厳しい視線を向けてきたがおばちゃんは何やら勘違いをしているようだ。
「女の子を泣かすもんじゃないよ」
誤解を誤解と説いても良いのだが、女性に恥をかかせるものではない。香月が汚名を着て丸く収まるのならば、喜んで着ようではないか。
頭だけ下げて翠雨にトレーの軽食を勧める。
頑なに緑茶にも軽食にも手をつけない翠雨にどうしたものかと何度目かのため息が出た。
「翠雨は俺を嫌っているようだけど、仮にも俺は先輩で、自慢できるほどではないけれど成績も優秀だ。相談くらいは乗れるから、話してよ」
翠雨は口を開いて、何も発することなく横を向く。揺れた前髪の隙間から見えた彼女の瞳は、うっすらと潤んでいた。
香月の胸に広がる感情は、放って置けない、の一言では表せないものだ。好奇心で動いていた香月も、この様子を見て同情しないほど冷たい人間ではない。
「人間関係でも、勉強のことでも、研究のことでも。俺は頼れる先輩でいるつもりだよ」おどけて言ってみたが、翠雨は鼻で笑う。カランと緑茶の中の氷が溶けて音を立てる。じっと緑茶を眺めていた翠雨は、ゆっくりと両手でコップを持った。とりあえず水分だけでも摂ってくれて、香月は安堵する。まるで懐かない野良猫だ。
「成績が優秀であることと、相談に乗れることはつながりません。何より、こんなことを信じるような人はいませんし、自分でも無謀なことをしようとしている自覚はあります。もう良いですか? 私は一刻も早く滋賀へ行かないといけないのですよ」
クッと緑茶を一気に飲み干し、ドンと音を立ててコップを置く。立ち上がった翠雨の腕を再び掴むと香月は言った。
「信じられない話が事実かどうかを研究することが俺たちの専門分野だ。話してみなよ。俺はちゃんと聞くから。このヨーグルトを食べ終えるまでは行かせないから、食べながらで良いからさ。頼ってよ」
翠雨は香月がしつこいことを知っていた。こういう、好奇心で探りを入れてくるタイプには事実を話した後で突き放すことが有効だということも、翠雨は知っていた。そうして突き放した後に、翠雨に近づいてくる人はいなかった。
脳裏に浮かぶのは、翠雨の今までの人生の例外だった人物だ。翠雨の落ち着いてきた気持ちに、再び焦りの炎が燃え上がる。今更、誰かに好かれようなんて思っていない。今はただ、あの人の元へ行くことだけが翠雨の目的だ。翠雨はあからさまに大きな音を立てて舌打ちをした。
椅子に座り直し、スプーンで流れ作業のようにヨーグルトを口へ運ぶ。
「一週間前のことです。大事な人が、目の前で消えました。黒い着物のような服を着た女性がその人を攫ったのです。この街の展望台でその着物の女性に腕を引かれるようにして、あの人は空へ消えていきました」
俯いてスプーンを握りしめる翠雨は、悔しさを噛み締めているようだった。大事な人がいなくなった時に、見ていることしかできなかった自分が悔しくて仕方がないのだ。
普段、感情を表に出さない翠雨が、顔を歪ませる姿は香月の心を動かした。涙や感情を必死で押し殺し、冷静に、と自分に言い聞かせていることはしっかりと香月にも伝わっっている。
けれど香月には、どうしてその出来事が滋賀につながるのかわからなかった。
話したことで感情が溢れた様子の翠雨はカタカタと体を震わせている。ある種の恐怖心が彼女を襲っていることは明白だ。香月は落ち着くまで、しばらく黙っていようとコーヒーを飲んだ。
いつもなら泣いている女の子を慰めるためになんでもする香月だが、翠雨は違う。彼女は誰かに慰められることも、頼ることも良しとしない性格だ。良く言えば気丈。悪く言えばプライドが高い。可愛げがないが放って置けない。彼女の気持ちを考えると、ブラックコーヒーはいつもよりも苦く感じた。翠雨の気持ちを感じ取った香月には、コーヒーの香りは胸焼けがするほど濃厚だった。
「……すみません。感情がぐちゃぐちゃになってしまいました」
十分くらいだろうか。あんなにも震えていたのに、涙ひとつこぼさずに深呼吸をした翠雨は、そう言った後、再びヨーグルトを口に運んだ。
香月はニコリと微笑んだ。彼女の分も、自分が冷静に話を聞いてあげなくてはいけない。そんな使命感にも似た気持ちを、香月は抱いていた。
「もう大丈夫なの?」
「はい。感情を表に出したことが良かったようで、冷静になれました」
先ほどまで激情を滲ませていた目は、すっきりとしていて、いつものように目的だけを見据えている。感情は、そう簡単にはなくならない。けれどしっかりと感情をコントロールする様は、確かにいつもの翠雨だ。香月は胸を撫で下ろした。
翠雨はヨーグルトを食べ終えた。最後にイチゴを咀嚼し飲み込む。顔色はずいぶんと良くなって見える。
「で、本題だけど。その大事な人が攫われたことと滋賀行きはどうつながるのかな」
翠雨はあからさまに表情を歪める。香月は先ほどまでの気遣う気持ちをかなぐり捨ててやろうか、と考えてやめた。彼女はきっと、自分ほど人間付き合いをしてこなかったのだ。先輩として気遣うことに見返りを求めてはいけない。
翠雨は自分にできることが、できない人への理解が足りないのだ。そして自分の行動の結果、人がどう思うかも理解していない。
事実、今の翠雨は敬うべき先輩に対する態度ではない。不満はあるが、翠雨とはそういう人物なのだと自分に言い聞かせるしかない。
そうして心の中で何度も唱えて、翠雨の説明を待った。
「先輩は、その着物の女性は何者だと考えますか」
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