第4章:声
朝は、曖昧な音で目が覚めた。
木造の壁が鳴る音か、外をかすめる風か、それとも夢の続きか。いずれにせよ、静寂は変わらなかった。
ベッドから起き上がり、階段を下りる。山荘の床板はところどころ沈み、きしむ音が妙に耳に残った。
地下室のドアは、昨夜のまま、開いていた。
冷たい空気が廊下まで染み出してくる。
それは冷気というより、部屋そのものが持っている“匂い”だった。人のいなくなった病室のような、使われていない教室のような、時間の止まった空間が放つ独特の匂い。
階段を降りて、地下室の中央に立つ。
彼女のものだったぬいぐるみが、ベッドの上に静かに座っている。触れた記憶はないが、何度も夢に出てきたせいか、ずっと知っているもののように感じた。
ぬいぐるみの首には、古びたリボンが結ばれている。結び目はきっちりとしていて、ほどかれた形跡はない。
棚の上には、古びた日記帳が置かれていた。
表紙の隅が黒ずみ、ページは時間に焼けて黄ばんでいた。
涼介は、それを開いた。文字は子供の書くそれだった。歪んだ丸文字。拙いが、一目で分かった。彼女の字だった。
⸻
「4月17日 あした、ぜったい、もどってきてくれる。
おわらせてくれる。ぜったい。」
⸻
それだけが、最後のページに書かれていた。
日付は、20年前。けれど“あした”がいつの“あした”を指していたのかは、誰にもわからない。
日記帳を閉じ、ぬいぐるみの横に戻す。
その時、はじめて気づいた。床の埃の上に、小さな足跡があった。昨日まではなかったもの。
小さな裸足の跡。
子供のものにしては、形が妙に歪んでいた。
だが、懐かしい。見覚えがある。20年前と、同じ形だった。
涼介は床を見つめながら、ゆっくりと腰を下ろした。
心拍数も呼吸も、何も変わらない。恐怖も焦りもなかった。ただ、懐かしさと安堵に似た感情だけが、じんわりと体内に広がっていた。
地下室の奥、薄暗い影の中から、音がした。
それは「声」と呼ぶには小さすぎて、けれど「音」と呼ぶには生々しすぎた。
──たすけて。
その一言は、空耳だったのかもしれない。
でも涼介は、答えるように小さく頷いた。
「待たせたね。」
その夜、涼介は再び、地下室のドアを閉めた。
鍵はかけなかった。もう、その必要はなかった。
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