『The Egg』を読んで
『The Egg』を読んで
・はじめに
生命と世界の相関について論じる教義や哲学、創作物は多々目にしてきた。それらを読み漁る行動原理に自身の境遇が少なからず影響している事は否定しないけれど、私には私なりの揺るぎ無い信仰が有るので「本作品に大きく感銘を受けることはなかった」という点についてだけは前もって述べておこうと思う。ただそれを別にしても、表現の妙に舌を巻く文脈もまた多かった。そこに焦点を置いて思索を述べる事で感想文としたい。
・『“You’re sending me back in time?”(俺は過去に飛ばされるのか?)』と『“All you. Different incarnations of you.”(すべて君だよ。全員君の生まれ変わり。)』について
「魂の根源は全て同一であって、個人とはそこから枝分かれした末葉、或いは大海が波打った際に飛び散る飛沫の様なもの」と言う、ユングの提唱した「集合的無意識」をもう何歩かスピリチュアルに拡大解釈した説を目にした記憶が有る。個人的な感情から言えばあまり好意的に同調はできかねる言説だと感じた、本作品の上記の行にも同様の感情が湧く。
生まれ変わりの解釈は中々にユーモラスでは有ったけれど、自分の信仰に加えようと思えるものでもなかった。輪廻転生と並行世界の実在、またそれらが因果応報するが如く幸不幸あるいは陰陽の均衡を保って連綿と続くこと。そして来世以降もそれを際限なく継承していく事が私の信仰の根幹には有る。その前提において、「時間の不可逆性」の否定と「個にして全、全にして個」が全生物史単位に適用されるような表現には同意ができなかった。
「ラプラスの悪魔」に代表されるような超時間・超次元的な観測者の実在を信じ現実に適応するか否かはあくまで個人の信仰に委ねるべきであると考える。重ねて言うなら、「時間」と言う枠組みの持つ「遡行も意図的な順行も不可能である」と言う揺ぎ無さは不条理を否応なく許容する為に不可欠だと断言できる。
誰しもに「戻りたかった時」は生じうる。それがどの瞬間になるかは個々人の境遇に依るだろうが、「戻りたくても戻れない」事実は平等に残酷であるからこそ「ただ己だけが悲劇の渦中に在るのだ」と思うことはない(悲劇の程度にもまた個人差はあるだろうが)。その点においてやはり、「時間の不可逆性を揺るがせにして欲しくない」と言う感情がこの一文に対する寛容を拒まざるを得ないのは悲しいことだと感じた。
・『“Every time you victimized someone,” I said, “you were victimizing yourself. Every act of kindness you’ve done, you’ve done to yourself.(「君が誰かを犠牲にするとき、それは自分を犠牲にすることになる」と私は続けた。「君が人に親切をするとき、それは自分への親切となる。)』について
「愛する人を自身の同体として捉える」ことは愛の表現として度々に目にする所だろう。同様に「嫌悪する人間を無意識に自身の鏡として捉える」こともまた一つの心理作用として表出、あるいは深層で燻ることの多い現象だと言える。先述の通り個体と全体の同一について同意できる部分は少ないが、誰かとの一対一の関係においてこの行は全面的に肯定したいと思った。一個の現実として許容すると言うよりも、一つの格言のようなものとして自身の胸中に据え置いておきたい表現である。
「因果は応報するものである」と言う既存の思想に当て嵌めて考えれば、これ程に納得のいく論もない。事の良し悪しに関わらず、「自身の直面する現実がただ運命によって定められたものだ」と断じられてそれを受け入れられるかはそれこそ信仰の如何が大きく寄与するところではあろう。ただ大多数において、「それは自身の行動による帰結である」と結論づける方が腹の収まりは良いのではなかろうか。「良い行いを成せば報われる、悪しき行いを成せば報いを受ける」と言う前提が有れば、そこには行動を省みる十分な余地が生まれるだろう。それを進歩と退廃の何れに活用するかの選択もまた、個人の自由意志に委ねられるべきだ。
当事者を単体としての自己に限定するか、或いは同体と心得た個人との間に共有するかでもまた差異はあるだろうと思う。同じ蓮華の上にまた再会を誓った仲であるならば、互いの行動の因果をも粛々と受け止める事に如何程の苦労があろうか。或いは我が身を守り庇う事に如何程の呵責があろうか。「己を粗末にすれば相手も己が事のように傷付くやも知れぬ」、「差し出した想いに喜ぶ相手の姿こそ自身の至上の喜びたりうる」。そこまでの感情の遣り取りを全人類にまで広げる事は到底叶うまい。ただ経験上、「人生に一人くらい居るのは悪くないものだった」と断言できる。
・総括+α(自分語り含む)
一言に纏めるなら「ショート・ショートながらに考察や思索の大いに捗る文章だった」と言うところだろうか。或いは「情報量が少ないからこそ自身の知識や思想との照合をするだけの余地が十分に設けられていた」とも言えるだろう。娯楽小説の類はわりあい湧き上がる感情そのものを楽しんでばかりでそこから言語化に昇華させる機会は中々無いので非常に有意義だったと感じている。一頃書評書きの仕事で小遣い稼いでた時期が有るがその時はやれ「文面が堅苦しい」だの「語彙が複雑すぎる」だのと校正を食らいまくって嫌気が差したものだが。
自身の信仰は揺るぎないからこそ外部から全く異なる思想を目にすることは信仰の強化の為の良い刺激になった。どうせ一人一人見る世界が違うと言うなら、これくらい突拍子も無い方が繰り返しになるが思索は大いに捗ってとても楽しいものだ。
読書感想文 小島秋人 @KADMON
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。読書感想文の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます