第5話
源影政は、幼き頃より平安大将棋に親しんでいた。
父の代から仕えた老臣が教えてくれたもので、「この国も盤上と同じ、駒の理を知れば人も読める」と語っていた。
その将棋には、酔象という奇妙な駒があった。王のすぐ傍にあって、成ることで「太子」となり、王将に匹敵する力を持つ。だが、盤上に二つの王が存在することは、必ずしも盤面を強くするとは限らない。
「ゆえに酔象は、王の影として戦い、決して表に立ってはならぬ駒なのだ」
老臣のその言葉は、影政の生き方の核となった。
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安倍頼時追討の戦が本格化する中で、影政は再び将棋盤を開いた。
盤上には、己が束ねる関東武士たちを象った駒、そして対面には経清、永衡、安倍貞任をなぞる駒を置いた。
だが、その駒たちは読みきれぬ挙動を見せる。
「経清…お前は香車のように、まっすぐ過ぎたのだ。だから、見誤った」
影政は、経清が安倍氏へと走る心の内を読み違えたことを悔やんだ。進言は正しかった、だがその裏にある友の情までは読みきれなかった。
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一方、安倍氏の陣営では、影政の名が密かに語られていた。
「源影政…将にあらず、軍にあらず。だが、奴の進言が次の刃を生む」
安倍貞任は、影政を**“盤外の指し手”**と評し、動きを探らせていた。だがその姿は、煙のように掴めない。味方と思った者が、次には裏切りを口にし、決断を鈍らせる。情報が乱れるたび、影政の策が揺れている証だった。
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やがて、決戦が近づく。安倍頼時の軍勢が集まり、陸奥の空は荒れ模様を見せた。
源頼義の軍も動く。軍議の席、頼義は影政を呼んだ。
「影政、貴様は“酔象”か?」
「御意。酔いて、象る。ただし王の身代わりにはなりませぬ。…その前に、盤を整えましょう」
頼義は小さく笑い、重ねて言った。
「ならば、盤外よりこの合戦を制してみよ。表に出ずして、勝利を我が手に」
影政は深く頭を下げ、戦の裏へと姿を消す。
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そして戦後、人々は噂した。
「藤原経清の寝返りは、影政が仕組んだのではないか」
「永衡の斬殺も、影政が一手先を読んだ結果らしい」
「誰も見ていなかったが、あの男が一手、二手…そして三手先を読んでいたのだ」
彼の名は表には残らず、記録にも少ない。だが、影政は将棋盤の端に刻んだ。
酔象——王に最も近き影、そして盤上の影法師。
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【影の章:野太刀の誓い】
戦の煙が消えた後、源影政は再び姿を見せぬ存在となった。だが、その名は戦場の端々で囁かれ続けていた。奥州の静かな山間の村、誰の目にも止まらぬ庵にて、影政は一振りの長大な刀を磨いていた。
それはかつて、陸奥の剛士・安倍頼時が佩いていたもの——野太刀。本来、騎乗した武士が使うための長大な太刀であり、軍中において威信と力を象徴する武具である。しかし、影政はこれを佩くことはなかった。むしろ、それを前にしてただ静かに座し、己が歩んだ戦を思索していた。
——戦は終わった。だが、盤は終わらぬ。
影政の心にあるのは次の局、次の敵、そして、王の影としての次なる役割だった。
「この野太刀は、王のものでも敵将のものでもない。…我が手にある限り、盤外の理は、まだ終わらぬ」
かつて老臣が語った「駒の理」は、影政の中で確信へと変わっていた。酔象は太子になってはならぬ。それは王の影、剣にあらずして刃を導く者。だがこの野太刀は、ただの象徴ではない。
影政はある時、密かにこの太刀を使って一人の密使を斬っていた。藤原経清の密書を持っていたその者は、裏切りの証を運んでいたからだ。あの一閃こそが、経清を陥れる鍵となった。
「刃を握らぬ者が刃を振るう時、それは策であって暴ではない」
己の中にある理を、影政は野太刀に封じた。そして再び、それを竹の箱に収めると、庵の奥に隠した。
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数年後、朝廷から一通の密命が届く。
「奥州に不穏あり。再び兵を挙げよ」
源頼義の名ではなく、影政の名を指していた。表に出ずとも、盤外に在り続けた酔象の力が、再び求められたのだ。
影政は静かに立ち上がった。かつての野太刀を箱より取り出し、今度こそ佩いた。
「酔象、いまより野に出ず。だがこの刃は、誰にも見せぬ。影として、ただ一手、また一手を刻まん」
そして彼はまた姿を消した。
その後の史書に影政の名はない。だが、地方の古文書にわずかに記されている。
「影なる者、野太刀を佩きて動く。名を刻まず、名を立てず。されど一国を盤の上に置きて、勝を導けり」
——酔象。
それはただの駒にあらず、盤上に在らずして、盤を動かす影法師。
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