第2話 お金がないという現実
美穂は右も左もわからなかったが、言われた事に対して全て頷いて応えた。
初めて降り立った見知らぬ土地、周りには友達はおろか知人でさえ居ない。ここが美穂にとって第二の人生、生活を賭けた場所なのだから。引き返す、引き揚げる、逃げる、出戻り、これだけは避けたい。どうしても、何があってもまた陽子の管理下で暮らすのだけは嫌だった。
まだ18歳とはいえ、法律上、成人だ。保護者の同意なんて不要である程度のことはほぼ自由に自己責任で出来る。それらが可能になる最低年齢が18歳なのだから、この権利を使わない手はない。
美穂は家出をする何年も前から18歳になって高校を卒業したら、自分で稼い誰にも干渉されない生活を送る。経済的に自立してさえいれば何もかも手に入る。東京にはあの町で売っていない自由が買える。心底そう信じていた。
苦労なんてここにはない、あの陽子から逃れられるのなら。美穂は本気でそう思っていた。
美穂は幼い頃からお金と食べること、物質面で何ひとつ苦労した事がなかった。家の冷蔵庫と台所の食品棚は常に新鮮で高級な食材が当たり前のように揃っていた。
美穂はしばらくの間、知らなかったのだがそれらのほとんどは買ってきて手に入れたものではなく、頂き物だということを。
有名百貨店やお取り寄せで人気のあるお店、老舗の店舗の食品は全て宅配で届く。美穂は家にあるものは好きな時に好きなだけつまみたい放題だった。
どれも当然のごとく美味だった。それで美穂の舌が肥えたという事はなかった。インスタントラーメンやレトルト食品、冷凍食品にファストフードもよく好んで食していた。
お小遣いは毎月決まった額を貰ってはいなかった。美穂が小学生の頃から陽子は事ある毎に美穂に万札や数千円を手渡していた。
ほぼ毎週のように現金を陽子から手渡されるので、お金は陽子から自動的に貰えるもの、なくなる事なんてない、使い切ったらまた貰える、どうせなら使ってしまってまた追加してもらった方が得と思い込んでいた。
だから貯金なんていう概念はまるで持ち合わせる事はなかった。陽子から受け取った現金はその場では1万円とか数える事はあっても週や月、年間でいくらだったのか?という計算すらしたこともなかった。使い道は陽子と顔を合わせたくないからという理由で外食、コンビニで大して欲しくもないが目新しい商品、酒、タバコ、趣味の悪い服、ゲームであっという間に消えた。
読書は全くといってもいいほどしなかった。たまに漫画本でも買おうか?と気まぐれで書店に入るも種類が少なく、スマホでコミック読んだ方が安上がりだし、夜中でも手に入る。それに参考書、誰が買うんだか知らないけどビジネス書、自己啓発本なんかタイトルを見ただけで寒気がした。
小説なんてネクラが読むものだ、感動なんて必要ない、スマホで動画観ている方がずっと楽しいし、時間もすぐに過ぎる。
雑誌だってネットで洋服のコーディネートからメイクアップ、垢抜ける方法なんていくらでも無料で拾える。そういう時代だ。本なんて読み終わったらゴミになるだけ、美穂は書籍には見向きもしなかった。
キャバクラ勤務は美穂にとっての生まれて初めての労働だ。自らの手で初めて稼ぐ。
不安は少しだけあったがお酒を飲めて男とくっちゃべるだけでお金が貰えるし、早起きしなくて済む、そしてコンビニの店員や事務職よりかも給料がいい、おいしい仕事という認識でいた。
金髪ロン毛男が美穂に説明を続ける。
「普通ね、他店では体験入店ではちょっと手数料をお店が多めに取って給料を全額女の子に渡す。そして日払いでは満額渡さずに上限1万円、どんなに良くても1万数千円、良くても1万5千円までと一部しか女の子に支払わない店が多いしほとんどなんだよ。でもね、ウチは違うよ。体験入店以降もきっちり希望があれば全額女の子に渡しているんだ。店を辞めた後に給料を取りに来るっていう手間がお互いに省ける。それに辞めた後の子たちってだいたい自分が見積もっていた金額よりかも少ないってケチつけるんだよ。それが双方に良くない。キレイさっぱりその場で精算、辞めたい奴は追わない」
その話を聞いて美穂はなんて親切な店なんだろうと感じた。
「私、バックレたりしません。ここで頑張ります」美穂は本心だった。
「うん、ありがとう、モカ。いい子だ、俺が絶対にモカを売れっ子に育てるからな」
金髪ロン毛男は続けた。
「ここはな、八王子という場所で客層は上品ではない方が集まる場所だ。銀座や赤坂、六本木、歌舞伎町、渋谷、それどころかあの昔の西川口よりかも劣る客層だ。わからないと思うけどそのうち理解できるようになる。モカはここが初めての店だからピンと来ないかもしれないけどな。他店を経験してきた店の女の子に話を聞くようになると思う。でもその分給料がいい。他の店よりかも多少苦労する。あと、知的な会話なんてここの客は一切求めちゃいない。俺達も女の子達に知性や教養なんてものを磨け、ニュースを読めなんて言わない。バカ騒ぎして酒をガンガン飲んでボトルを空にして酔っ払って売上に貢献してくれる子を求めている。わかるな?」
美穂は黙って頷いた。
「接客のコツなんてない、あってないようなものだ。ただ席でゲロ吐くなよ。それくらいだ。ウチは他店での経験や常識がほぼ通らない店だ。覚えておけ。アフター、同伴、積極的にしろ。そして最初は場内指名取れるようになれ。ひたすら酒を飲んで男に甘えろ、それでここは楽しい場所だって思わせろ。それでいい」
そんなんでいいのか、美穂の正直な感想だった。ネットで調べたキャバクラの仕事イメージとはかけ離れていた。
お酒を飲む、たくさん飲む、それでいいのか。美穂はこれなら気張る事はないと安心した。
「じゃあ、そろそろ女の子達が出勤しだして集まるからミーティングやるからその時にモカの事を紹介簡単に紹介するから。みんなの前で軽く自己紹介だけしてね。ウチは女の子同士、ケンカは困るけどつるもうが一匹狼通そうが店側は口出さないから好きにしろ」
ここで美穂は我にかえった。あ、そっか他にも女子が居るのか。自分だけじゃないんだった。すっかりその事を忘れていた。
ほどなくして店のドアが開く音がした。「はあーあ。おはようございます」あくびをしながら黒のスウェット姿のロングヘアの女が入ってきた。
「おはようございます。眠そうだね」店の男のひとりが挨拶を返す。
「これから着替えて化粧して髪やるから控え室閉めるね」
「了解」
それを聞いた美穂は、なんだ着替える所あったんだと初めて知らされた。まあ、いっか今日のところは誰にも見られてなかったみたいだし。すぐに気持ちを切り替えた。過ぎた事はどうでもいい、美穂は物事に関して無頓着だった。これまでの人生で後悔も反省もほぼした事なんてなかった。
それから数分後に次々と女達が覇気のない声で挨拶をしながら店に入って来た。一気にその数は20人ほどに増えた。結構女の子達が居るんだ、ここって。
そこまで広くはない店内に20名の女性達、そして黒服が8名ほど。店の規模としては大きいんだか小さいんだか美穂にはわからなかった。
最初に着替えていた女が控え室から出て来た。美穂はその姿を見て目を疑った。へ?さっきとまるで印象が違う!全然、別人。
器用にアップされた髪の毛にまつ毛がバサバサの派手なアイシャドウで彩られた目元、暗い場所でも目立つ明るい口元。かわいいとかそういう印象はない、ド派手さばかりが強調される。顔ばかりに目が行ってしまう。着ているものは店に置いてあったのであろう真っピンクのミニのドレス。次々と派手な格好の女達が店内の中央テーブルに集まる。
丸いテーブルが広い半円形のソファに4つ並べてあり、そこを中心にきらびやかな女達が座る。単体で見ても迫力あるけど、集まると圧倒される。美穂はさっきまでの安心感は消え失せ、ここの中でどう見ても地味で全く目立たない自分は浮いてないだろうか?と居心地の悪さを感じた。逃げ出したい訳ではないけど、この人達に対抗出来るの?不安がよぎる。
「ねえ、もう少し右に詰めて。ここみんなで座る場所で狭いから」少しきつめの口調が美穂の隣に腰掛けていた女から聞こえ思わず左側に詰めてしまった。
「ねえ、バカなの?右って言ったの。そっちじゃない、逆日本語通じる?」先程より更にトゲのある口調が飛んできた。
あ、と声を出したつもりだったが実際には声になっていなくて無言で席を詰める形になってしまった。
「ねえ、感じ悪くない?言葉通じないし、フルシカトだし」
しょっぱなから敵を作ってしまったかと美穂は少し動揺した。どうしよう、今日初日なのに誰も助けてくれない。ここは謝るべきなのか、でももっとつけ上がって来そう。美穂はその女をジロリと見た。目が合うと「大してかわいくもないじゃん」とまで言われた。その一言で美穂の中で怒りの感情とこんな奴に負けてたまるかという気持ちが芽生えた。
このクソ女、絶対に見返してやるからという思いでいっぱいになった。
「はい、始めます」店長が売上目標を読み上げ、今日も頑張って店に少しでも貢献して下さいと客が開店1時間過ぎても少なかったら各自で営業電話、メッセージをして呼び込んで下さいと大きめの声で話す。誰一人として返事はしない、気だるそうにしているだけだった。
「では今日の体験入店の新人さんを紹介します。モカさんです」
あ、私か。急にふられたので美穂は驚いた。まだモカという源氏名にも慣れていない。
「あ、あの、モカです。よろしくお願いします」とだけ挨拶し美穂はすぐに下を向いた。その様子を見て店長が「はい、拍手。よろしくね」と言うとまばらに仕方なくといった具合のお愛想拍手が送られた。とてつもなくシラケているな。こんな拍手ならない方がマシだと思ったくらいだった。
「はい、では、本日もよろしくお願いします」の挨拶でミーティングは締められた。
これってやる必要あるの?美穂は疑問に感じたが口には出せなかった。さっきのつまらないミーティングで眠気に襲われた。朝割と早く起きて新幹線に乗って長距離移動してそれから夜中の1時まで出勤。
長いな、でもお金がない。だからどうしても今日から働かなければならなかった。美穂はここで初めてこれからは自分でお金をどうにかしなくてはいけないのかと気落ちした。自分で選んだ道だ。ただ家を出てからすぐに働くっていうのは辛いな、せめて翌日からにしておけばよかったかな。明日からがよかった。と弱音と不満が沸き起こったが、あ、そうだ、お金がなかったんだった。と思い直した。
泊まる所がない、正確には宿泊出来る場所がわからなくてもし仮に探し当てたとしても予算が払えるかわからない。寝る場所がない状態で上京してしまった。
体験入店するならすぐに寮に泊まってもいいよと言ってくれたのはこの店しかなかったのだった。
美穂は事前にキャバクラの店を探して面接を受けたのではなかった。
新宿、歌舞伎町に降り立つつもりで居たが新宿がよくわからず八王子駅に降りてしまった。
歌舞伎町という駅があるものだとばかり思い込んでいたからだった。
しかし、八王子駅に降りてみてここが美穂が求めていた大都会の街、東京だと信じて疑わなかった。
スマホで「キャバクラ 寮付き」という条件でで現在地から検索するで数店舗見つけ今の店にたどり着くまでに6軒に断られていた。
どの店も「体験入店は当日オッケーだけど入寮は正式入店してからになるから今夜はホテルにでも泊まってくれ」と口を揃えて言われた。
家族や友人以外に電話などかけた経験もなく敬語もロクにつかえず、事務的な口調で対応されたのも今日が初めての事だった。
もっとハードルが低いと思っていただけに美穂は世間の厳しさを感じた。3軒に断られた時に絶望的にもなった。
今まで社会経験もなく学校の担任が勧めた就職活動にもひとつも参加して来なかった美穂にとっては味わったことの無い苦労だった。
さっきよりお腹が空いてきた、まだ眠気が残っている。稼がなくちゃ、ぼんやりとした頭で考えても整理がつかない。
客層ってどんな人が来るんだろう。うまく話せるかな?一緒にお酒を飲めばいいんだよね。また頭の中で疑問を巡らせる。
ここに居る女子ってみんな経験者達かな、どうみても素人っぽくない、電車の中や町中で歩いている人達と人種が違う。こんなメイクと格好で外を出歩く人達なんて見たこともない。どこか擦れているというか純粋という言葉がまるで似合わない人ばかりだった。
美穂はまだ店内の雰囲気に慣れずに居た。
やっていくしかない、ここで給料を貰うんだ。お金がないって心もとない気分になるんだな、人生で生まれて初めて味わう感情だった。
美穂は少しずつ周囲を観察するようにした。まず、女子達の持ち物。グッチ、ルイ・ヴィトン、クリスチャン・ディオールなどの誰もが知っているブランド物の小さなバッグを膝やテーブルの上、自身の左側に置いている。みんな揃ってその中からタバコとライターを取り出し一服している。
口紅を出してその場で化粧直しをする人達も居た。
美穂は相手と目を合わせることがないように様子を盗み見た。そのうち、ひとりと目が合う。
「あれ?バック持ってないの?」と声をかけられた。
「あの、その持ってないです。何も」
相手が明らかに年上だと判明したので慣れない敬語で答えた。おっかないな、この道何年になるんだろうという雰囲気の女性だった。
「化粧ポーチでもいいから持ってきな。その中に吸うんだったらタバコとライター。お客さんがタバコを出したら私達が絶対に火を点けなきゃいけないから吸わなくてもライターは持っていなきゃだめ。あと簡単なメイク用品。早く、急いで用意して持ってきな。接客始まったらトイレ以外でなかなか席立てないから。あとスマホもね」
「あ、はい」
美穂は初めて人に優しく接してもらったと感じた。悪い人ばかりでもないんだな。やっていけるかもしれない。美穂は気持ちがほぐれた。
急いで席を離れバッグから紫色のノーブランドの化粧ポーチを取り出し、口紅以外の化粧品をバッグに押し込み、タバコとライター、スマホを入れて席に戻った。あ、席がない。ほんの数分離席しただけで元の座っていた席がなくなってしまった。
譲ってほしいとも言えずに立ち尽くした。すると先程の女性が美穂が突っ立っている様子を見つけ「あ、ねえねえ、そこごめん。今日の新人ちゃんに座らせてあげて」とさっきとは違う場所のスペースの女子達に声をかけて美穂の座る場所を作ってくれた。
お礼を言おうとしたら「あのね、新人ちゃん。こういう所ではね、自分の意見やしてほしいこととかハッキリ自分の口で自分から言わなくちゃやってけないよ。今日だけだからね、助けるのは。そういう所は昼職よりかは厳しいけど自己主張しない受け身でただ待っているだけの子って誰からも相手にされないから、よく覚えておいて」
「わかりました。ありがとうございます」
それだけ言うのがいっぱいいっぱいだった。
「は?待って、見て、これ。何この貧乏ポーチ」
席をつくなり新し目のクリスチャン・ディオールの小さなバッグを持つ女子から美穂の持っていた安い化粧ポーチをけなされた。
「あのさあ、これはないんじゃないの?この店は高級店ではないけど汚いと感じさせる身なりとか生活臭のするものはどの店でも厳禁だからね。今日1日これで過ごして恥ずかしい思いしな。恥かきな。それですぐに高くなくてもいいけど最低でも5千円はする小さいバッグ買いな。小物入れ必要経費だからね。こんな色褪せて趣味の悪いいかにも安物の小学生でも持たないような布切れポーチ。そんなの持っている女に誰が名刺渡したい?どの男が大金落としてやりたいって思うわけ?そこいらにいる安物漁る貧乏主婦と話に来ているんじゃないのよ。飲み屋に来る男って。何もわかってないようね」
美穂はみすぼらしい姿を侮辱され目頭が熱くなった。もう嫌だ、お金がないって、辛すぎる。こんなバッグの準備なんて聞いてなかったし、知らなかった。
お金があったら今すぐにでも店を出て買いに行きたい気分だった。
みんながキレイなブランド物のバッグを持っているという事実、それに打ち負かされて何も返せる言葉がない。ここだけは現実を受け入れるしかなかった。
悔しかったが汚い安物のポーチしか持っていない己の完全な負けだ。認める他ない。
負けないという気持ちにもなれなかった。紛れもない事実だったから。
寝る所はなんとかなる、今日食べる物もどうにか出来る。コンビニでインスタントラーメンを買えば済む。
初給料は明日の昼間にバッグ代に消えるのか。
一体いくら稼げば不自由のない生活が送れるようになるの?美穂にとってそれは途方のない遠い道なりに感じた。
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