京都の人魚姫

和泉かよこ

第1話 海(京都)からの脱出

 美穂は高校をかろうじて卒業した後、「さきちゃんのところに行ってくる」とだけ言い残しバッグひとつで陽子の元を去った。


 この中には2枚のバスタオル、実の両親からもらった写真8枚、義理親の通帳といくつかの印鑑。とりあえず「松井」名義のものをふたつ。認印だか実印だかも知らない。

そしてブラジャー、パンツ、安い化粧ポーチ、財布。クレジットカードなんて持ったこともない。バッグの中身はこれだけ。今の美穂にはこれが全てだった。

あんまりバッグが膨れていると陽子に小言を言われる。


 とにかく現金、3万円だけを財布に入れた。あの陽子という女は何かあればすぐに万札3枚を美穂に用意する。

「さきちゃんのところに行くなら」「ああ、あの子の家は貧乏だから3千円でいいわ」と言った具合に。

美穂は毎週3万3千円には困った事がなかった。


 美穂は京都のローカル線から東京行きのチケットを現金で買った。残り1万円弱。とにかくここを出よう。もう二度とこんな窮屈な生活は嫌だ。義理母である陽子と美穂に全く無関心な義理父の亮から逃れたかった。東京と書いてあればどこだっていい。

美穂は初めて、18歳にして仮ではない、二度と戻らないと決めた、最後の家出を決行した。

 いつも美穂が陽子とケンカして家出をしても、陽子の財力でいとも簡単に見つかり、マッポに陽子が必死に頭を下げて、最後に亮の名前を出して、なんのお咎めもなしに揉み消される、家出。今回のそれはいつものとは違った。

そんな不自由に美穂は飽き飽きしていた。

 今度こそ、探さないで欲しい。置き手紙もなしに美穂は陽子の元を去った。生まれて初めての本当の家出。捜索願なんて出したって、世間体を気にする亮から取り下げられるに決まっている。決まり切った家出だったけど、美穂にとっては一大決心だった。

これ以上、ここに居たら私は窒息死してしまう、そんな思いが何年も積み重なっていた。

 電車に乗り込んだ美穂はなぜか泣いていた。自分でもわからない、嬉し泣きではない。こみ上げる感情を美穂は自身でうまく処理できずにただ涙を流した。

海の見える町がどんどん遠のく。「これでいいんだ。思い残す事なんて何もない」美穂は手で顔を擦って涙を拭った。


海がすぐ近くにあるこの小さな町。小学校の授業は魚を3枚におろす、潮干狩り、など漁師の家庭なら誰でもできる内容だった。刺し身なんて嫌になるほど食べた。

陽子は近所からよく魚を貰って来ては「こんな生臭くてまずいもの貰ってもね。美穂ちゃん、これさばいてちょうだい。美穂ちゃんが切ってくれたなら、ママ喜んで頂くわ」それを聞くたびに美穂は嬉しいような、反吐が出るような複雑な気持ちで魚をさばいてやった。

これは、あの義理母の為にやっているんじゃない。本当の生みの親の為にやっているんだ。だって陽子は亡くなった両親が私を託した人だから。


なんでこんな事を急に思い出したのだろうか。美穂はため息をついて首を横に振った。だめだめ、気を取り直そう。美穂は自分を奮い立たせた。

とにかく、私は見知らぬ街、東京に行く。美穂はただ覚悟を決めて、東を目指した。

とりあえず東京に行く。東京と言ったら新宿。夜の街、新宿、歌舞伎町、そう、それだけ。

美穂は期待で胸がいっぱいにふくれた。


ところが美穂はいったん新幹線の終着駅である東京に着いてド肝を抜かれた。忙しく行き交うスーツを着たビジネスマン達の姿に圧倒された。東京ってこんなに人が多いの?み、みんな誰も私の事を見ていない。

一度東京駅の八重洲口に出たものの、どこに行ったらいいのかわからなくなってしまった。

「とりま新宿で降りよう」でも美穂は切符の買い方がよくわからなかった。千円までの切符を買おう。美穂はJR中央線に乗り込んだ。新宿にはあっという間に着いたが、そこを美穂はまだ東京駅の一部だと勘違いして乗り過ごした。

あれよ、あれよという間に八王子に着いた。美穂は固唾を飲んで八王子駅に降り立った。

「これが東京?すごい、なんでもある。何でも揃っている!私は東京に着いた、辿り着いた」心臓がバクバクし興奮していた。

八王子には美穂みたいなヤンキーだかチンピラ、やからもどきがゴロゴロ居た。美穂は八王子に着いてあまりの都会さに驚いた。ここが私に新しい居場所だ、大興奮だった。


 手っ取り早く大金が稼げる、寮付き、住み込みOK、即日現金払い、18歳以上、親に絶対に連絡しないという条件なら、キャバクラしか美穂には思いつかなかった。


美穂は身なりひとつでまだ男たちしか居ない薄暗い窓がないバーに緊張しながら入った。ナメられてはいけない。脚が震え出した。その様子を悟られないようにしないと。今度は手が震え始めた。頭の中では落ち着かなくちゃ、焦っちゃだめと思えば思うほど身体は言う事を聞かなくなる。気持ちに身体がついていかない。


「あ、さっき電話くれた子ね。とりあえず、適当にその辺にある白いドレスだったら着ていいから。ウチの店では新人の初日は白って決まっているの。化粧はまだ若いから自分でなんとかしてね」顔も見ずに言われた。その中年の黒服は偉そうな態度だった。こんな人ばかりなのかな?さっそくナメられてしまったか。美穂は落胆した。自分を強く持たないと。唇を噛みしめた。


美穂はビビリながらも言う通りにした。やや埃っぽい衣類の山から着る物を探す。そこには白以外にも黒、赤、青などの原色の派手な衣服が畳まれもせずにグチャグチャに置いてあった。白、白だよね?美穂は絡まる衣装から指定の色のドレスを探す。あった、これでいいかな?やっとの思いで見つけ出した白いドレス。胸元にスパンコールと大きめのビーズがついていて表面はツルツルとした肌触りのナイロン生地のスリットの入ったロングドレス。

どこで着替えるんだろう?男たちはそんな美穂の気持ちなんて察する事もなく、黙々と記帳したり、グラスを磨いたりと各自が忙しそうな様子で美穂は声もかけられなかった。

仕方なく美穂はその場で着替え始めた。

男たちは美穂が着替えている事なんて気に留める事もなかった。メイクしなくちゃ。美穂は安いコスメポーチからプチプラの化粧品でメイクをした。ファンデーションにアイブロウ、チーク、アイシャドウ、アイライナー、マスカラ、口紅、これでいいかな?自分ではかわいく仕上げたつもりだったがみんなの反応はどうだろうか?またひとつ不安になった。


先程の偉そうな態度の中年の黒服は着替え終えた美穂をやっと見た。その男は美穂の姿を見ても表情も変えず、眉ひとつ動かさない、無表情だった。その態度が美穂をまた不安にさせる。似合ってなかったかな?私変かな?またまた美穂の中に不安が広がる。


「ま、体験入店だけど、お金はちゃんと出すから。あと住み込み希望だよね?印鑑持ってる?見た感じどうせ田舎からの家出娘だろうけど、ウチはどんな電話がかかってこようが、その辺はうまく交わすから大丈夫だよ。心配しなくて。ま、18の小娘でしょ。どうせ高校たってろくに卒業してないんだかしたんだかこっちのしったこっちゃないけど。18歳なら結婚できる国なんだから中学生の義務教育のクソガキじゃなければいいよ。ここはヤクザの溜まり場、他店で入店お断りされた人たちが集まる場所だから誰も気にしちゃいないから。で、源氏名何にする?」

美穂はきょとんとした。

「おいおい店長、田舎娘の新人にいきなりこれはキツくないっすか?」

若い金髪のロン毛男がフォローを入れた。

美穂はその男に心が傾いた。海のある京都の地元の町にはまず居ないタイプ。かっこいい、都会の夜の大人の男。ドキドキと胸が高鳴る。一目惚れのような感覚に陥った。


男は続けた。

「美穂、美穂ちゃんっていうんだよね?ウチの店にもうミホちゃんっていう子が居るから、ミホちゃんって名前はヤバいんだ。だからさ、こっちに来なよ」


金髪ロン毛男は美穂の手を引いた。手を握られて美穂は心臓が飛び出そうになった。手のひらからこの緊張が伝わってしまったらどうしよう!そんな口にはできない思いでいっぱいになった。男と手ぐらい繋いだ事は美穂にだってある。今はその時とは比べ物にならないくらい動揺している。

男は美穂を店の端のテーブル席に座らせた。「これ飲んで」男が差し出したグラスのマドンナに美穂は口をつけた。大人の味がする。

「美穂ちゃんってさ、俺、美穂って呼んでいい?今だけ。何が好きなの?」

男は美穂の目を覗き込んだ。美穂はそれだけでさらにドキドキが強くなった。

どうしよう?美穂はグラスのマドンナを一気飲みした。ずっと緊張が続いていたのとこの目の前にいる男に惚れてしまっているのと空腹で酔いが一気に回った。

「カフェモカ。何が好きってカフェモカ。カフェラテでもなく、カフェオレでもなく、ただのカフェモカ。ココアじゃない」

一気に答えた。男は黙って頷き、セブンスターに火をつけた。二口ほど吸ってからそれを美穂に差し出した。

「これでも吸いなよ」美穂にとって初めてのドキドキするタバコの間接キスだった。大麻の吸い回しなんて15歳の時に数回経験済みだったけど、こんなにも気持ちが入った本当に惚れている人とはたかだか間接キスだけで幸せなでも緊張するものなんだと生まれて初めての自分の感情についていくのだけで精一杯だった。美穂にとっては大胆なことだった。


セックスはした事はないけど、挿れる以外の事は美穂はとっくに済ませていた。

好きでもなんでもない男とのキス、裸になって胸や乳首をいじられたり舐められたり、パンツに手を入れられて触られたり、指を挿れられてその様子をスマホのカメラにおさめられてお金を受け取る事を地元でよくしていた。

その中には年が二回り以上離れた男や60代以上の老人ばかりだった。美穂にはその時罪悪感なんてものはなかった。

たまたま中学生に上がってから制服姿でフラついていたところに自分の父親くらいの男にお小遣いやるからこっちに来てと誘われその男の車の中で制服を脱いだのが始まりだった。

それがファーストキスだった。唇を押し付けられて舌を入れられ歯や歯茎を舐め回される。その間に制服を脱がされその男は美穂の体中にキスしたり手で撫で回したり写真をひたすら撮り始めた。一時間くらいで美穂はその中年男から2万円を受け取った。

その時は気持ちよさは全くなかった。正直、最初のキスは気持ち悪さも感じたくらいだった。パンツを脱がされて指を挿れられた時は正直驚いたがでも数分いじられている間に慣れてしまった。

たったこれだけのことで裸になって体を舐められて触られるだけでお金が貰えるのならいいやって思っただけだった。

それからその中年男との関係は数回続いた。4回目くらいの時に初めてその男の下半身に触るように促された。めんどくさかったけどお金くれるならいいやと割り切り触り出した。

その時初めて男性の性器が大きくなるのを見た、絶句した。

「咥えてくれる?」中年男は美穂の頭を自分の体に押し当てた。「もっと舌を使って」何度も何度も美穂にそう言い美穂の頭をずっと離さなかった。

地獄だった。20分は頭を押し付けられていた。そしてその中年男は美穂の口の中で射精した。「ああ、ずっと抜いてなかったからたくさん出ちゃったよ」満足そうに言い放った。

美穂は精液を吐き出した。すっごく気持ちが悪かった。それにこんなのが自分の中に入るのなんて想像できなかったし、したくなかった。

その日は美穂はいつもより多くの現金を手渡された。6万円だった。この金額ならいいやと美穂はすぐに嫌な気持ちを忘れた。

そしてまだ関係は続いた。でもこいつに処女をあげるのは嫌だなと感じ、挿れてもいいかと言われた時は断り続けていた。ついにしつこく迫られ無理やり挿入させられそうになり、縁を切った。

そして別の男たちともお金を受け取って、挿れる以外の行為に及んだ。金額は下がったが美穂はあまり気にしなかった。

いつしか美穂の中で男は身体を求めるのならその対価を支払ってもらうものと思うようになり、お金が払えない同学年の男たちに興味を失っていた。好きという感情を抱いた事もなかった。一度、お金持ちの全く経験のない同級生を誘ったが1円も払ってもらえず、請求したらその男子学生が担任の先生に言いつけ、美穂と陽子は学校に呼び出しをくらった事があった。それ以来、美穂はお金を払わない男をますます受け入れなくなった。

ところが、狭い地元で美穂が年上の中年男たちに車内で行為に及んでいるという噂が広まり、「散々やることやっているんだろ?タダでヤラせろ」と注文をつけられ始め嫌になり、その方法で稼ぐのをやめた。


美穂はこの金髪ロン毛男にだったら何をされてもいいと思った。ボーとした頭でそんな事を考えていた。

美穂がセブンスターを吸っている間中、その男はずっと美穂の事を静かに見つめていた。灰皿に吸い殻を押し当てたら男が口を開いた。美穂がタバコを吸い終わるのを待っていたようだった。その気遣いにも美穂は嬉しくなった。


「じゃあさ、美穂、俺、これでお前の事を美穂って呼ぶの最後にする。モカね、モカ。モカちゃん。俺だけのモカちゃんじゃない。みんなのモカ、モカちゃんになるんだよ。わからない事があったらお店が終わってから俺が面倒みるから。な、モカ」

美穂は完全にこの男に落ちてしまっていた。こんな小娘を喰うなんて金髪ロン毛男にはたやすいものだった。ああ、こいつ処女だ。まただ、いただき。そんな調子だった。


30分かけて美穂の処女を奪う男が店のルールを教え込んだ。

「お金は全額日払い、週6勤務ね。最初はキツイかもしれないけど、モカには若さとなんたってこの顔とスタイルがある。俺のフォローで長く働けるようにしてやる。とにかくフリーの先行につけさせる。それで俺がモカを店のナンバーワンにしてやるから。延長の間際になったらボトルを入れろとは言わない。カクテルを頼んでいいですか?って甘えろ。俺だってモカが他の男に甘える姿を見るのは辛いよ、でもな、こんないい女モカを俺ひとりで独占はできない。だからとにかく、帰り際に客、男の気を引け。触れ、頭でも手でも差し出せ」

金髪ロン毛男は熱心に美穂に教えを説いた。

それもそのはずだった。自分が担当したキャストが長く務めたり、店の売上を上げたら上げた分だけその何割かが黒服の給料に反映されるのだから。

すぐに辞められてしまうと困るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る