第2話 ありがとう、さようなら
僕らは二人で滑り台に行った。最初に彼が滑り台を登ってゆく。何百回と滑っているというような動きで、両足を前に投げ出した慣性をそのままに下り坂に突入し、小さい体はすうっと流れるように、髪の毛を後ろになびかせながら降りて、また慣れたように両足でトンっと着地する。次いで僕が滑る。子供の時以来のすべり台。なんか足がつっかえて、上手く滑れない。足を伸ばすとバランスはとれないし、坂の幅が狭い。ゆうせいはそんな僕を見て笑っている。もう一回!
僕らは何度も何度も滑った。ただ滑ってるだけなのにとても楽しい。自分が子供の頃遊んでいた時のような気分になれる。そんな昔のことは覚えてやしないんだけど。でも、僕でも滑り台で遊んで良いんだって全面的に肯定されてる気分がするのが最高だ。みんなが知らない国のパスポートもらった気分で、公園の中はゆうせいの国なんだ。国王と一緒に遊べるなんて、さながらVIP待遇だね。
僕は何度も滑るうちに徐々にバランスがとれ、すいっと降りられるようになってきた。こうなるとただ滑るだけでは足りない。ゆうせいに言って二人で連結して滑る事にした。最初は僕が膝を曲げて足の間ににゆうせいが入るようにした。しかしこれは狭すぎて途中で二人はつっかえた。なので今度は僕の足を伸ばして、上にゆうせいを乗せてしまう。
二階建てのコースターはスピードが増して一気に駆け降りた!ゆうせいは嬉しくて、もういっかい!もういっかい!とせがんでいる。よっしゃやったる!もう一度、ゆうせいを乗せて。ひゅん!地面まで下ると、降りた勢いでゆうせいは僕の体が発射台になったようにぽん!と前に飛び出す。いいね。じゃお兄ちゃんがもっと勢いよくやってあげる。と言って二人でもう一回。
滑り台の上に二人で駆け上がり、ゆうせいが僕の体の上に飛び乗る。小さい体とはいえ遠慮なしに体重が移動してくるのはなかなかの衝撃だ。僕の上にゆうせいが座る。顔にゆうせいの後ろ髪が触れ、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。
それっ。一気に下まで滑り降り、最後の地面と平行になるところで、僕の腕で半ば抱えるようにゆうせいを掴み、慣性を利用して前に押し出す!まるで小さなスキージャンパーのようにぽーんと前に飛んだゆうせいは、うまい具合に1メートルほど先で着地。上手くいったことに喜んだゆうせいは、しっかりポーズまで決めている。
「すごい!飛んだ!いっぱい飛んだ!」
まるで漫画のように飛び跳ねて喜ぶその様を見た瞬間、僕の心にまたツキンっと棘が刺すような痛みが走った。なぜだろう、この楽しい瞬間に?
そんな気持ちとは裏腹に、ゆうせいの純粋な笑顔が、僕の心の奥でノスタルジックな追憶と感傷のメトロノームを明滅させた。フラッシュバックする景色……それは、十年以上掘り起こせなかった父との記憶……大勢の大人たち、知らない風景、知らない建物、食べきれなかったラーメン、煙突の煙、マイクロバスに乗る父と僕……持たされた恐竜のおもちゃ……
「どうしたの?」
動きを止めた僕にゆうせいは戸惑った様子で話しかける。
「なんでもない、さ、もう一回やろう」
「うん!」
ゆうせいは満面の笑みでうなづく。
ぼくは何度もゆうせいを膝の上に乗せ、滑り台をカタパルトに見立てて発射を繰り返した。とても楽しかった。ゆうせいも楽しんでくれた。それがとても嬉しくて、満たされた感覚を味わわせてくれた。ただ一つ、心の痛みを除いては。
ゆうせいは立ち止まって空を見ていた。
「見て、オリオン。」
今夜もゆうせいはあの星座を見ている。
「ああ、今日はすごくよく見えるね……オリオン好きなの?」
そう聞くとゆうせいは、ちょっと表情が変わった気がした。答えに困ったみたいに。
まあ星座なんて好きであろうが興味なかろうが綺麗に見えるものだし、関係ないか。
滑り台でハッスルしたせいか汗をかいた。一旦コートを脱ぐ。
「お母さん」
ゆうせいが言うから僕はハッと振り向いた。
いつまで経っても帰ってこないゆうせいを、遂に母が迎えに来たのだと思った。
しかし道路には誰もいない。どこを向いても僕ら二人以外だれもいない。ゆうせいはというとずっと空を見たままだ。
「ゆうせい?」
--彼はじっとオリオンをみつめていた。そして言った。
「お母さん……来ない」
ゆうせいがそう呟いた時、僕は突如平衡感覚を失うほど目の前がぐにゃっと揺れる感じがした。ゆうせいのその一言は僕の心の中のナイーブな部分がいきなり槍で突かれたような衝撃があった。思わず後退り、膝に手をついた。なぜ……?ゆうせい、君はいったい……?
「お母さんはいつ帰ってくるの?」
そう言うゆうせいは口を結び、泣きそうな表情になっていた。
「ゆうせい……」
彼はいきなり走り出した。右腕に顔をうずめながら走っていく後ろ姿は、どうやら泣いているようだった。僕の感情は急に真っ黒の霧が渦を巻き始め、いろんな慰めの言葉と、思い浮かぶ疑問が衝突し合い、その後ろ姿になんと声をかけていいか分からなかった。
ゆうせいは”長靴”の中に入って行った。中から啜り泣くような声が聞こえた。子供っぽい、しゃくりあげるような声。子供の泣き声がこんなに僕の気持ちを抉るだなんて!僕はいてもたってもいられず、ゆうせいを慰めようと長靴に向かった。長靴の中から、反響するように泣き声が響いている。
「ゆうせい、お母さんが遅いなら、一緒にいてあげるよ。お母さんが来るまで、二人で待ってよう……」
そう言いながら中を見ると、誰もいなかった。
長靴の中はがらんどうで、今この瞬間まで反響していた声もろともゆうせいは手品のようにいなくなっていた。ゆうせい!と叫んだ僕の声だけが寂しく反響した。外に出て周りを見渡す。が、いない。昨日と同じだ。気のせいだと思った。いや昨日はそう思おうとした。でも、これは、「消えた」としか言いようがない……
「ゆうせい、どうして……」
頭の中が混乱していた。取り残された寂しさ、子供を失ったような悲しさ、騙されたような戸惑いが次々に沸き起こってきた。だが、徐々に虚しさに支配され始めた。
見上げるとオリオンが煌々と光っていた。僕は走り出した。早く帰ろう、と思った。
ベンチに戻ってコートとリュックを掴んだ。そこには封の開けられていないサンドイッチがそのまま置かれてあった。さっき一緒に食べたはずのサンドイッチが。
次の日は日曜日だった。昼過ぎまで布団から出ずに、天井を見上げたままこの二日間に起こったことを思い出していた。夜、公園で一人佇む彼に声をかけた。一緒にかくれんぼをした。次の日もそこにいた。いっしょにご飯を食べ、滑り台で遊んだ。楽しかった。
僕はゆうせいと一緒に空を見上げ、オリオン座の瞬きを見た。彼はオリオン座が好きなわけではなさそうだった。あの星はお母さんと関係がありそうだった。そしてお母さんは彼を迎えにきてくれない。
テーブルの上にはサンドイッチがある。ゆうせいが昨日食べたはずのサンドイッチ。僕は布団から出て、シャワーを浴び、髪を乾かした後、カフェオレを淹れて、椅子に座った。目の前には、やはりサンドイッチがある。
手に持って、封を開けてみた。中からトマトやレタス、ハムとチーズが挟めてあるパンの三角切りが出てくる。齧ると、昨夜ゆうせいが味わったはずの味が広がる。--僕は滑り台で、彼の体重を感じた。体温を感じた。彼の匂いを嗅いだ。………でも、どう理論的に考えても、いないのだ。どんな理屈をこねても、彼はそこには存在し得ないのだった。
そして、僕はもう一つ疑問を抱えていた。ゆうせいと二人でいる時に現れる胸の痛み……頭が、脳が、揺れるかのごとく巻き起こる、心の激しい動揺。なにがそれほどに僕を動揺させるのか。古傷が呻くような、脳内の何かを開けられたような音までした。ただ僕にはそれが何なのか分からないのだ。何かがまだ出てこないのだ。
何らかの答えが知りたかった。僕はコートを着て外に出た。あの公園に行きたかった。既に夕方、時間は午後六時。冷たい風の吹く曇り空の下のあの公園は、利用する人もなくただ木々が揺れているだけだった。何の変哲もなく滑り台も長靴もそこにあり、登校前の教室のようにモノだけが佇んでいる。
僕は長靴の中をのぞいてみた。もちろん誰もいなかった。怪談話と思うには生活感がありすぎ、心霊話と思うには楽しすぎた。足の向くまま気分のまま駅前まで歩いた。明るいうちは営業時間外のお店が多い商店街は静かで、ストリートオルガンの音がよく聞こえていた。
歩いても何も考えられず、何も思い浮かばないままオルガンの音に吸い寄せられてゆく。今日は歌担当の少女はおらず、髭のおじさんが一人でハンドルを回し続けている。ゆうせいの面影に手廻しオルガンの音色は妙に合っていて、僕はしばらく駅前広場の花壇前のベンチに座って聞き入っていた。
名前も知らない懐かしい曲……なぜか心が遠くに連れていかれそうになる。ゆうせい、僕に何かしてあげられることはなかったのかい?助けたかったんだ。君を。冬の夜に一人で公園にいる君を。その綺麗な笑顔を。君はなぜ僕の前に現れたんだ?君のお母さんに何があったんだ?
何が?なぜ?どうして?
急に頭の中で何かの錠前が開く音がした。よく古民家にある、使われずにいたため半ば風景と化した古い大きな金庫の錠前が音に反応して突然開いたような感覚だった。
この手廻しオルガンの音は……”聞いたこと”があるんだ。「どこか懐かしい、ノスタルジックな音色」じゃなく、”僕にとって本当に懐かしい音”なんだ。この音は、時空を超えて記憶の扉を開けつつあった。脳内の点と点が手を伸ばし、指先が触れ合いそうになっている。ただ、まだ何かは分からない。が、何かが出かかっている。
僕は居ても立ってもいられずその髭のおじさんに近づいていった。僕が近づいてくるのが見えてとおじさんは怪訝な表情でこちらを向く。それでも僕がさらに近づいてくるのでオルガンのハンドルを廻す手を止めた。
「演奏中にすいません。聞きたいことがあるんです。このオルガン、ここではいつごろから演奏していましたか?実は今、聞き入ってたら、あれ、子供の頃もここでこうしてこのオルガンの音を聞いてたような気がする、なんて思っちゃって。いや思い違いかな?とも思ったんですが、確かめてみようと思いまして。」
そう言うとおじさんは腕を組み、右手で顎髭をなでながら上を向いた。
「んん、そうだねえ。昔っからあっちこっちでやってるよ。日本中旅しながらだから、ね。函館からね、南は長崎までね。駅前に良い広場があるとこって意外と少ないのよ。ここは良いよ。だから何回も来てるね。んー、五、六年に一回は来るね。二十年前からやってるから。どっかで会ったことあるんじゃないの?」
といっておじさんはニカっと笑う。顎髭が怖そうな印象を与えていたが、話してみるととても気さくな人だった。
「たぶん、その二十年前に聞いたことがあると思います。ありがとうございます!」
僕は走り始めた。何かが見えてきたのだ。思い出せなかった記憶のカケラが。約二十年前、幼い僕はこの場所、この駅前広場を歩いている時、足を止め、見知らぬ外国人がハンドルを廻し続けるとアコーディオンのような音楽が流れてくる不思議な光景を、見入っていた。
そんな記憶が今、突如蘇ったのだ。これまでそんな幼い頃の記憶などないと思っていたのに。どんなに引っ張り出そうと思っても出てこなかったのに。そう、それは幼い頃の僕、手を引かれて歩いて、手回しオルガンの音が聞こえて………手? 手だって⁉︎ 誰に?誰に連れられて?僕の手を引っ張ってくれていたのは……たしか……細くて、そして優しい、白い手。
記憶の扉がそこでつかえていた。たのむ。思い出させてくれ。僕の、大事な記憶……
家まで走って戻った僕は、二階に上がり、じぶんのへやを通り越して奥にある今は使われてない日本間に入った。僕の知る限りずっと開かずの間状態(いらないものを放っておくために時々開け閉めはあったが)で、雨戸は閉めっぱなし、通気もしてないせいでカビ臭く、普段から近寄るのも嫌だった部屋だ。久しぶりに引き戸を開けると、案の定、一呼吸ごとに肺にカビの胞子が満たされるような感覚がして、思わず咳き込む。
一旦入り口から近い方の窓と雨戸を開け、外気を取り入れる。冷たい空気と買い物帰りの小さい子を連れた親子連れの声が入り込む。思わず下の道路を覗き込むが、ゆうせいではない。母親と手を繋いで歩く五歳くらいのスカートを履いた子は、楽しそうに角を曲がっていった。薄暗い室内に目を戻す
。ここは六畳間だが畳が見えないほどいろんなものが積まれている。テレビやパソコンを買った時に包装されていたダンボール、父が昔使っていたというワープロ、とっくに壊れているDVDレコーダー。小さい頃使ってた記憶のある角の割れたコタツは横にして立ててあり、空気の抜けたサッカーボール等子供の頃のおもちゃ、他にも様々なガラクタがあった。そして………一番奥の方、押入れの前には、古い和風の鏡台があった。
鏡を支える枠の部分としたの引き出し部分には漆塗りの綺麗なデザインが施されており、もともと母の家に長く伝わる物かもしれないと思わせる物だった。人の胴体ほどもある大きな鏡部分は花の刺繍のある赤い布で覆われており、下の部分には小さな三段の引き出しと大きめの一つの開き扉がある。ずっと変な形の道具入れ、のように思ってたけど、今はこれが女性の使う鏡台だと分かる。ろくに会話もしない父との男だけの人生を送ってきたため、こんなことにも気づけなかった。こんなに身近なところに母の面影があったのだ。
周りにあったガラクタと重くて古いパソコンをどかし、鏡台の前に座る。ふと見ると鏡の真ん中部分で支点になり、そこからシーソーのように角度をつけて固定できるようになっている手回しネジ部分に、小さなカエルのぬいぐるみが引っ掛けられているのが見えた。手のひらに収まるほどの小さなかえる。少しデフォルメされたような可愛い表情がつけてあり、まるで薬局のノベルティグッズのようだった。母が好きなキャラクターだったのだろうか?
視線を落とし、今度は引き出しを開けてみる。埃も何もかぶっていない化粧品のコンパクトや口紅、マスカラらしきものや小さなスポンジブラシといったものがさっき買ってきたかのように乱雑に入っていて、中には値札が貼られていたままのものもあり、この小さな空間だけがタイムカプセルのようだった。
横の扉を開けると中にはドライヤーやカーラーがごちゃっと入っているだけだ。そこは閉め、今度は一番下の引き出しを開けてみる。そこには封筒がひとつだけ置かれていた。ミモザ柄の華やかなプリントがされている女性らしいレターセットのような封筒だった。ただ宛先の欄は白紙で、誰かから送られたものではないようだ。悪いとは思いつつ手に取ると封もされておらず、覗くと中には折り畳まれた紙片があった。
それは画用紙のようなザラザラとしたちょっと厚手の紙質のもので、手紙用というよりお絵かき用で使われるものだ。二辺にハサミで切られた跡があり、大きな画用紙から手紙サイズに切り取られたものと思われる。その紙片を開き、書かれた字を見て、僕は体がカッと熱くなるのを感じた。
「ママへ はやくよくなってね ゆうせい」
数秒間時が止まったようにその文字から目が離せなかった。これは--まちがいなく僕の字だ。赤いクレヨンで書かれたその文字は、いかにも小さい子供が書いたというような、大きくてバランスの悪い、稚拙な文字だった。が、それでも今の僕の書く文字にどことなく通じるものがあった。
おそらく母が闘病していた頃--四歳頃の自分が書いた手紙であろう。幼かった僕が母を心配して書いた手紙--いやメモとでもいうような形だが、母はそれを上品な花柄の封筒に入れ、大切に仕舞っていてくれたのだ。鏡台の一番下の引き出しに、それ以外は何も入れずに。
「お母さん……」
手紙は良い香りがした。鏡台に入っている間に香水の香りが引き出しの中に充満して、染み込んだのだと思う。その瞬間、母の姿が浮かんだ。約二十年思い浮かばなかった母の背中が。母はよく居間でテーブルに向かっていた。座布団に正座して家計簿をつけたり、ミステリ小説を読んだり、裁縫をしたり、毛糸を編んでいる後ろ姿に、僕は後ろから抱きついて構ってもらおうとした。
その時に母の首筋から香ってきたいい匂い……母だ……母の記憶だ!今まで僕は母の存在は知っていてもその姿が思い出されたことはなかった。
小学生の頃はそれで当然と思っていた。しかし思春期になると、母のいないこと、母に愛された実感がないことが、孤独と不安に苛まれやすいこの時期の少年には拠り所のない心理的不安定をもたらした。悩み深い夜、落ち込んだ夕方、その度に心の中で灰色に座り込んだ僕を優しく包んでくれる母を探していた。母を。母の記憶を。母が自分といた証明を。この香水の香りが、朧げながら、子供の頃の微かな生活の一片、小さい頃の僕が見たある日のある光景を、”記憶”というファイル名のない乱雑な情報束の中の、底の底にあった画像を探り当てたのだ。そしてこの香りは……滑り台で遊んだ時に、ゆうせいから薫ってきたあの匂いと一緒だ………
ゆうせい!ゆうせい……君は、君は僕ではないのか?名前が一緒なのは偶然ではなく、君はあの頃……母が病院から帰ってこないせいで、寂しさと悲しみのあまり家出をしたという、あの時の僕なのではないか?突拍子も無い考えかもしれない。安直な思いつきかもしれない。でも、今この数日の不思議な体験の、懐旧の点と追憶の線が繋がり、その確信をもって僕にそう思わせるのだ。ゆうせい、ああ、あの頃の幼き有生……
しかし、それを確かめる術はないのだ。僕は幼い頃の自分の姿を見たことがない。もちろん今まで何度も父に聞いてみたことはあった。結婚してからこっち、写真はいつも母が撮る役目だったという。元来写真に興味のない父は母に任せっきりだったそうだ。しかし、母が亡くなった混乱の中で、カメラも、携帯も、写真のデータごと散逸してしまった。新婚だった時、新米ママだった時、幼い頃の僕、育児に大変だった母、僕と二人で撮った写真、父と三人で撮った写真……何一つ残ってないのだ。
だからあのゆうせいが有生だと確認できる証拠はない。ただ、今ではもう……いや、実は最初から思ってたんだ。ゆうせいは、僕と顔がそっくりだということは。そう、分かっていた。だからこそ”心”が反応していた。突き刺すような痛みを伴って。
僕は画用紙の紙片をたたんで封筒の中へ戻し、胸ポケットに入れた。居ても立ってもいられず、また外へ出た。公園へ行こう。無性にゆうせいに会いたかった。会って抱きしめてあげたかったのだ。あの頃の自分を。母に会えず、外を彷徨っている有生を。そして、聞きたい。母のことを。母とどんな生活をしていたのかを。可愛がってもらえてたのか、抱っこはしてくれたのか、寝る前に本を読んでくれたのか……
走りながら空を見ると、澄んだ空気に天の川まで見えそうなほど星が広がっていた。 住宅街の中の大きな家ばかりが続く細い路地を抜け、冬でも鴨の泳ぐ用水路沿いの歩道を伝って、小さな橋を渡り、バス道路を横断して、また住宅街に入ったところに公園はあった。夜十時。人気はなかったが、ゆうせいはいなかった。電柱灯の下、今日の公園はとても淋しく見えた。公園を一周して探したがその姿はない。時間が早かったのか、日にちが悪かったのか、それとも……
ベンチに座る。気のせい、だったのかな。勘違いだろうか。あの子を自分と重ねるなんて、僕の一方的な執着なんじゃなかろうか。 たった一人きりで夜の公園にいるのは、別世界にいるのとそう変わらなかった。公園の柵の中は観客のいない小劇場のステージの上のようで、共演者もいない僕はまさに何のためにいるのか分からないただのモブだった。空を見上げるとオリオンが煌々としていた……その時、”長靴”の中から人の動く音がした。ゴソゴソと、人の気配がする。
「ゆうせい!」
ベンチから勢いよく立ち上がり長靴へと走った。腰をかがめ、入り口から中を覗く。--男の子がこちらに背中を向けて、おかっぱ頭を揺らしながらしゃがんでいる。--見つけた。
「ゆうせい」
僕が呼ぶとゆうせいは振り向いた…………泣いていた。
両目から大粒の涙を流し、しゃくりあげている。その泣き顔をみると、僕は心が千切れそうな思いになった。
「ゆうせい!」
僕は近づき、ゆうせいをしっかり抱きしめた。細くて小さい、愛おしいほどに腕の中に納まってしまう幼い僕の体。その体からは、ほんのりとあの香り--母の移り香が漂う。僕は両腕でしっかりと包み込み、、泣き続けるゆうせいの慟哭を受け止める。
「おか、お母さんが、……お母さんが……いないのっ……」
泣きすぎてるせいで、ひっくん、ひっくんとしゃくりあげ続け、言葉が続かない。
「ゆうせい、お母さんが、帰ってこないんだね?」
泣きながら、ゆうせいは頷く。声にならない。
「お母さん、ずっと病院なの?」
また、コクンッと頷く。少しだけ涙の勢いが弱まった。そして僕の顔を見る。なんで知ってるの?という顔で。僕はゆうせいの両肩に手を掛ける。
「ゆうせいはお母さんが大好きなんだね。」
と聞くと、ゆうせいは、うん、と大きく首を縦に振った。
幼い頃の僕。記憶にはもうない、母が生きていた頃の僕が、ここにいる。今ここにいるゆうせいは、母と生活し、母の愛情を受けているのだ。だからこそこうして母を求め、彷徨っている。僕が今までの人生の大半で、ずっと探し続け、得られなかった母が存在していたことの実感が、目の前にあるのだ。
「ゆうせい、僕が一緒にいてあげる」
「うん……」
母はもう帰ってこない事は知っている。でも、ここでゆうせいと二人で何時間でも、何日でも待つつもりだった。このままずっと二人で母を待って、永遠にこのままでも構わない、と思った。ゆうせいを座らせ、その隣に僕も座った。
二人で長靴の内壁に背中をもたれ、慰めるようにゆうせいの頭をなでた。母を求める幼い自分が愛おしかった。この少年はこの後二十年経っても母の面影を探し求めているのだから。この悲しみをずっと負い続けるのだから。愛おしく、切なく、やりきれなかった。ゆうせいはまだ涙が止まず、
「ゆうせい、お母さんの事、聞かせてくれる?お母さんってどんな人?」
「お母さんはね……ぬいぐるみつくってくれたの。かえるくんの、ちいさいの。ほしいって言ったらつくってくれたの」
あのぬいぐるみは母が作ったものだったのか!鏡台に引っ掛けてあったあの小さなかえる……僕が、僕が欲しいって言った物だったのか!僕のために……急に鼓動が早まり、胸がジンと熱くなるのを感じた。
「おはなしを話してくれるよ。ふとんのなかで。でもね、とちゅうで寝ちゃうから、いっつもどんなおはなしか、おぼえてないの」
母は寝床で僕におはなしをしてくれてたんだ……なんて優しいんだろう。幼い僕は気持ちよく眠れたんだろうな……
「お母さん、とっても優しいんだね。ねえ、もっと教えてくれる?ゆうせいのお母さんのこと、もっと……」
「あのね、いっしょにおばあちゃんちに行ってね、みんなでおぞうにたべたよ。おばあちゃんは、お母さんはよくできた子だって言ってた。苦労ばかりかけてすまないねえって」
「うん、うん」
「このまえね、ぼく、ねつがでたからお母さんとびょういん行ったの。おしりにちゅうしゃされてね、とってもいたかったの。お母さんはね、ガマンできてえらいねって言って、その帰りにえきまえのパン屋さんによってね、美味しいクリームパンを買っ
てくれたの」
「うん、うん」
「ぼく、そのパンが大好き。でね、またたべたいからまたカゼひきたいって言ったらわらってた」
「ハハ、そっか、ハハハ」
ゆうせいが話すたび、母の姿が僕の中で鮮やかに色彩を帯び、その優しく微笑みが記
憶の穴を埋めていった。僕の目は涙で溢れ、今にもこぼれそうになっていた。
「あのね、さいごにお母さんが病院にはいるとき、そのパンを買って、えきのベンチに座っていっしょに食べたの。ふたりで、おいしいねって言いながらたべたの。お母さんは、もうあんまり食べれなかったけど、そのパンは食べれたの……そしたらね、お母さんはね、また退院したらいっしょに食べようねって言ったの そのあとバイバイってしてお母さんは病院に入っていったの」
…………ゆうせいの言葉を聞きながら、僕の記憶の扉の中で長年埋もれていた母の記憶が、ゆっくりと蘇った。倉庫の一番奥にしまわれたものを母の記憶を取り出すために、堆積された荷物を動かしても動かしても辿り付かなかったものが、奥から光と共に浮かび上がってくれたかのように、その日の光景が現れた。
その日のこと。母が最後に入院する朝のこと。いつもは母が一人で行っている総合病院に、父と僕も一緒に見送りについて行ったことを。母は、今度は長くなるかもしれないとタクシーの中で言った。あちこちに転移しているからと。
僕はいつもと違う空気を感じていた。もうお母さんに会えないような気がして、タクシーの中でもずっと嫌な感じがしていて、とても怖かった。お父さんとお母さんが、いつもと違って会話がとぎれとぎれだった。
タクシーがUターンして家に戻ればいいのに、って思ってた。ほら、お母さん、忘れたよ、朝、金魚に餌やってなかったよ、戻らなきゃ、って言えばまた家に戻るかなって、そんなことばっかり考えてた。でも何も言えないまま駅前の大きな病院の前でタクシーを降りて、それで、僕は……道路の向かいにあるあの店を見つけて、パンを食べたいって言ったんだ。……母が病院に入るのが嫌で。少しでも母が病院に入っていくのを遅らせたくて。
もしかしたらパンを買ったらそのまま家に帰るかもしれないと思って。そうしたら、母が、そうだね、最後かもしれないから一緒に食べようって言ったんだ。僕はそれが何のことか分からなくて、聞かなかったふりをしたんだ。お父さんは、それを聞いて、そんなこと言うな、とか言ったような気がした。それで、父はいらないって言うから二人分のパンを買って、駅前のベンチに座って母と並んで食べたんだ。
横を見ると母は、はらはらと涙を流しながら食べてたんだ。僕は、お母さん、おいしいねって言いながら食べたんだけど、でも本当は味なんかしちゃいなかった。
その時、目の前の広場で、あのストリートオルガンが演奏を始めたんだ。例のちょっと陽気な音楽が流れてきて、母はクスッと笑ったんだ。だから僕は、大丈夫かもしれない、と思った。母はまた病院から戻れるかもしれないって。僕はパンをゆっくり食べて、できるだけ長くストリートオルガンの音を聞いてた。すこしでも母と一緒にいられるために。
……それが母と喋った最後だった。
それからしばらく経って、夜中に病院から電話がかかってきた。母が危篤だって。それで急いで父とタクシーに乗ったんだ。急いで服を着替えて、玄関の前でタクシーを震えながら待つ数分間が、とても長かったのを覚えている。その時、夜空にオリオン座が明るく輝いていたことも……
その後の悲しいお別れの後、僕は幼い心を守るために記憶を閉じていたんだ。小さくて甘えっ子な僕の心が、壊れないように……
僕は泣いていた。大粒の涙が次から次へと流れ続けて止まらなかった。母と僕は、一緒に、この町で、同じ時を過ごしていたんだ。母の優しい顔が浮かぶ。そしてお別れの時の苦しそうな顔。ぼくはゆうせいの横で、嗚咽を堪えることができなかった。記憶と共に蘇った母との別れ。母と話した最後の時間。
ゆうせい、ありがとう。思い出させてくれて。あったんだ。僕の記憶の中に。母との思い出が。そして、ゆうせい。いるんだ、君が。僕の中に。
僕は涙を拭った。でも拭っても拭ってもゆうせいの顔は滲んだ。
「ゆうせい、教えてくれてありがとう。お母さんのこと、思い出したよ」
ゆうせいは、笑顔で、頷いた。
「お母さんはもう戻らない。分かってるんだ。でも心配いらないさ。ゆうせい、君は大丈夫。僕みたいに強く大人になれるよ。そして心の中に、お母さんがいるからね」
僕はゆうせいを抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫」
言いながら僕はゆうせいの背中をさすった。
「僕、お母さんがいないの、さびしい。……でも。つよくなる」
「うん……強くなるよ……大丈夫……」
ふと、ゆうせいを抱く腕が軽くなり、そのまま空気を抱いたように何もなくなった。
「ゆうせい…………」
ゆうせいは消えた。長靴の中には、有生だけが残された。
僕はあれから何度となく夜の公園を横切ったけど、もうゆうせいに会うことはなかった。
しばらくして、一人で母の墓参りに行った。電車で十分のところにあるお寺へ行き、線香を上げ、この数日のことを母の墓前で話した。記憶の中の母は若く、今の僕とあまり年齢が変わらなかった。
そしてS駅まで戻り、あのパン屋でクリームパンを二つ買った。外のベンチに座り、一つのパンは隣に置き、もう一つは自分で食べた。隣を見ると、ゆうせいがパンを食べながら美味しそうに笑っている顔が、見える気がした。
オリオン座を見る少年 大槻凛太郎 @mille-feuille3
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