オリオン座を見る少年
大槻凛太郎
第1話 空を見つめる少年
S駅を出ると、ストリートオルガンの音色が聞こえてきた。
立派な白髭と赤ら顔のドイツ人らしきおじさんが手廻しオルガンをテンポよく回し、10歳くらいのチロル風民族衣装を着た、この人の娘さんと思われる金髪の少女が知らない歌を歌っている。おそらくドイツの民謡なんだろう。
アコーディオンに似たノスタルジックな音と、8bit音楽のような陽気なテンポとメロディーが、雪混じりの小雨が降るS駅前商店街の喧騒に明るい彩りを添えていた。
通りを進み行くと、夕方から営業を始める飲食店のネオンライトが、眼鏡のレンズに付いた雨粒に反射して
通りに面したカフェの女性店員さんがガラス越しに僕に気づいて笑顔で会釈してくれた。もちろん軽くうなづいて挨拶し返す。
昨年の春から夜間大学に通い始めた僕は、学校帰りの遅い時間まで開いているこの店を、晩御飯のためによく利用してしている。僕よりいくらか年上っぽいあの店員さんは毎日店にいる人で、小学校にいるベテラン女性教師のようにハキハキと接客してくれるので、いつも安心して食事がとれる。
お互い名前も知らないが、「信頼できる店員さんと行儀の良い常連客」という暗黙の小さな絆を今日も確認したわけだ。
とはいえ今日はクラスの友人と学食で晩御飯を終わらせているので、そのまま店の前を素通りする。一車線半の狭い道をバスが苦労してカーブする十字路を抜け、住宅街へ。
一歩通りを入っていくと、カラフルさと
--そうだ、もうすぐ母の命日だなあ。もう何年も墓参りもしてない。前は毎年父について行ってたけど。あとは……テストも終わったし今日学食でテーブルを囲んだいつものメンバーで遊びに行きたいなあ。ったく、Mの奴、A子と早く付き合っちゃえばいいのに。いつも漫才コンビかってくらい息が合ってるんだからさ。旅行もいいな。一人旅もしてみたい……
そんな予定を頭に巡らせながら歩いていると人の気配がした。
見るとすぐ横の公園--住宅街の中によくあるタイプの、遊具もベンチも二つずつしかない程度の小さな公園--の中にポツン、と男の子が立っている。
なぜ?夜中に子供が公園に?腕時計を見るといまは午後九時半。どう考えても小学一、二年生くらいの子が外にいる時間じゃない。しかも……一人で。思わず立ち止まって周りを見渡してみる。やはり親らしき人はいない。この子は今一人っきりだ。
その子は僕をじっと見つめていた。一月の寒空の下、電柱灯だけが遊具を照らす真っ暗な公園の中で、その子だけが、スポットライトを受けているかのように白く照らし出されていた。
黒く艶々としたおかっぱ頭で、眉毛の見えないほど長く、綺麗に切り揃えられた前髪の下から、いかにも日本人的な一重の目が確かにこっちに視線を合わせている。クマのワッペンのついた茶色いカーディガン、デニム風半ズボン、古そうなヒーロー物の子供用ズック。ダウンが必要なこの時期には寒そうな出立ちだ。
子供特有の、服の下に骨しか入ってなさそうなくらいの細い体。迷子?……いや、まさか。そもそもこの時間に。なぜ?ここにいる少しでも常識的な人間が自分だけなら、自分がやるべきことをやらねば。少し迷ったが、半ば義務感と少しばかりの正義感を持って、僕はこの子に話しかけることにした。
道路から方向を変え、公園に入ってゆく。すると少年は、僕という人間が自分に向かって来た事が分かると、ニコッと笑ったのだった。
まっすぐ少年の許へ歩み寄ったところで気付いた。あれ?そういえば子供を相手にする時って、なんて話しかければいいんだっけ?急に戸惑いを覚えた。なんせ父子家庭の一人っ子、親戚付き合いもほとんどない僕は、生まれてこのかた小さい子と接したことがない。思わず緊張する。
「ボク、寒くない?お父さんかお母さんは?」
……おっと、あせって一度に二つ質問をしてしまった。
ううん、というふうにその子は首を振った。
「寒くないの?そうか。君いくつ?」
「五さい!」
「五歳?そうなんだあ。……うん、ところでお父さんかお母さ……」
「見て!」
少年はそう叫ぶと急に上の方を指差した。
指差したその先は、空だ。
一月の夜空。今日はあいにくの天気だが、ところどころ雲の切れ間があり、そこからは綺麗な星空が控えめに顔をのぞかせている。
「ん?空?空がどうした?」
空のちょうど天頂部分、僕らの真上くらいのところに少し大きめの雲の切れ間があった。
その一点を指して少年はこう言った---
「オリオン!」
オリオン?……ああ、そうだ、オリオン座、あの星座の。星座に詳しくない僕でも知っている。冬の時期だけ現れる、砂時計みたいな形の、一際目立った大きいヤツだ。というか、それしか知らないのだが。
不思議なことに、そこだけがよく見える。まるで僕らにオリオン座を見せるためだけに、誰かが空に穴を開けたかのようだ。
「オリオン座のこと?ああ、綺麗だな。目立つよね。星座知ってるんだ。すごいね。」
「お母さんが言ってた!お母さんが子供の頃からあるって!」
「あはは……そう……だね」
確かに。君のお母さんが誰だかは知らないが、子供の頃からあったのは事実だろう。さらに言えば、君のおばあちゃんが子供の頃からもあったろうし、なんなら地球が子供の頃からもあっただろう。
「ふうん、そんな前からあったんだぁ。凄いねえ」
適当に話を合わせておく。とても寒い。息が真っ白になる。そういえばこの子は白い息を吐かないようだ。体温が下がってるのだろうか?
「お母さんがね、ちっちゃい頃、お母さんのお母さんが帰ってくるのをオリオン座を見ながら待ってたって」
待ってた?外で星を見ながら?子供時代のお母さんが?事情は知らないが……鍵っ子だったって事なのだろうか。
「じゃ君は今お母さんを待ってるの?」
少年はキラキラした目で嬉しそうに星を見つめている。
彼のそんな横顔を見た瞬間だった。
僕は心がキュウッと苦しくなるのを感じた。
……なぜだろう?この子の表情が、例えようのない気持ちを呼び起こしたらしい。何か、心の中のどこか……けど何なのかは分からない。
「誰か待ってるの?それとおうちはどこ?」
しまった、また焦って質問を二つしてしまった。
「わかんない!」
そういって少年は僕の周りをぐるぐる走り始めた。小雨はいつのまにか雪へと変わり、電柱灯の明りだけが降り頻る純白の粒を照らしていた。誰もいない寒々とした公園で、キャハハと笑いながらこの少年は走り回り、不可解な出会いはますます現実離れし始めていた。
困ったな。今気になるのは、一人でここにいる五歳の男児の安全が確保されてるかどうかなのだが、全く状況が掴めない。そもそも肝心のこの子に危機感がないうえ、むしろ楽しそうなので、いくら心配しても全く埒が開かない。立っていると冷気が身に沁みてますます体が冷えてくる。にも関わらず少年はさっきから僕の顔を見てニコニコしているのだ。人馴れした野良猫じゃないんだから、懐いてきそうなその顔はやめて欲しい。
「かくれんぼしよ!」
「……え?」
言うに事欠いて何を言い出すやら。勘弁してよ!こっちは君のことを心配してるのに……かくれんぼだって?ヒマなのか?時間と気温を考えてくれ。ついでに俺の年齢も考えてくれ。二十五の大人だぞ。風の子とは寒さへの耐性に差があるんだから……
「あのさ。お母さんか誰か……」
「十数えて!」
そう言って少年は走り始めた。強制的にかくれんぼが始まってしまったらしい。僕はこの子に関わってしまったことを心底後悔し始めていた。
「おいちょっと!待てってば……というか、僕が鬼?」
少年は、なかば飛び跳ねるように走り始めた。とはいえ、この公園でかくれんぼなんて無理な話だ。
なんせ住宅地のど真ん中にある立地上、大きさは教室を横に二つ並べた程度しかない。あるものといえば、寝そべり避け付きベンチが二つに滑り台一つ。地域の防災用具入れの物置と大きな”長靴”があるだけだ。
”長靴”とは、この公園の中央部にある大きくて赤い長靴型の構造物の事だ。その側面、足で言う指の付け根あたりのところに人が入るための穴が空いており、しゃがんで中に入ることができる。この中は大人なら三人、子供なら五人も入ればいっぱいくらいの大きさだ。外側にある鉄の
「いーち、にぃ……」
鬼と言われてしまったら仕方ない。ここは数える他ないだろう。一本だけ立っている桜の木に向い、腕で目隠しをしながらカウントをしていく。それにしても大人になって数を数えるって照れくさいにも程がある。子供時代を卒業して以来、こうして外で「数えた」ことがある大人はどれほどいるだろうか?
数えながらちらっと様子を見ていると、案の定少年は走って行って飛び込むように長靴の中に入っていった。
あまりにも分かりやすいかくれんぼだ。トランプを全部表向きにしたまま神経衰弱をやるようなもんだ。
「ごー、ろーく」
……数えながら思ったのだが、さすがに遊び盛りの年齢とはいえ、この子はかくれんぼの人集めがしたくてここで待ってたわけではないだろう。要は大人に構って欲しいだけなのではないか。
このオリオン座少年はたぶん近所の子で、帰りの遅い親を待ちくたびれて外まで出てしまったのだろう。世の中、家庭の事情は様々だ。
僕が子供の頃、同じ町内にいたK君の家は、いつ行っても親が居なかった。俺とK君はそんなに気が合ってたわけではないが、近所に住む同じ小学四年生同士、よく二人で遊んでいたものだ。
Kくんの家はいつ行っても両親が留守だった。そして夕方僕が帰ろうとすると決まって引き留められた。いつもしつこく引き止められるから帰るのが一苦労だったのを覚えている。
ある時、あんまり引き止められるものだからいつもより遅くまで二人でWiiをしてしまい、日が暮れて心配した母が俺をK君の家まで探しに来たのだが、あの時、母は彼の家が真っ暗だった事をずいぶん心配していた。
当時の僕は、単純にKくんはよっぽどゲームが好きなんだろうとだけ思っていたが、今考えると彼は寂しくて僕に帰ってほしくなかったんだと思う。
K君とは小六まで行ったり来たりしていたが、徐々に会わなくなった。そして中学校に入ると彼はガラの悪いグループにパシリとして出入りするようになり、やがて疎遠になった。その後別々の高校に進学したが、気づくとあの家からK君の一家は消えていた。彼がどうしているか、今でも知らない。
「はーち、きゅー……じゅう」
数え終わったので探すとする。といっても探すところはほぼない。一応、滑り台の下を探すフリだけする。うん、当然だけど誰もいない。
では、長靴の中を見るとするか。だってここにしか居るはずがない。入っていくのも見たし。僕はしゃがんで長靴の側面にある穴に頭を入れた。
「見ーつけ……ん?」
そこには、誰もいなかった。
長靴の中は空っぽで、ただの空洞だ。驚いて体全体を中に入れ、長靴のかかと部分までしゃがんだ体勢のままで移動する。縦長のところをみたところで例の少年がいないことには変わらない。
え? どうして? 内部はただでさえ静かな外の空気から隔絶され、自分自身の息遣いの音しか聞こえない。人の気配といえば内側の壁にびっしり書かれた落書きだけだ。下は地面になっているが、ここだけ雨に当たらず乾いた地面なのだが、あるはずの少年の雪に濡れた足跡がない。あるのは今入ってきた自分の足跡だけだ。……そんな、少なくとも足跡はあるはずなのに。
「……??」
すぐ外に出て辺りを見渡した。誰もいない。長靴の周りを一周した。いない。念の為滑り台を見渡し、公園全体を一周する。いない。あの少年は。どこにも。
少年は消えた。
寒気がした。凍える体がさらに震えた。彼がいなくなった事でこの公園は急に静まり返り、みぞれの降る音だけがやたら耳に入ってきた。道路を歩く人もおらず、家々からも何の音もしなかった。夜のカラスさえ黙って低空を通り過ぎた。不気味に感じた。
——帰ろう。
僕は急ぎ足で公園を出て、振り返らずに帰り道を急いだ。あの子、僕に取り憑いたらどうしよう--そう思うと走って帰らなければいけないような気がした。お化け屋敷も肝試しも怖いと思ったことのない僕にとって、初めての身の毛がよだつ体験だった。
……そう思った時、なぜかまたツキン、と心が傷んだ。心の容れ物にもともとあった棘が、そこが動いたせいで内側をチクチクと刺激するような感触。なぜ?
——僕は、あまり子供とは関わらないほうがいいのかもしれない。
少しして冷えた体とともに家に帰った。ドアを開ける前に少年が見ていた空を見上げてみると、雲が空全体を覆い隠し、もうオリオン座は見えなくなっていた。
朝起きて、少し冷静になって思い返してみた。霊現象?いやいや、あれを不思議体験と思うのはさすがに無理がある。だってあの子は確かにそこにいたじゃないか。
夜の公園に小さい子が一人で佇んでいるのは確かに
そうだよ、やっぱり近所の子にちがいないさ。どんな家庭事情かは知らないが、通りすがりの、良い人そうな顔をした大人を無邪気にからかう程度には親とのスキンシップが不足している子だったのだろう。あの孤独な男の子の遊び相手に、ちょっとなってあげただけなのだ。
事件性なし、捜索情報なし、うん、問題はない。すぐに今日のバイトのことで頭は一杯になった。どうやら僕はさほど気にしてはいなかったらしい。バイト先の倉庫に向かう途中に公園を見たが、小さな子を連れた母親同士が会話をしていた。いつもの様子だ。
僕はその日、夕方までの倉庫での品出しの労働を終え、大学に向かった。夜学は仕事終わりの人が多いので一コマ目の遅刻にはおおらかだ。
単位が取りやすいと評判の政治学の教授はいつも人気で、講義はもう始まっていた。大教室の中ほどにMの姿を見つけ、腰を屈ませながら歩いて行ってその隣の席に滑り込む。
Mはこの夜学でただ一人だけのスキンヘッドで、ファッション感覚も浅草チンピラ風と、他の男子たちと趣が違うので後ろ姿でも見分けやすい。いつもドリンクを片手に授業を受けている。
「よっ」
「おう」
「それ、見ないやつだね」
「あ?これか?」
と言ってMが蓋付きのプラカップを指す。
「新しくできたとこあるだろ、ほら、宝くじ売り場の横の、いっつも店が長続きしないところの」
「ああ、あそこ。--カフェラテ?味どう?」
「めっちゃ甘い。不味い」
「へえ」
しばし沈黙。
「なあM、お前って兄弟多いよな。子供って得意?」
「は?急に何だよ」
--訊ねておいて自分で驚いた。昨日のこと、忘れたんじゃなかったのか?……どうやら僕は、昨日の自分が例の少年相手に上手く会話できなかったことを悔やんでいるらしい。気にしてないと思ってたのに。
「いや小っちゃい子とかって扱い難しいよなって思って」
「簡単だよ」
「そう?」
「だって子供って素直だからそのまま接すればいいんだよ。こっちから気使わなくていいし。」
「ふうん……なるほど、ね」
簡単、なんだ。簡単、簡単、かんたん
「自分が子供の頃を思い出してみれば?」
「……」
みんな子供の頃の記憶って皆どれくらいあるんだろう?あの少年くらいの頃の僕は……思い出すことはあんまりない。年長組の男の子にいじめられてたとか、幼稚園の保母さんが怖くてよく泣いていたとか……家の鍵をどこかに落として、お父さんが帰ってくるまで家の隣の駐車場でランドセルに座ってずっとデタラメな歌を歌い続けてたら夜にまでなってた日のこととか--
なんか、僕って寂しい記憶ばかりだな。
みんなは、違うのかな。お父さんお母さんといっぱい喋って、近所の大人や学校の先生とも上手くやれてきたのかな。だとしたら、思い出は笑顔が溢れてるのだろうか。
また心がツキンとした。
あの子と会ってから、少し変だ。普段しない運動をした時に筋肉痛が起こるように、心の中の、普段使わない部分を刺激したせいで、混乱が起こったのかもしれない。思い出したくない記憶が脳裏に浮かんだ時の、悔恨や歯痒さが入れ混じった時の感情に似た感覚。なぜ、あの子の事を考えると心の中が痒くなるのか、分からない。
「何かあったのか?」
「……別に」
Mはそれ以上聞いてこなかった。話しかけるとボールが弾むように会話が転がるが、人のことは割と手前のラインから踏み込んでこないのがコイツの魅力だ。
学校ではそれ以上昨日のことは考えないことにした。実際Mや他の経済学部の友人たちがいるおかげで考えずに済んだ。Mのは投資のマイナスが嵩んでひどく落ち込んでいたので、慰めようと思って晩御飯に学食名物カレーナポリタンを奢ってやったらすぐに機嫌が直った。まあ実際どれだけ落ち込んでいたかは分からない。
帰り道、昨日と同じ時間に同じ道を歩く。例のカフェのあの店員さんは、今日は接客中だった。十字路を曲がって歩き、その横を終バスが通り過ぎてゆく。夜空は晴れ、澄んだ空気に星が煌めいていた。例の少年が見ていたオリオン座も、今日はくっきり見える。
やっぱり目立つよなあの巨大砂時計は。こんなに多くの星があるのに、ぱっと見だけで目に入ってくる。
もし自分が女子だったらあの少年と上手に会話して、仲良くなって、抱っこしたり、手を繋いで歩けたりしたのかな。子供って女子のほうが懐くし喜ぶもんなあ。歩きながら妄想が膨らむ。
僕がさる女性と結婚して、あの少年が二人の子で、三人家族で公園で遊んだりして……妻になる女性は社交的で、そこにいる近所のお母様方と世間話を始めて、時々少年の方を見ながら、「危ないから鉄棒に登るのはやめなさいね!」とか言って。僕が逆上がりの見本を見せてやったりして。
僕はいつの間にかあの少年が想像の中で笑っている光景を必死に作ろうとしていることに気づいた。やっぱりあのぐらいの子がたった一人で寂しそうに公園にいてほしくはなかったんだと思う。男の子はお母さんがいてくれないと……
——僕のお母さんは僕を公園に連れて行ったことあるのかな?
ふと思った。
僕はずっと実家で父との二人暮らしで、母の記憶がない。僕が五歳になる頃に母は病気で亡くなったそうだ。
母が入院中、よく留守番に来ていたおばは、幼い僕が母が帰ってこないことに動揺して泣き続けていたと言っていた。勝手に迎えに行こうとして外に飛び出して迷子になり、警察に頼んで防災無線で呼びかけをしてもらったことまであるらしい。
飲食店を経営していた父は仕込みがあるため毎日朝早く、帰ってくるのも夜中だった。小学生低学年になる頃にはすっかり孤独にも慣れ、パンを焼いたりうどんを茹でたりして一人でお腹を満たすことを覚えてた。
父は帰ってくると晩酌をしては寝る毎日で、可愛がられた実感も、家庭の温もりも感じないまま大人になった。誰しもが持っている、幼き頃両親に愛された日々の景色は持ちえなかった。
皆が夏休みに家族旅行に行くのを聞いて、ただ羨ましくて、自分も旅行に行ったと嘘をついたこともある。実際には夏休みの間中、祖母の家に預けられてただけだったが。
クレヨンで描く僕の落書きには、いつも父と、僕と、存在しない母の三人が描いてあった。父はいつもそれを見て黙っていた。
自分の記憶の中に母がいないことがいつも寂しかった。これまでの人生でこういう気持ちになったことが幾度もある。小五の頃、母さんは僕が四歳になる時まで生きていたと聞いてから、何度となく自分の頭の中の、記憶の扉や引き出しを開けまくって、母の記憶が見つからないか探したものだ。
引き出しを全部抜いて裏側まで漁って……探して探して探しまくって……でも何も見つからなかった。ほんの少しでも欲しかった。ほんのわずかな母の思い出のかけらでもいいから欲しかった。
もしわずかでも母の記憶があれば、子供がビー玉を宝物にするように、そのわずかな記憶のカケラを中身の空いたお菓子の缶ケースの中に入れて、引き出しの奥に大切にしまっておきたかった。……それがあれば、時々それを取り出しては眺め、寂しい夜の、自分の心のひび割れを埋められる薬になったかもしれないのに。
そんな思いを巡らせながらあの公園にさしかかった。
「来た!」
少年の声がした。振り向くとそこに、あの子がいた。心臓が跳ねるほど驚いた。
少年は昨日と同じようにその公園に一人で立ち、電柱灯に照らされていた。今日はすっかりいないと思っていたせいで、余計びっくりさせられた。
彼はまっすぐ僕を見て、微笑んでさえいる。昨日と同じ服装で、昨日と同じ笑顔で。今夜は晴れているので、月明かりも照らされ、その笑顔はもっと明るく、鮮明に見える。おかっぱ髪は丸く光彩を帯び、丸みのあるほっぺは程よく赤い。
僕は立ち止まった。戸惑っていた。なぜまたこの子はこんな時間にここに?二日続けて?……もしかして僕に会いに来てくれた?
——この瞬間、僕は初めて、自分がこの子とまた会いたがっていた事に気づいた。なぜなら今、嬉しく感じている自分がいるのだ。彼の笑顔を見て気持ちに星ひとつ分のあかりが灯ったのだ。旅行先の道端で出会った野良猫が、旅の記憶の中で、お目当てだった博物館の展示品よりも強く心に留まるように、昨夜の少年との出会いはすでに心に深く刻み込まれ、そしてあのような別れ方はやっぱり心に引っかかっていたのだ。
「また、オリオン座を見に来たの?」
「うん!」
彼は満面の笑みだ。んふふと笑って、楽しそうにしている。とてもかわいい。子供から笑顔を向けられるって初めての経験だ。大人から向けられる社交的なものや友人同士のお約束的なものと違い、純粋な微笑みは胸に直接入り込んでくる暖かさがある。僕も自然と笑みが出た。
お母さんは?お家は?と喉に出かかったが、やめた。そんな質問はこの子はもとめていない。
「お腹減ってないか?一緒に食べるかい?」僕はカバンからサンドイッチとおにぎりを出した。夜食と朝ごはんにと思ってさっきコンビニで買ったものだ。
「うん!食べる」
「よし、じゃあのベンチに座ろう」
僕らは一緒に公園の奥側、防災用具物置の隣にあるベンチに並んで座った。教科書で重くなったリュックを置き、コンビニの袋を出す。ここは公園を見渡せる場所だ。電柱灯から少し離れて暗いけど、月明かりで何も見えないってわけじゃない。
すぐ隣に子供の肉体を感じるのは、不思議に心地よい。子供を持つってこんな感じなんだろうか?至近距離に適度な大きさの可愛らしい人型のかたまりが動いている。ベンチを通じてその小動物的体重感が動くのが伝わる。体温まで伝わってくる感じがする。夜中の公園で、知らない子供と二人きりという意味不明な状況に関わらず、仮想家族ができたような、それはハッピーな気持ちだった。
「どっちがいい?」
「こっち!」彼はサンドイッチを指した。
「はい、お食べ」
僕からサンドイッチを受け取り、……袋をバリバリと破って開ける。手に持ったサンドイッチに勢いよく齧り付く。リスのようにほおを膨らませながら美味しそうに食べる。お腹、減ってたのかな?
「おいしい?」
少年は食べながら、うん、と頭全体で頷く。僕はおにぎりを開き、食べた。夕食は今日も学食で食べたのでお腹は減ってなかったが、ここは一緒に食べるべきだと思い、腹に詰め込んだ。
空気は冷たく、僕らは白い息を吐きながら食べた。
「昨日のかくれんぼ、見つけられなくてごめんな」
「うん。いいよ。」
特に気にしてはいなかったようだ。
「名前、何ていうの」
「ゆうせい」
「へえ、おんなじ名前だね。お兄ちゃんも
「どっちも、ゆうせい。ふふ。」
あっという間に野菜サンドを食べ終わった彼は、ベンチから跳ねるように立ち上がっ
て、
「すべり台しよ!」と言った。
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