K.5「奏晴さんという人」
「
僕は何となく静かに窓を閉めた。
寮生活を始めて大分克服されたが、基本的には人見知りなので、プライベートはバイト先の人と会いたくない。
弁当とお茶を食卓テーブルに移動させると、スナタメの【わが祖国】のオーケストラ映像をスマホにセットして、僕は少し冷めた弁当を口にした。
わが祖国は6つの曲で構成された連作交響詩で、特に2曲目の【モルダウ】は有名なので、クラシックを知らない人でもメロディを聞けば「どこかで聴いたことがあるかも」と思える作品だと思う。
事務局にあった楽譜にはえんぴつの書き込みが残っていたので、もしかしたらアマデスオーケストラでも演奏をしたことがあるのかもしれないが、今頃だがふと思った。
「オケメンバーは何人いるんだ? オケ曲をやるには最低でも4、50人、フルオケなら7、80くらいは必要だとは思うけど。あ、でも譜面台が足りないって言ってたし、もしかして逆にめっちゃいたりして」
僕はスマホでアマデスオーケストラと検索してみた。
するとHPは出て来たが、見るからにテンプレートで作った簡易版で、メンバーについても団員募集中としか書いてない。
「……まぁ気にする事ないか。別に運営に携わる訳じゃないし」
時間はまだ7時30分を過ぎたところだ。
つい数日前まで大学の授業や就活で忙しく、一日の時間が足りないくらい目まぐるしかったのに、今日はやけに一日が長く感じる。
「さてと、どうしよっかぁ」
就活から解放された今、東京でも時間を持て余していたかもしれないが、あっちにいればやれる事はいくらでも作れた。
だがここでは物理的に難しい。
「失敗したなぁ。もっと色々持ってくれば良かった」
スマホから聞こえてくる曲が【モルダウ】から3曲目の【シャールカ】に変わったかと思うと、音楽が止まり着信音が鳴り始め、画面には松下教授の名前が出ている。
「教授だ」
僕はスピーカーにして電話に出た。
「はい、椎名です」
『やぁお疲れ様。松下ですよ。バイト初日はいかがでしたか?』
スピーカー越しに聞こえる声はいつもの教授の声で、あの時聞いたバリトンボイスとは全然違うものだった。
「とても良くしてもらってます。ありがとうございます」
『それは良かった。体調はお変わりありませんか?』
「はい。東京より過ごしやすいので」
『そうでしょう。羨ましいです。こっちはまだ35度もあるんですよ』
「まじですか」
その点だけは来て良かったと思う。
「で、お仕事は? どんな事をやるんですか?」
「とりあえず今はバラバラになった楽譜を元に戻す作業です。チャイコの組曲とかブラームスやスナタメのシンフォニーとか」
『それはそれは。楽譜とどっぷりですか。いいですねぇ』
「有名な曲ばかりだったから助かりました。知らない曲だったらヤバかったです」
『君ならパパパと終わらせれるでしょう。だからどうせなら楽譜との会話も楽しんで下さいね。それではまた』
ミニマムな会話をもって電話は一方的に切れ、スマホは【シャールカ】の演奏映像に戻る。
「ったく、何だったんだ。ほんと音楽家ってせっかちだな」
僕は麦茶を飲んで一息つく。
「というか部屋にいるからやる事が無いんだよ。明日からはなるべく外に出るか。そうだ、本屋。明日は本屋に行こう」
スマホで現在地から検索をかける。
だが、本屋らしき店が見当たらない。
「明日、真琴さんに聞くか」
※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※
「本屋さん? いいわよ、帰りに車出してあげる」
事務局の床に掃除機を掛けながら、真琴さんが応えてくれた。
「車? いえ、場所だけ教えてもらえたら一人でぷらっと行ってきますので」
僕は背負っていたリュックを壁際の長机の上に置く。
今朝も鳥のおしゃべりで早く目が覚めてしまった上に、とりわけやる事もなかったので、余裕を持って10時前に出勤したつもりだったが、真琴さんと麻里ちゃんはもう来ていて、真琴さんは掃除、麻里ちゃんは来客用の机でぬり絵をしていた。
「でも歩いて行ける距離じゃないわよ。車じゃなかったらどうやって行くんだろ。あっちの方に行くバスがあるのかな?」
真琴さんが掃除機を止めて、首を傾げる。
「バス、ですか」
「ごめんねぇ。私も先月こっちに来たばかりだからそこまで詳しくなくて」
「え? そうなんですか?」
「そうなのよ。だから麻里もまだ保育園に行けてなくてずっと一緒なのよ。9月からは入園予定なんだけど」
麻里ちゃんは無言のままぬり絵をしているが、その表情はどこか寂しそうに見える。
(この話題はここで切り上げた方がよさそうだな)
「あ、じゃぁ本屋はまたでいいです。別にどうしてもって訳じゃないので」
「そぉ? でも行きたい時は遠慮なく声掛けてね。私達も行く時があれば声掛けるから」
「ありがとうございます」
僕は段ボールから楽譜を取り出すと、昨日と同じように脳内再生を始めた。
すると真琴さんは掃除機を止めて片付けると、少しだけ開けていた窓を閉めて、机に座ってノートPCで作業を始める。
そして集中していると時間はあっという間に過ぎ、真琴さんが昼休憩の心配を始めてくれた。
「航青君。もう12時過ぎたからお昼休憩取ってちょうだい」
いつの間にか麻里ちゃんは真琴さんの膝の上にチョコンと座っている。
「真琴さん達はどうされるんですか?」
「私たちは気にしないで。今日は車だしどうにでもなるから。持ってきたならここで食べてもいいし、外食するならクルっと回って正面付近にカフェやファミレスがあるから。コンビニはちょっと遠いかな」
「じゃぁちょっと探索しながら食べて来ます。あの、ここの鍵は」
すると真琴さんは、事務机の引き出しから鍵を取り出して見せてくれた。
「鍵は1つしかないから、ここが不在になる時は事務所に預けるようにしてるの。私達ももう少ししたら出るから、航青君戻って来たら事務所に声かけてくれる?」
「分かりました」
「カフェならパスタがおすすめよ。ボリュームがあるから」
僕はリョックを背負って事務局を出ると、楽屋口から外に出た。
その時に事務所の中をチラッと覗いたが、奏晴かなはさんの姿は見えない。
(今日はいないのか。確か、たまのお手伝いって言ってたっけ)
雲一つない綺麗なブルーの空は美しかったが、遮る建物なく届く直射日光が、頭頂を含め露出している肌にチクチクと突き刺さる。
「暑さの種類は違うというか、ここの昼間もヤバイな」
僕は会館の外に出ると、とりあえずまわりをグルッと一周しようと歩き出した。
だが真上に太陽があるために、日影がない道は上からの直射日光に加え下からの照り返しも辛く、カフェが少し先に見えてくると迷うことなく飛び込んだ。
「いらっしゃいませぇ」
爽やかな男性スタッフの声が響く店内は、エアコンが効いていて涼しく、日光が当たらないのもホッとする。
「お好きな席どうぞ」
入ってから気が付いたが、この店の造りはチェーン店ではない。
店内はほどほどの広さで、適度な距離を保って置かれた4人掛けや2人掛けのテーブルは20席ほどだろうか。
半分以上は埋まっているように思えたが、窓に近い席はどこも空いている。
僕は窓際の中で、壁を背に出来る2人掛けの席を選んで座った。
ここなら直射日光は受けずに済むし、まわりにほとんど誰もいない。
男性スタッフが水が入ったグラスと布おしぼりを持って来てくれた。
年齢は20代前後だろうか。
「ご注文はお決まりですか?」
「あ、えっと」
パスタがおすすめと聞いていたので、僕はメニューをパッと開くと目に入ったパスタランチを、セットのドリンクはアイスコーヒーにして、先に持って来てもらうようにして頼んだ。
店内は常連そうな人が多く、中には年輩夫婦の姿もある。
きっと地元で愛されている店なんだろう。
グラスの水で喉を潤すと椅子の背もたれに体を預け、すぐ横にある窓から外を見た。
視線の先の道沿いにある赤いポストに、グレーのロングスカートで日傘をさした女性が郵便物を出す姿が目に入る。
(いいなぁ日傘。俺も買おうかな。どうせここに知り合いはいなし見られたってどうって事ないしな)
そこに「お待たせしました」とアイスコーヒーが運ばれてきたので、僕はストローとガムシロとミルクは断り、アイスコーヒーのグラスに直接口を付けた。
僕は、アイスコーヒーはストローではなく冷たいグラスから直接飲む派だった。
(うん、美味しい)
「あ、先輩。いらっしゃいませ!」
明らかに嬉しそうな声の男性スタッフの声が聞こえる。
僕は視線を上げると、店内の入り口で日傘を畳みながら男性スタッフに微笑む
奏晴かなはさんの姿が見えた。
「……え?」
すると僕の視線を感じたのか、ふとこちらを見た
僕は心臓がドキンとした。
グレーのロングスカートと日傘。
ポストにいた女性だ。
僕は心の中で(どうも)挨拶をして頭を小さく下げると、
「こんにちは。ランチですか?」
「はい」
「私もこのお店好きでよく来るんですよ。あの、あそこ座ってもいいですか」
「も、もちろん。どうぞ」
そこは日が当たって暑そうだったが、男性スタッフが慣れた手つきでロールカーテンを降ろすと、日差しが遮られて良い感じの日陰席になる。
奏晴かなはさんは「ありがとう」と言い、そのままメニューも見ずに「パスタセットとアイスティ下さい」と伝えると、その席に座った。
そしてはにかみながら「私、いつもここなんです」と僕を見るので、つられてこちらも頬が緩む。
改めて思ったが、外で会う
日傘で見えなかった上半身は薄ピンク色のサマーニットで、それが長い黒髪を映えさせていて、洗いざらしのTシャツにチノパン姿の僕とは着衣への気の使い方が全く違うのを痛感する。
(どうしよう、このまま話を続けた方がいいのかな)
どうしたらいいのか戸惑っていると、天から救世主の声が降って来る。
「お待たせしました。パスタランチです」
テーブルには大小2つの皿が並べられ、小皿にはコーンスローサラダ、大皿には太麺でボリューム満点のベーコンとほうれん草の和風パスタが乗っている。
(え、これで850円!?)
東京では考えられない値段に驚いたが、ベーコンとオリーブオイルの香りが食欲をそそる。
「すいません。お先です」
僕は
「! うま!」
思わず声に出る。
おすすめされるのも納得で、僕も常連になりそうだ
そして同じ物が
人見知りあるあるで、近くに顔見知り程度の知人がいるのは居心地的には微妙で、それが異性となると尚更だ。
さっさと食事を終わらせると今度は「ご馳走様でした」と手を合わせ、店を出ようとリュックに手を掛けた。
きっとその方が、彼女ものんびりできるだろう。
だが僕の気遣いは無用だったのか、食事中の
「そう言えば、麻里ちゃんから聞いたんですけど椎名さん本を探してるんですか?」
「……はい?」
今朝の話だ。
麻里ちゃんは本屋に行きたいと言った僕の事を彼女に話していたんだ。
となると、ここは麻里ちゃんの顔を立てておかなければ。
「そうなんです。時間もあるしちょっと色々読んでみようかなと思って」
「だったらこの辺り本屋さんないし、良かったらうちの大学の図書館をご案内しましょうか」
どうしよう、気持ちは嬉しいが、まだほとんど初対面の人にそこまでしてもらうのは、はっきり言ってキツイ。
それにウチの大学は部外者が図書館を使う場合、事前の手続きがかなり面倒で、もしY大もそうなら、そこまでしてという思いもある。
「でも、ご迷惑になってしまうので」
「そんな事ないですよ。Y大は一般の方も使えるし土日も開いてます。ウチの大学図書館はかなり充実してるので来たらきっと楽しいですよ」
「……」
そうか、なるほど。
ニコニコとまっすぐ僕を見る
彼女は僕とは正反対の、「人見知りじゃない方」の人なんだ。
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