K.6「Y大図書館」
「良かったじゃなーい。Y大の図書館すごいわよ」
昼食を終え午後からの業務を再開した僕は、カフェでの出来事を真琴さんに話した。
「行った事あるんですか?」
「あるある。こっち来てすぐ
相変わらず黙々とぬり絵をしていた麻里ちゃんだったが、コクンと頭を下げる。
「え、いいんですか。じゃぁお願いしたいです」
助かった。
2人でいきなり図書館というのはハードルが高かったので、ありがたい提案だ。
「もちろんよ。いつにする?」
「日にちはもう決まってて、明後日の土曜日なんですけど」
「えー、残念。その日は予定があるのよ」
真琴さんはとても残念がったが、僕も同じ気持ちだ。
「でもじゃぁバスで行くんでしょ。バス停の場所分かる? コーポからまっすぐ行ったまぁまぁ大きい通りの交差点の近くにあるんだけど」
このアバウトな真琴さんの説明を聞き、
「ありがとうございます。今日の帰りにでも下見してきます」
「麻里も行きたかったな」
珍しく麻里ちゃんが会話に参加してきた。
それほどY大図書館は魅力的なんだろうか。
興味が少し大きくなった。
「また今度連れてってもらいましょ。いつだって行けるんだから」
「……」
麻里ちゃんは無言のまま、ぬり絵を続ける。
真琴さんは場の空気を変えようとしたのか、明るめの声で話題を変えた。
「ところでそう言えば航青君。あなたまだ館内を見てないわよね。もうすぐピアノの調律が入るんだけど、良かったらロビーに見に行かない?」
「調律?」
「ここね、ピアノが2台あってその1台の調律が今日なの」
真琴さんはニコっとロビーの鍵を持った手を上げる。
一瞬、僕は返事に困った。
ピアノの存在は気になったが調律作業には全く興味がない。
調律は子供の頃から日常茶飯事的にあったし、何なら授業の一環で自分でもやった事がある。
それに調律師も音大生に見られながらの作業はやりにくいに決まってる。
「すいません。せっかくですけど楽譜を急ぎたいので」
「そぉ。じゃぁ私達行ってくるから何かあったら携帯鳴らして」
真琴さんは麻里ちゃんを連れて事務局を出て行ったが、心なしか2人の背中からワクワク感を感じる。
「まぁ初めて見るなら楽しいかもしれないな。ん? 待てよ。なんで真琴さんが立ち会うんだ? ホールのピアノなら事務所の人じゃないのか」
僕はふと気になった。
そうなると、楽譜を読んでいてもついピアノが頭を
ここに来ている一か月間はピアノが弾けなくなる事は承知していた。
松下教授が僕に声を掛けたのも、毎日の練習が必須の楽器や歌科の生徒には頼めないからだという事も、言われなくても分かっている。
それに音楽は大学までと決めている僕にとって、一か月楽器に触れられないとしても、今後に何の影響もない。
「集中集中」
僕は機を取り直して、譜面読みに戻った。
そして2時間が過ぎた頃、興奮気味な真琴さんが麻里ちゃんを連れて事務局に戻って来た。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい。終わりましたか?」
「終わった終わった。もうバッチリよ。調律師さんの耳って凄いのねー。叩いただけで音の違いが分かるなんて。私はさっぱり分からなかったわ」
調律師がハンマーを叩く真似なのか、真琴さんが右手の指でペンを持って手首を何度も振り降ろす。
さっぱり分からなくてもバッチリと言う真琴さんが、少し面白い。
調律を見たのが相当楽しかったんだろう。
「調律師はピアノの医者とも言われていて、ちゃんと技術や構造を学んでるんですよ」
「やっぱり! ピアノも弾きながらやってたんだけどすごい上手だったの。音楽やる人ってやっぱりみんなちゃんと勉強してるのねぇ。麻里も目を輝かして見てたわよ」
(麻里ちゃんが? 2時間近くよく集中力が持ったな。そんなに珍しかったのかな)
調律師にはピアノが弾けない人もいたりするのだが、今の感動を壊してしまうのも忍びなく思ったので、黙っておくことにした。
「そうそう調律師さんからもっとどんどん弾いてくださいって言われたの。だから航青君も弾きたくなったらいつでも使って」
「いやいや、ホール所有のピアノなんて怖くて触れないですよ」
「大丈夫よ。ロビーのピアノは貰い物だから」
「……貰い物?」
「そうよ、譜面台と一緒。だから誰でも使えるの」
(譜面台と一緒って……)
「まさか、ピアノの寄付があったんですか?」
「寄付っていうより、処分するピアノを父が貰ってきてここのロビーに置かしてもらってるの。管理はオケがするって条件で」
(まじか……)
真琴さんのお父さんの行動力に、僕は脱帽した。
※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※
土曜日の午後。
昼食を食べ終えた僕は、コーポを右に出てまっすぐ6ブロック先へ進んだ所にある片道2車線の通りに出ると、近くに交差点付近にあるバス停から出ているY大行のバスに乗った。
夏休み期間だからか車内は空いていて、僕は最後尾の5人掛けの席に座った。
手土産に近所のスーパーでドーナツを買った。
何個買えばいいか迷ったのでとりあえず箱に入るだけの6個にしたが、一人で食べるのは多いし大学のみんなで食べるには少ないかもしれない。
コミュ力不足のため正解が分からなかったが、手ぶらで行くよりはマシだろう。
そんな事を考えながらバスに揺られていると大きな川に差し掛かる。
それは初めてこの街に来た時に、真琴さんの車で通った川だった。
「そうか、こっちの方に来てるんだ」
車高の高いバスからの眺めには、前にこの橋を通った時には気付かなかった川べりにある遊歩道やこ洒落た屋根付きのベンチが見える。
「へぇ、いいな。今度散歩にでも来ようかな」
僕はキラキラと輝く川面を眺めながら、
(そう言えば彼女は何の勉強をしているんだろう。見た目からだと文系だけど、音大ならバイオリンかフルート、チェロも似合いそうだな。いや、でもあの人懐っこい性格ならチューバやサックスってのも可能性はある)
よく楽器ごとに性格が出ると言われるが、あながち間違いじゃないと僕は思っており、だからなのか、つい音楽で考えてしまう。
ちなみにピアノ奏者は孤独に強いと言われたりするが、あえて僕をピアノに括ればまさにその通りだ。
(いやいやそんな事より、ご迷惑にならないよう長居はせずとっとと帰ろう。彼女の貴重な時間を僕なんかに使わせてしまうのは恐れ多い)
ふぅぅぅ。
思わず大きなため息がこぼれる。
しばらく車窓からの景色を眺めていると、次第に学校らしき景色が見え始める。そして車内アナウンスが終点Y大と告げたと思ったら、バスは停まった。
(着いたか……)
いつの間にか乗客は僕だけになっていたが、降りた先にある屋根付きのバス停に
「こんにちは、椎名さん。お待ちしてました」
「こんにちは。あの、今日はお忙しい中すいません」
「やだ、私がお誘いしたんですよ。ここは暑いし、さっさと図書館行きましょうか」
「はい」
「ありがとうございます」
僕はその後を、ギリギリ連れだと分かってもらえそうな距離を保ってついて行った。
それにしてもY大の構内は広い。
地方とはいえ、さすが文系から理系まで多くの学部を有する偏差値上位の名門大学だ。
歩く道々から見える建物の一つ一つも立派だし、植えられている沢山の街路樹のあちこちからは聞こえる蝉の鳴き声も、かなり煩い。
キンキンにエアコンが効いていたバスで冷え切っていた体も、少し歩くと火照りだして汗が流れ出す。
そして少し先に進んだかと思うと、
「着きましたよ。図書館です」
「え?」
目の前には、[Y大付属図書館]の看板を掲げた、明らかに校舎とは違う造りの立派な図書館がそびえ立っていた。
「ちなみになんですけど」
「はい?」
「その手にお持ちなのはドーナツだったりします?」
「あ、はい。すいませんお渡しするのが遅くなって。良かったら召し上がって下さい」
僕は手に持っていた箱を
すると
しまった。そうだった。
ウチの大学の図書館でも食べ物は持ち込めない。
そんな事も忘れてドーナツを選ぶなんて、なんておまぬけ野郎だんだ。
コミュ障にもほどがある。
「すいません。そうですよね、図書館に食べ物なんて持ち込めるわけないのに、それ捨てて下さい」
「そんな、捨てるなんてもったいない! 私このドーナツ大好きなんです。ちょっと受付の人に相談してみますね」
そう言うと
後に続いた僕はその様子を少し離れた所から伺いながら、別世界の様に涼しい空間で体の熱を冷ましていた。
少しすると、笑顔で
「大丈夫でした。スタッフさんが事務所で預かってくれました。聞いてみて良かった」
「そうですか。良かった。ほんとすいません」
もし僕が同じ立場なら、きっと間違いなく聞く前に諦めてる。
人見知りじゃない結論を目の当たりにし、僕は社会人になったら努力しなければと思った。
「こちらこそお気遣いいただいてすいません。さ、安心して中に入りましょ。これ使って下さい」
するとその先に、広々とした空間にテーブルや書架がズラリと並び、本の香りが心地よく漂う圧巻的でアカデミックな世界が広がっていて、これなら麻里ちゃんの目には別世界に見えたことが簡単に想像できる。
「すごい、ですね」
「5年前に新築されたばかりだから綺麗でしょ。貸出も3冊まで2週間出来るから良かったらどうぞ」
「はぁ、どうも」
「じゃぁ私もちょっとブラブラ見て来ますから」
そう言うと、
(とりあえず僕も色々見て回るか)
僕は
そしていくつかの棚を進んでいく内に、中欧の棚の前で本を見ている
(……中央ヨーロッパ?)
僕はふと事務局での楽譜作業を思い出した。
今整理している5曲の楽譜の作曲家、チャイコフスキー、ブラームス、スナタメ。この3名はみな中欧を代表する作曲家だからだ。
すると視線を感じたのか、
それはカフェで偶然会った時と同じだった。
多少離れていても、
僕の足は自然に彼女の方へ向かい、思わず声を掛けてしまった。
「何読んでるんですか」
「これ? ハンガリーの本です」
「ハンガリー?」
「そう、ハンガリー。ちょっと興味があって」
ハンガリーに興味とは、
ヨーロッパといえば、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、スペインなどが頭に浮かびやすいと思うのだが。
ちなみに僕的にはハンガリーと言えばリスト、バルトーク、コダーイという有名作曲家の名前が一番に思い浮かび、その次にドナウ川だ。
ハンガリーの首都ブタペストは[ドナウの真珠]と言われるほど美しい街だし、多くの作曲家達もこの川にインスピレーションを受けて曲を作っている。
西洋音楽史を専門とする松下教授もドナウ川の話をよくしてくれるが、音楽家にとって欠かせない存在のひとつだ。
「いいですね。ドナウ川とか、本物を見てみたいです」
「分かります、私も見てみたい。ヨーロッパで2番目に長くて、歴史や文化を語る上で欠かせない象徴ですものね」
「詳しいですね」
「今、丁度読んだところだから」
結局僕は図書館に3時間近く滞在して館内で読書を楽しみ、さらにクラシック音楽が登場する小説を3冊借りた。
そしてドーナツの箱を手にした
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