K.4「楽譜」

真琴さんから渡された曲目表に目を通すと、大作曲家の曲が5曲書かれていた。


P.チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36

P.チャイコフスキー: バレエ組曲 くるみ割り人形 Op.71

P.チャイコフスキー: バレエ組曲 白鳥の湖Op.20

B.スメタナ:連作交響詩 わが祖国

J.ブラームス:大学祝典序曲 ハ短調 作品80


(チャイコ、スナタメ、ブラームス、か。とりあえず、全部知ってる曲ではあるか)


僕は段ボールから楽譜を数枚手に取ると、音符を目で追いその音色を脳内再生してみた。

するとフレーズが頭の中に流れて来る。


……何とかなるかもしれない。


「分かりました。とりあえずやってみます」

「ほんと!? ありがとう!」


すがるような目で僕を見ていた真琴さんは、ホッとしたような表情になった。


僕は真琴さんに頼んで長机を4台追加してもらうと、事務局の後方にその5台をスペースを開けて川の字に並べると1台につき1曲の楽譜を置き、壁際に寄せて置いたもう1台の机に、曲名が分からない楽譜を置いた。

これは後で個別に調べればいい。


「あの、私に手伝えることはあるかしら?」


真琴さんが気を使って声を掛けてくれる。


「いえ、今はまだ大丈夫なので真琴さんはご自分のお仕事をして下さい」

「じゃぁデスクにいるから何かあったら声掛けて。休憩も適宜取ってもらっていいからね。お手洗いは扉を出て右にまっすぐ行って左に曲がったとこだから」


真琴さんは事務机に行くと、バッグから取り出したノートPCで作業を始める。

僕は楽譜を読んでは、脳内再生する仕分け作業を黙々と続けた。


※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※


「航青君、航青くん」

「……え?」


名前を呼ばれ、楽譜に集中していた僕は顔を上げた。

すると真琴さんと麻里ちゃんが、僕の背後で手をつないで立っている。


「もう12時過ぎてるんだけど、大丈夫?」

「え? 」


僕は左手首にある腕時計に目をやると、時間は12時30分を過ぎていた。


「ほんとだ。もうこんな時間……」

「お腹空いたでしょ。たこ焼きを買って来たんだけど、良かったら食べない?」


真琴さんは手に持っていた白ビニール袋を来客用の事務机の上に置く。

その袋からは、しょうゆの香ばしい香りが漂っていた。


「ありがとうございます」


僕はリュックから財布を取り出すと、金額を聞いた。


「いいのいいの。奏晴かなはちゃんにも買ってきたし今日はご馳走させて。このたこ焼きね、近くで売ってるんだけどめっちゃ美味しいの。冷めない内に食べて」

「すいません、ではお言葉に甘えて。あの、じゃぁ手を洗いがてら飲み物買ってきます。楽屋口に自販機ありましたよね」

「あるけど奥の休憩コーナーの自販機の方がおすすめよ。種類も多いし少し安いから」

「休憩コーナー? じゃぁそっち行ってみます」

「まっすぐ行って右にあるから。トイレの丁度反対側」


僕は事務局を出ると廊下を右側に進んでまずはトイレに行き、そのまま休憩コーナーへ向かった。

そこはメーカーが違う自販機が4台と3人掛けのソファーが3台並び、居心地が良さそうな空間だった。


「へぇ、いいじゃん。これからはここで休憩しようかな」


僕はその自販機で麦茶とブラックコーヒーを買うと、事務局へ戻った。

すると長机に置かれた仕分けが終わった楽譜を見ていた真琴さんと麻里ちゃんが、ビクッとして僕を見る。


「見てただけ、見てただけだからね。私も真理も触ってないから」


焦りながら机に戻る2人の姿を見て、(もしかして楽譜をバラバラにした時の事でも思い出したのかな)と思いながら、机に座った。


「別に見てもらって構いませんよ。もしたこ焼で手が汚れていたら、触るのだけは避けて欲しいですけど」


すると、椅子に座る真琴さんの膝の上にチョコンといる麻里ちゃんが、自分の手のひらを確認する。


(ん? もしかして触ったのか?)


僕は笑いそうになるのを堪え、たこ焼を自分の口へ運んだ。


「ほんとだ。美味しい!」

「でしょ。麻里でも1パックペロリよ。航青くんには少なかったかな」

「いえ、お腹いっぱいにしたら眠くなるといけないし」

「それにしてもすごいわねぇ。見ただけでポイポイ分けちゃって。航青君の頭の中どうなってるのよ」


真琴さんに頭を撫でられ、麻里ちゃんは嫌がる素振をする。


「別に大したことしてませんよ。音符からメロディーを思い浮かべるだけです。あの5曲は知っている曲なので助かりました。ただパーカッションが分からないので、それは何とかしないと」

「パーカッション?」

「打楽器です。ティンパニーとか太鼓とか」

「あ、そっか。打楽器も楽譜があるのね。イメージした事なかったわ。ところで航青君は何の楽器をやってるの?」


麻里ちゃんが僕をチラリと見る。


「僕はピアノを少し。でも大学は学理科なので楽器はそんなに弾けません」

「学理?」

「音楽を学問として勉強する学部です」

「学問? ん? ……学問??」


真琴さんが首を傾げる。


この反応には慣れていた。

音大の一般的なイメージは、楽器が弾ける音楽好きの子供が上達を目指して入学する大学だ。

だから学問と言われてもピンと来ない人も多い。

ただ説明をし始めるとキリがないので、今みたいな世間話程度ならサラッと流してしまうのが無難だ。


「難しく考えなくていいですよ。楽器の上達を目的としていない学部くらいに思ってくれればいいですから」

 

真琴さんはフーンと不思議そうにしている。


「でもピアノは弾けるんでしょ。良かったら今度聞かせてくれない? 最近麻里がピアノに興味を持ち始めてるの」

「麻里ちゃんが?」

「ロビーにピアノがあるからね」


僕は麻里ちゃんを見た。

すると一瞬だけ目が合ったが、すぐに視線を反らして俯かれてしまう。


どうやらまだダメのようだ。

深追いせず、僕は真琴さんに向けて話を続けた。


「でも弾けるといっても、音大生みたいに上手じゃないんです。ご期待に沿えないかも」

「またまたぁ。航青君も音大生じゃない。それに私なんかチューリップだって怪しいレベルよ。それよりは弾けるでしょ?」

「まぁ、……そうですね」


チューリップ……。

どうやら真琴さんは、そのままの意味で受け取ったようだった。

この場合の上手じゃないは、かなり上のレベルと比べての話だったのだが。


そうこう話している内に僕はたこ焼を食べ終えた。

すると真琴さんは、麻里ちゃんを膝から降ろして立ち上がる。


「航青君はまだ休憩してもらって全然いいんだけど、私達はちょっと外出してもいいかしら。譜面台をゲットしてくるから」

「ゲットって、買いに行くんですか?」

「ううん。寄贈よ寄贈。隣町の中学校から壊れた譜面台をくれるって連絡があったから取りに伺うの。ウチ、譜面台が足りてないから助かるわぁ」

「でも、壊れてるのをもらっても使えなくないですか」

「修理したら使えるかもしれないでしょ。板金やってる団員さんがいるから見てもらうのよ。ウチお金無いから、中古を再利用してる備品めっちゃ多いわよ」

 

お金無いって、いやいや金沢家にはあるだろう。

僕は一瞬そう思ったが、オケの運営は会費制だった事を思い出し、同時に母親の姿も思い出した。


僕が6歳の時に両親は離婚し、母親に引き取られた僕は小さなアパートで親子2人細々と生活をしていた。

母はちょっとした家具や自分の服などは中古品で揃え、不具合があれば修繕を重ねて、大切に使い続ける人だった。

それが生活のためだと気付いたのは小学校4年生の時だったが、その習慣は今でも変わらず、今も実家のアパートの部屋は母のぬくもりであふれている。


「修理なら、僕にも手伝わせて下さい」


僕は思わず言葉に出た。


「ありがとう。一度家に帰って車で行くから戻りは3時過ぎるかもしれないけど、何かあれば事務所に言ってくれたら大丈夫だから。あ、休憩もちゃんと取ってよ。無理は絶対にしちゃダメだからね」


真琴さんはそう言うと、麻里ちゃんを連れて事務局を出て行った。


僕はたこ焼のパックを袋に入れて口を結んでゴミ箱に捨てると、空気を入れ替えるために窓を開け、風通しを良くするため事務局の扉も開けた。


すると扉の前に、丁度廊下を通り掛かった奏晴かなはさんの姿があり、突然開いた扉に、驚いたような顔で僕を見た。


「あ、す、すいません!」


僕は慌てて謝まった。

すると奏晴かなはさんは微笑みながら「いえ、こちらこそすいません」と頭を小さく下げ、そのまま廊下を右手に進んで行く。


この先にはトイレや休憩コーナーがある。


(閉めといた方がいいかな)


僕は扉を閉めるとついでに窓も閉め、まだ1時過ぎではあったが楽譜の仕分けの続きを始めた。


※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※


「ただいまぁ。あー涼しい」


まもなく15時という頃に、両手に譜面台を持った真琴さんが事務局へ帰って来た。


「お帰りなさい。あれ、麻里ちゃんは?」

奏晴かなはちゃんとこ。ぬり絵の続きをするんだって。留守中大丈夫だった?」


そう言いながら真琴さんは譜面台を壁際に置くと、右手をブラブラと振りながら左手でおでこの汗をぬぐう。


「はい、ご心配なく。これが壊れた譜面台ですか? 2本もあったんですね」

「そうなのよ。1本って聞いてたんだけど、使えなくて放置されてたのがもう1本あってそれもついでにいただけたの。ラッキーだったわ」


僕は真琴さんの隣に行き、2本並んだ譜面台を見た。

その2本の譜面台は、1本は造りが細い折り畳み式のアルミ製の軽量タイプの代物で、もう1本は太くどっしりとしていて、折りたためないタイプのスチール製の物だった。

女性が片手でスチール製の譜面台を運ぶのはまぁまぁ大変なので、今真琴さんの右腕はきっと疲労物質が溜まっているだろう。


ちなみにアルミ製の譜面台は、土台になる3本の脚の内の1本に養生テープがグルグル巻きになっていて、そこが折れていることが推測できたが、もう1本は譜面置場が横を向いてはいるが、見た目ではどこが不具合なのか分からない。


「これ、どこが悪いんですか?」


僕は真琴さんに尋ねた。

すると真琴さんは、「ここよ」と言いながら譜面置場の両端に手を掛けて、正面に向けようと力を入れた。

だがびくともしない。


「なるほど。確かにこれじゃ譜面台の意味がないですね」

「男の先生でも元に戻せないんだって」


僕は伸ばしかけていた手を戻した。

そんなに硬いなら僕が無理するまではない。


「どちらにしてもバンちゃんには連絡してあるから、次の練習の時に持ち帰ってもらいましょ」

「バンちゃんって、板金の方ですか」


真琴さんは、そうよ、と言いながら小さな冷蔵庫の冷凍庫からアイスを2つ取り出した。


「食べない? 麻里には内緒の3時のおやつ」

「ありがとうございます」


僕がアイスを受け取ると、真琴さんは事務机でアイスを美味しそうに食べ始める。

僕も向かいの机に座り、御相伴に預かることにした。


そしてアイスを食べ終えた僕は楽譜の作業へと戻り、そこからもあっと言う間に時間は過ぎて、17時まであと5分となると、真琴さんが動いた。


「はいはい、今日はおしまいよ。さぁ楽譜片付けて」


真琴さんは僕の手から楽譜をそっと取ると、段ボール箱の上に置く。


「戸締りは私がするから、明日は10時に事務局に出勤して来てね。じゃぁお疲れ様」

「あ、はい。お疲れ様でした」


僕は追い出されるように、17時丁度に事務局を出ると楽屋口へ向かった。

事務所の前を通ると、奥の机で奏晴かなはさんと麻里ちゃんが並んで座っている姿が見える。


「お先に失礼します」


僕の声を聞いた2人が、こちらを見る。


すると奏晴かなはさんは優しく微笑みながら「お疲れ様でした」と返してくれる。


(そうか、事務所は6時までなんだ)


僕はそのまま楽屋口を出て、会館を後にした。

そして帰る道々、夕飯をどうしようかと考えながら歩いていると、昨日も来た近所のスーパーが見えてきたので、結局今夜もここで弁当と翌日の朝食用のパンを買い、コーポへ戻った。


朝出掛けたキリで閉め切っていたため室内はムッとしていたが、洋室の窓を全開にすると涼しい風が入って来る。


「日が暮れて来るとやっぱ涼しいな」


僕はレンジに弁当をセットすると、汗ばんだ体をスッキリさせるためシャワーを浴び、Tシャツとスウェットの室内着兼パジャマに着替えた。

そしてレンジから温め終わった弁当と、冷蔵庫からは麦茶のペットボトルを取り出すと、洋室の窓際まで行きあぐらで座った。


シャワー上がりで濡れたままの髪に、夜風は気持ち良かった。


「しまったな。アルコールも買ってくれば良かった」


明日は忘れずに買って来ようと思いながら麦茶を口にすると、ベランダ越しから見える細い市道を歩く、奏晴かなはさんの姿が見えた。

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