商店街の思い出

次に向かったのは、家から少し離れた懐かしい商店街。若かった頃の私が冒険心に満ちて駆け回った思い出の場所だ。特に魚屋の前は私のとっておきの場所だった。辛抱強く座っていると、優しい店主がふっと気づいて、新鮮な魚の切れ端を分けてくれることがあった。あの味は、今でも私の心に鮮やかに残っている。


飼い主の温かな腕に抱かれながら商店街に足を踏み入れると、懐かしい匂いの数々が私の鼻をそっとくすぐった。魚の潮の香り、土の香りがする野菜たち、そして焼きたてのパンから漂うほんのり甘い香ばしさ。それらが織りなす独特の空気が、私の古い記憶をやさしく呼び覚ます。私はその香りひとつひとつを味わいながら、若かった日々の思い出を心で辿っていた。


「久しぶりね。この商店街も随分変わったわ」


飼い主のつぶやきには、どこか懐かしさと寂しさが混ざっていた。確かに、いくつかの店は姿を消し、新しい顔ぶれに変わっていた。けれど、私の心に刻まれた大切な店々はまだそこに佇んでいた。時の流れに耐え、今も変わらぬ姿で私たちを迎えてくれている。


魚屋の前で飼い主が立ち止まると、店内から白髪交じりの店主がゆっくりと顔を上げた。年を重ねた彼の姿に少し驚いたけれど、私と目が合うなり、彼の顔にはぱっと明るい笑顔が広がった。


「おや、これはミケちゃんじゃないか。久しぶりだね」


その声には、年月を超えた懐かしさと再会の喜びが溢れていた。飼い主も思いがけない再会に驚いた様子で、「覚えていてくださったんですね」と柔らかな声で返した。


「もちろんさ。この子は昔からよく来てたからね。ちょっと待ってなさい」


そう言うと、店主はゆっくりと奥へ歩き、間もなく小さな白い皿に載せた艶やかな刺身の切れ端を持ってきてくれた。「もう年だから食べられるかわからないけど」と、まるで昔からの友人のように優しく微笑みながら皿を差し出してくれる。


飼い主は心のこもった言葉でお礼を告げ、そっと私を地面に降ろしてくれた。私は小さな歩みで皿に近づき、その香りを深く嗅ぐ。新鮮な海の恵みの香りが鼻先から全身に広がっていく。この懐かしい香りだけで、私の心は満たされるようだった。勇気を出して少しだけ口にしてみると、その柔らかな食感と深い旨みは昔と少しも変わらず、ただただ美味しかった。


魚をいただき終えると、私は感謝の気持ちを込めて店主を見上げ、「ニャア」と静かに鳴いた。それは言葉にならない感謝の気持ちだった。店主は目元を柔らかくしながら、「まだまだ元気そうで何よりだ」と優しく言ってくれた。その声には温かな思いやりと安堵の気持ちが滲んでいた。


商店街の石畳を少しずつ進むと、古びた木の扉が印象的な喫茶店が見えてきた。その店先には年季の入った縁台が置かれている。この縁台もまた、私の大切な場所だった。照りつける夏の日には、その下で涼みながら過ごし、時には親切な店主の女性が冷たい水を小さな皿に注いでくれることもあった。


喫茶店の前で飼い主が足を止め、「ここも覚えてる?」と優しく問いかけてくれた。その言葉に導かれるように、私は縁台の下をそっと覗き込んだ。もう水の皿はないけれど、あの頃と変わらぬ静かな日陰がそこにあった。それだけで心が温かくなる。


ちょうどその時、喫茶店のドアがかすかな音を立てて開き、シルバーの髪をまとめた年配の女性が姿を現した。彼女もまた私を見るなり、目を細めて微笑んだ。


「まあ、この子はミケちゃんでしょう!まだ元気でいてくれたなんて、本当に嬉しいわ」


飼い主と女性は久しぶりの再会を喜び合い、自然と昔話に花を咲かせていった。彼女たちの会話には、私との思い出や商店街で過ごした穏やかな日々が色鮮やかに語られていた。その温もりに満ちた雰囲気に包まれているだけで、私の心はじんわりと幸せで満たされていく。


女性は話を終えると、小さな青い皿に少量のミルクを丁寧に注ぎ、「昔これが大好きだったわよね」と優しく差し出してくれた。その甘く芳醇な香りには、忘れかけていた思い出がたくさん詰まっていた。私は少しだけ舐めてみる。若い頃ほど味わえなくなった今でも、この小さな心遣いだけで十分に幸せだった。


商店街の賑わいを抜けると、小さな公園が静かに佇んでいた。ここもまた、私の心の中の特別な場所だった。冬の優しい日差しが注ぐベンチでは、よく長い時間日向ぼっこを楽しんだものだ。その心地よい記憶が鮮やかに蘇る中、飼い主と一緒にベンチに腰を下ろし、ゆっくりと周囲を見渡した。


元気な子供たちの笑い声、散歩を楽しむ犬と飼い主、静かに本を読む老人――そんな何気ない日常の風景が、今日はどこか特別な輝きを放って見えた。「ここでも素敵な思い出があるんだね」と飼い主は柔らかな微笑みを浮かべながら言った。


私は彼女の膝に優しく飛び乗り、丸くなった。昔ほど身軽ではなくなったけれど、この膝の上は今も変わらず、世界で一番安心できる場所だった。その変わらぬ温もりと穏やかな時間に包まれながら、私はそっと目を閉じた。商店街や公園から聞こえるすべての音が、心地よい子守唄のように響いていた。


長い休息の後、私はゆっくりと目を開け、静かに立ち上がった。この旅にはまだ訪れるべき場所がある――そんな静かな思いが、私の胸の奥で小さく、でも確かに灯っていた。

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