川辺の思い出
商店街から少し歩くと、小さな川が流れている。この川は季節ごとに違う表情を見せる特別な場所だ。春には桜が水面を彩り、夏には蛍が舞い、秋には紅葉が川面を染め、冬には静かに冷たい流れを保つ。私はこの川が好きだった。その変わらない流れの中に、いつも新しい発見があった。
川辺に着くと、飼い主は私をそっと地面に下ろしてくれた。
「ここも好きだったわね」
彼女の声には懐かしさと優しさが溶け合っていた。私はゆっくりと川の縁を歩き始めた。耳に届く水のせせらぎ、鼻先をくすぐる草と土の香り。それらすべてが私の記憶を優しく呼び覚ましてくれる。
若い頃、この川では小魚を追いかけたものだ。浅瀬に足を踏み入れ、水の中で踊る魚影を前足で捕まえようとした。一度だけ捕まえたことがあった。けれど、その時はすぐに放してあげた。狩りは本能だったけれど、その小さな命を奪うことは望まなかった。
川の途中には古い石の橋が架かっている。その下は雨宿りにぴったりの場所だった。私は橋の下をのぞき込んだ。暗くて湿ったその空間は、不思議と安心感を与えてくれる。
「この橋の下であなたを見つけたこともあったわね」
飼い主の言葉に記憶が蘇る。そう、大雨の日、帰り道がわからなくなり、この橋の下で一晩を過ごしたことがあった。翌朝、飼い主が傘を差して探しに来てくれた時の安堵感は、今でも心に残っている。
橋を渡ると、川の向こう岸には小さな林が広がっている。この林もまた私のお気に入りだった。木々の間を駆け回り、落ち葉の山に飛び込んだり、小鳥を追いかけたりした日々。その自由な時間は私にとって宝物だった。
林に入ると、木漏れ日が地面に美しい模様を描いていた。その光景は昔と変わらないように見えるけれど、木々は少し大きく成長していた。飼い主は私が疲れないよう気遣って、時々抱き上げてくれる。でも私はまだ、自分の足で歩きたかった。
林の中央には大きな切り株がある。その表面は滑らかで、誰かが休憩用に整えたようだった。若い頃、この切り株の上に座って周囲を見渡すのが楽しみだった。高い場所から見る景色は特別で、まるで世界全体を見守れるような気分になれた。
飼い主は私を優しく抱き上げ、その切り株の上にそっと座らせてくれた。
「ここから見る景色が好きだったよね」
彼女は穏やかに微笑む。その言葉通り、私は周囲を見渡した。木々は以前よりも高くなり、景色も少し変わっていたけれど、ここから感じる安らぎだけは昔と変わらなかった。
林を抜けると、小さな丘へと続く道が現れる。この丘の上から見る景色もまた格別だった。若い頃、私はこの丘によじ登り、遠くまで続く街並みや空を眺めるのが好きだった。特に夕暮れ時、街灯が一つずつ灯り始めると、その風景はまるで絵画のようだった。
丘へ向かう道は少し急で、今の私には登るのが難しくなっていた。でも飼い主は私を優しく支えてくれる。その手の温もりだけで、私は頑張れる気持ちになれた。
頂上に着いた時、新鮮な空気が肺いっぱいに広がった。遠くには街の輪郭、その向こうには山々の稜線。そして空には、ゆっくりと形を変える雲。それらすべてが一枚の美しい絵となって、私の目に映った。
「きれいね」
飼い主も感嘆の声を漏らした。その声には穏やかな喜びと、どこか儚い響きが混ざっていた。私は彼女の隣に座り、一緒に景色を眺めた。この時間、この場所、この瞬間だけで十分だった。
しばらくして飼い主は腕時計を見る。
「そろそろ帰りましょうか」
その声には少し迷いも感じられた。私は彼女を見上げ、「ニャア」と鳴いた。それは「もう少しだけここにいたい」という気持ちだった。
彼女はその思いを理解してくれたようで、「そうね、もう少し居ましょう」と言って丘の上に腰を下ろした。私は彼女の膝へ飛び乗り、丸くなった。その膝から見る景色は、また違った味わいがあった。
風が吹き抜け、草原全体が波のように揺れる。その音や動きすべてが心地よかった。目を閉じると、今日辿った記憶や若かった頃の日々、それらすべてが心の中で優しく繋がっていくようだった。
日が傾き始めた頃、飼い主は私を抱き上げ、「帰ろうか」と優しく囁いた。その声には満足感と名残惜しさが混ざっていた。私は今日という一日に満たされていた。そしてその疲労感すら愛おしく感じられた。
家への帰り道、飼い主の腕の中から見る町並みは、どこか特別な輝きを放っていた。この旅で辿った思い出、それらすべてが大切な宝物として胸に刻まれている。
私はゆっくりと目を閉じ、この幸せな時間を噛みしめながら、飼い主の温もりに包まれて休むことにした。
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