日常
朝の光がカーテンの隙間から部屋に差し込む。
東京の郊外、築30年ほどの古いアパートの一室。窓枠には少し塗装が剥げているが、白いレースのカーテンがそよぐと、柔らかな光が部屋を包む。6畳のワンルームに、ベッドと小さなダイニングテーブル、それとクローゼット。二人分でも何とかやっていけた。
俺はベッドに腰かけ、作業着のポケットからスマホを取り出して天気予報をチェックしている。電気工事士の仕事は天候に左右されるからだ。まだ眠そうな目で、紺色の作業着の袖が少しよれている。
昨晩泊まった美咲はコーヒーを淹れている。フツフツと鳴る電気ケトルの小さな沸騰音と、ドリッパーからポトポトと落ちるコーヒーの滴が、換気扇の微かな音と共に朝の静寂に溶け込む。
美咲の髪は動きやすさを優先して髪を肩より少し短くしていて、それを後ろで軽くまとめている。グレーのカーディガンの袖が彼女の手首で軽く揺れる。
「砂糖入れる?」
美咲が振り返って尋ねる。声は穏やかだが、朝の眠気がほのかに混じる。
「ブラックでいいや。」
スマホをテーブルに置き、立ち上がって美咲の背後に近づく。彼女の肩越しに、コーヒーの香りを吸い込む。
「おはよう。いい匂いだな。」
美咲は小さく笑って
「そう? 昨日、コンビニで買った豆だけど」
と答える。彼女の手には、陶器のマグカップが二つ。俺の分は少し欠けた青いカップ、美咲の分は白地に小さな花柄のもの。二人はテーブルに向かい合って座る。窓の外からゴォーと電車の通る音が聞こえてきた。
テーブルには、目玉焼きとハム、それとトーストが並ぶ。美咲がトースターのタイマーをセットした音が、キッチンから響いたばかりだ。トーストをかじっていると、
「今日、現場どこだっけ?」
と美咲が尋ねてきた。
「下北のビル。空調の配線やるから、たぶん夕方までかかる。」
電気工事士として、ビルの配線や照明の設置を担当している。埃っぽい現場も多いが、仕事が形になる瞬間が嫌いじゃない。
「美咲は? 忙しい?」
美咲は少し真剣な顔になって
「昨日、課長がまた新人に辛く当たってさ。請求書のミス見つけて『お前、何時までたっても学生気分が抜けないな』だって。」彼女が笑うけど、目が少し疲れてる。「でさ、新人に休憩中に『辛かったら辞めていいんだよ』って言ったんだけど、『大丈夫です』って返してきて。ちょっと心配なんだよね」
と少しトーンを落として話した。
「また自分の事は棚に上げて、人の心配ばかりする。俺は美咲の事が心配だよ。」
と俺は返すと
「ありがとう」
と美咲はつぶやいた。
それから俺たちは静かに朝食を食べる。トーストをかじる音、コーヒーをすする音が部屋に響く。時折、目が合って、ぎこちなく微笑む。美咲の少し垂れている切れ長の目があいつに似ていて、少し苦手だ。
俺は上手くやれている、と自分に言い聞かせた。
朝食が終わると、美咲が皿をシンクに運ぶ。
「俺が洗うよ」と立ち上がり、彼女の握ったスポンジにふれる。
美咲は「じゃあ、拭いてよ」と言って、二人でシンクに並んだ。
狭いキッチンで肩が触れ合い、腕が美咲の背中に軽く当たる。
「邪魔だなー」
と美咲が笑いながら言うから、俺はわざと体を当てて
「うるせぇ」
と言い返した。
洗い物を終えると、美咲は窓を開けて空気を入れ替える。春の風がカーテンを揺らし、部屋に清涼感をもたらす。俺はベッドに座り、仕事用の工具バッグをチェックする。美咲は床に座り、スマホでニュースを眺めながら、
「今日、雨降らないといいね」
と言う。
「予報だと大丈夫そう。まあ、ビルの屋内だから関係ないけどな」
と俺は笑った。
美咲が仕事の準備を始める。彼女は鏡の前で軽く化粧をする。俺はベッドに寝転がり、彼女の後ろ姿を眺める。
「今日、なんかいつもよりキレイじゃん」
と、わざとらしい口調で言う。美咲は鏡越しに目を細め、
「はいはい、朝から調子いいね」
と返すが、頬がほのかに赤くなる。
美咲が出かける前、玄関で靴を履く彼女に、「気をつけてな」と声をかける。
美咲は「うん、そっちも怪我しないようにね」と笑顔で答えて家から出ていった。
バタン!とドアが閉まる。
ハァーと俺は息苦しさから解放されて大きく息を吐いた。紙たばこをくわえて、手にした100円ライターをチッチッと鳴らした。煙を吸っていると、この生活が借り物の舞台みたいに思えてきた。
現場から帰ると、美咲はすでに家にいた。キッチンでは、彼女が作ったハンバーグの匂いが漂っている。テーブルには、二人分の皿と、コンビニで買った缶チューハイが並ぶ。
「おかえりー。ハンバーグ、ちょっと焦げちゃったかも」
と美咲が笑う。
「焦げた方がうまいって」
と言いながら、作業着を脱いで椅子に座った。
二人はハンバーグを食べながら、今日の出来事を話す。美咲は事務作業でミスした同僚の話を、俺は現場で先輩に教わった配線のコツを。特別な話題ではないが、こうして一日を共有することで、二人の距離はいつも近かった。
「ハンバーグ、どう?」
と美咲が聞いてきた。
「マジでうまい。ほんと、お前料理上手いな」
と返す。美咲は照れながら、
「まあ、母さんのレシピだし」
と笑った。
寝る前、美咲と俺はベッドで互いにスマホをいじる。部屋の明かりは暖色で、静かな夜の雰囲気に包まれている。
美咲がふと、
「ねえ、来週どっか行こうよ」
と言う。
「いいな。どこがいい? 海とか?」と返す。
「海! なんか、波見てたら仕事の疲れ忘れそう。」
美咲の声が弾む。
「小さい頃、親とよく海行ったんだ。なんか、帰ってきたって感じがする。」
俺は彼女の笑顔を見ながら、胸の奥が締め付けられる気がした。
「じゃあ、海な」
と約束する。
明かりを消してベッドに入る。美咲がスマホを置いて、布団の中で俺のほうに体を寄せる。彼女の手が俺の腕にそっと触れるが、すぐに離れる。
「…なんか、寝る前になると遠い目するよね。嫌な夢でも見てる?」
彼女の声は軽い調子だが、
「んなことないよ」
と俺が答えると、美咲は小さく「ふーん」とだけ言って、背中を向ける。その背中が、どこか俺の答えを待っているように思え、美咲をだき抱えた。
窓の外では、夜の街が静かに眠っている。眠るのはいつも怖い。また、あの夢を見るのかと考える。
美咲に回していた腕に力がこもる。美咲の手がそこに添えられた。
「大丈夫だよ。」
美咲のささやき声を聞いて、ようやく眠りについた。
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