19
幸い、カミラにかけられていた呪縛は大したものではなかった。即効性の精神封印の類いだ。リゼは早々に封印を解き、彼女と共に使節聖堂へと向かった。
こちらの状況は伝えたものの二人からの返答がない。逃げてくれているといいが、クリプトグラフが繋がらないことを考えると不吉な予感がした。
実のところリゼは、カミラなんて放ってすぐにでもアヤトの元へ駆けつけたかった。だが彼に幻滅されるかもしれないという思いがそうさせてくれなかったのだ。それに彼女は聖女の継娘だという話だ。もしもの時、聖女を止めるきっかけになるかもしれないという打算もあった。
聖堂へ続く林道に入った。何の気配も感じない、嫌な静けさだった。聖堂が見えてきた。
二人は木の陰に隠れて様子を窺った。聖堂の一部が崩れている。その中にローレンツの姿があった。もう一人、男が地面に転がっていた。リゼはそのまま視線を左へ流していった。
倒れた二人の男から少し離れたところにアヤトの姿はあった。血だらけで仰向けになっている。横たわる彼を足で挟むようにして聖女が仁王立ちしていた。こちらに背を向けていた。
リゼは思わず飛び出した。彼女の背部にはすでに五つの虚空が展開されている。そこから鎖に繋がれた槍先が聖女を目掛けて勢いよく射出された。
聖女は一瞥もくれず飛び退いた。二本の槍先は彼女のいた地面に突き刺さり、残りの三本は少し遅れて聖女を追撃した。
聖女は踊るような足取りで槍先を躱しながら、それらを全て剣で叩きつけた。落ちた鎖たちは、虚空が閉じると共に光の粒となって空中へ散っていった。
「あたしの弟にさわるなっ!」
「指向制御ができるのか。その歳でようやるのう。じゃが、あまり研鑽を積みすぎるのも好ましくないぞ、若人よ」
どうして……、と悲痛な表情で呟きながら、カミラも影から姿を現した。聖女は少し驚いたように眉をぴくりと動かした。
「早かったのう。まだ半刻も経ってないはずじゃが」
「いま、戦う理由なんてないじゃない……」
その時、聖女の顔に弱ったような陰が生じた。彼女は無言のまま、何かを諦めたように微笑んだ。カミラとは会話をする気がないように見えた。
聖女はリゼに視線を移してきた。真剣な面持ちに戻っていた。
「あの男に道化を振る舞わされたと思うたが、どうやらそうでもないようじゃな。それと姉弟ということは、うぬにも役があるわけじゃ」
リゼは顎を引いた。「……何の話よ」
「呆けんでもよい。カミラの封はうぬが解いてやったんじゃろう?」ふん、と鼻を鳴らして聖女は続けた。「おおかた、うぬがそれの鍵というとこじゃな」
それ、とはアヤトのことを言っているらしい。
「だから、何の話よ……」
「これより呆けるなら、直ちに
聖女はアヤトの方へ少しずつ歩み寄り始めた。リゼにとっての命の天秤が、彼女自身より弟の方が遥かに重いことをわかっているようだった。聖女はゆっくりと、だが確実に彼へと近づいていく。
リゼは唇を噛んだ。自分じゃ聖女を止められない。もう、やるしかないのか……。他に手はないのか――。
その時だった。不意にクリプトグラフが繋がった。団長だ――彼女はそう直感し聖堂へ目を向けた。瓦礫の中からローレンツがこちらを見ていた。
『リーゼロッテ……』
リゼは目に涙を溜めながらゆらゆらと首を振った。「いやよ……」と細い声で呟いた。
『思い出せ、この三年間を。あの日の約束を……』
ローレンツの眼差しに真摯な光が宿った。やれっ、と目が語っていた。
リゼは苦悶の表情で腕を持ち上げ、両の手の平をアヤトへと向けた。すると彼の身体の周囲に五つの虚空が展開された。その虚空から半透明の鎖が伸びているのが見えた。
「なに、あれ……」とカミラの呟きが聞こえてきた。
五本の鎖は徐々に色を帯び、形がはっきりしていった。それはアヤトの五体――首と四肢に巻き付いていた。今まで彼を縛っていた鎖だ。
聖女はいつの間にか足を止めていた。彼の様子を見守っている。
リゼの頬に涙が流れた。「……リベルタス・ア・カテナ」
そう彼女が唱えた瞬間、アヤトと絡み合っていた
やがて彼の束縛が解け、全ての鎖が巻き上げられると共に虚空が姿を消した。
「ねえ」カミラがリゼの肩を揺らしてきた。「なにをしたの……」
だがリゼは答えなかった。彼女はその場にへたり込み、これでいいんだよね、と自らに問うていた。あるいは亡き両親に問いかけていたのかもしれない。
ねえ……、とカミラがもう一度肩を揺らしてきた時だった。痺れるような空気の震えをリゼは感じた。
はたとアヤトを見た。その震動は彼から発せられていた。奥で聖女が笑みを浮かべている。
アヤトがゆっくりと上体を起こした。彼は自分の身体の具合を確かめるように手を開いたり閉じたりし、それを何度か繰り返すと徐ろに立ち上がった。
彼はどこか遠くを見るようにその場に屹立した。
「そうか……」アヤトは呟いた。「……そういうことか」
その途端空気の震えが増し、空間が歪むのがはっきりと目に映った。その歪みの波は聖女に向かっているようだった。同時に聖女からも歪みが発せられた。
両者の間で歪みが衝突し、その摩擦で二人の姿が蜃気楼のように揺蕩って見えた。
「なにこれ……」カミラが言った。「アヤトの、神性……?」
互いに干渉し合った二つの神性は、やがて風船が割れるように忽然と消え去った。
アヤトはそばに落ちていたダインスレイヴを拾い上げた。魔剣を手にした彼の立ち姿を見て、昔読んだ詩の一節をリゼは思い出した。たしかゲオルゲの詩だ。
『ある者には
恐れおののきながらに私は認めたのだ。我が
「ようやく自分を思い出した」アヤトは言った。「俺は、クリストスだ」
走馬灯みたいだな、と綾人は思った。三年間忘れ去られていた記憶が溢れるように蘇ってくる。家族と過ごした日々、薔薇十字団と共に立った戦場のあまねく記憶が思い出された。
綾人は首を捻って二人の顔を見た。カミラは戸惑いの表情を浮かべ、リゼは泣いていた。
ありがとう、二人共――綾人は目に想いを込め、彼女等に微笑んだ。
「お目覚めじゃのう、我が
その声で綾人は幼女と向き合った。幼い姿だな、と改めて思う。だが彼女はその小さな身体で多くの命を背負ってきたのだ。
「じゃが口惜しくも、聖告序列に第十一位の名が加わることはないのう」
「何だと?」こいつの目的は何だ、と綾人は思考した。
「我が旦那を斬った代償は大きいぞ。心の痛みを、うぬも身に沁み味わうがいい」
どうやら俺を殺す気らしい――綾人は聖女の顔を見返した。彼女は悦に入った様子で口元に笑みを浮かべている。その瞳に宿る光は狂気のように見えた。
殺しに歓喜しているのか――。
「リゼ、ローレンツを回収して精霊の家へ」綾人は早口で言った。「カミラも一緒に行け」
「ならん――」聖女は二人に向かって手の平を向けた。それと同時に彼女の頭上に視界を埋めるほど巨大な魔術円が展開された。よく見ると、機械式時計の内部構造のように、大小様々な魔術円が複雑に連なって一つの至大な円を構成していた。
「そんなことすればこの場の全員吹き飛ぶぞ」
「そうじゃのう。儂とうぬの他はな」
綾人は歯を食いしばった。正気じゃないな。「……わかった」
その場にいろ、と彼は二人に片手で合図した。自分と聖女が本気で魔術をぶつけ合えば周囲にも大きな被害が出る。剣で勝負するしかない――。
聖女が手を引っ込めると魔術円も消滅した。彼女がその気なら乗らない手はない。魔術勝負で歯が立たないことは今ので理解した。剣で撃ち合えるのならまだ幾らか勝機はあるはずだ。
綾人が剣の柄を握りしめた時、予備動作もなく聖女は抉るように地面を蹴った。彼女はその神速に任せて剣を振るってきた。
綾人は短い吐息と共にその一撃を受け止めた。聖女の動き、振るう剣の輪郭まで、今の彼は鮮明に捉えることができた。
鍔迫り合いの中、彼は聖女の凄まじい怪力に目を見張った。全力で押しているのに全く引かない。まるで壁だ。華奢な体躯のどこからそんな力が出ているのだ。
聖女は、ふっと笑みを溢した。重心を落としたかと思うと、右足を踏み込んできた。
綾人は後ろに軽く飛ばされた。両足を地面に滑らせて静止する。聖女は涼しい顔でこちらを見ていた。底の知れない女だ。
はっ、という気合を吐いて綾人は地を蹴った。駆け走り、聖女まであと数歩のところで飛び上がる。身体をしならせ、空中で回転を加えた剣を上から斬りつけた。横に構えて受けた聖女の足が土にめり込んだ。
だがやはり、聖女はそれをも弾き返した。宙に浮いた彼の首元に突きを見舞ってきた。
綾人は剣の腹でそれを止め、手首を回して彼女の刃を横に逸らした。聖女の胸元が空いた。彼は浮いた体勢のまま彼女の腹に蹴りを放つ。
聖女はその足を片手で摑んで受け止めた。内心ではまじかこいつ、と舌を巻きつつ綾人は上半身を捻り捻転力をかけて足を回した。聖女の手が離れその場に着地する瞬間、彼女に向くために身体を半回転させながら胴を薙いだ。
聖女は剣を縦にしてそれを防ぐと、綾人の横腹に左拳の下突きを放った。
死角からの攻撃に綾人は全く反応できなかった。どん、という衝撃と共に斜め後ろへ飛んだ。彼女の拳が自分の腹に沈み込んだ感触が遅れてやってきた。
地面に転がった綾人は片手を付いて跳ね起きたが、激しい痛みですぐに片膝を折り横腹を手で抑えた。手早く触診すると肋骨がやられていた。だが内蔵が壊れていないだけましだ。
「ここらがうぬの限りかのう」聖女が言った。「体が追いついてない感はあるが、馴染んだとて儂は打倒できんよ」
綾人は聖女を睨みつけたが、言い返す言葉は出なかった。彼女がまだ手を抜いていることはわかっているからだ。
「気づいておるか? 初めの鍔迫り合いより、儂はこの場から動いておらんぞ」
そう言われ、綾人は聖女の足元を見てみた。そこには足がめり込んだ土の跡があった。彼の攻撃に対して足の向きは変えているが、たしかに一歩も動いていないようだった。
化け物め、と彼は心の中で吐き捨てた。しかし、逃げ口上に聞こえるかもしれないが、今の攻防は綾人にとっても準備運動に過ぎない。三年間まともに動いていなかった身体がどこまで耐えられるか――それを確認していたのだ。
綾人は剣を地面に突き刺し、立ち上がった。両手を後ろで組んで身体を伸ばし、次いで両足を開いて筋を伸ばす。
三年のブランクは同じ条件。違うのは、今まで彼女が培ってきた年季だ。
「勝負はここからだ」綾人は剣を手にした。
「ほう?」
綾人は長く息を吸い、脇構え――地面と水平にした剣の切先を背後に隠し、柄を握る手を腰骨辺りに置いた姿勢を取った。しゃがみ込むように力を溜めながら腰を落としていく。
腿の筋肉が十分肥大したところで思い切り地面を蹴った。低く滑空するように距離を詰め、綾人は下から斬り上げた。歓喜か挑発か、聖女の口元には笑みが見えた。
中段に構えた聖女の迎撃で両者の間に火花が散った。弾けた二つの剣は、だが綾人の斬り返しが一歩早い。彼が振り下ろした袈裟斬りを、彼女は後ろに大きく飛び退いて避けた。
綾人は間髪入れず彼女の懐に入り込み、逆袈裟に斬り上げる。
入る――彼はそう確信した。しかし、その剣身の腹を聖女は裏拳で弾いてみせた。綾人は愕然と目を丸くした。
冗談だろっ――。
前屈みに体勢を崩した綾人の左肩に聖女の剣が迫ってきた。その軌道は映画のワンシーンのようにスローモーションに見えた。顔の横を剣が流れていく。切先が肩に斬り込んだ。
だが刃がそれ以上進むことはなかった。聖女が剣を引いたかと思った次の瞬間、銀鎖が彼の目の前を素早く通過した。
綾人はリゼを見た。彼女の背部に一つの虚空があった。
「蠅が」と底冷えするような低い声が近くで聞こえた。
綾人は慌てて聖女に目線を戻した。そこには鬼の形相でリゼを睨む幼女の顔があった。その瞳には、人のものとは思えない憎悪の光が宿っていた。やばい、と彼は直感した。
「やめろリゼっ!」綾人は叫んだ。「手を――」
出すな、と言おうとして遮られた。視界が暗転したのだ。聖女に顔を摑まれたのか、と気付いた時には地面に頭を打ち付けられていた。
彼は咄嗟に上体を起こした。取り戻した視界に映った光景を見た数秒後、綾人は全身が
まず目に入ったのは、聖女の後ろ姿だった。そして彼女越しにカミラとリゼの姿を認めた。二人共開いた口が閉じず、唖然とした表情をしていた。
やがて、カミラは苦しそうに顔を歪めた。少し遅れてリゼも同じ顔つきになった。
聖女に突き刺されている、と綾人は理解した。カミラがリゼを庇おうとしたことが見て取れた。彼女が真ん中で挟まれているからだ。
綾人は力なく立ち上がり、二人に向かって右手を伸ばした。
「だ、だめだ……」
彼が足を一歩踏み出した時だった。二人の胸に刺した剣を、聖女は薙ぎ払いながら勢いよく引き抜いた。剣身の軌跡から血が飛び散ると共に、二人は崩れ落ちるようにその場に倒れた。
その瞬間、綾人の中にあった割れた写し鏡が、ぱりんと音を立てて崩れ落ちた。彼は糸が切れたように伸ばしていた腕をぶら下げ、虚ろな目で立ち尽くした。
聖女はこちらに振り返った。長い金髪が飴細工のようにさらりと流れる。
「クリストス――常若と言えど、心は一つ。愛する者の死、仲間の屍――数多の絶望を忍ぶにはあまりに小さい」聖女はゆっくりと呟くように言い、そして続けた。「さればこそ、それに魂を病むのではなく、やがて来たる救いを思わねばならん」
聖女は自身の髪を肩にかけて前へ出すと、それを片手で束ねた。その髪束を首の後ろで短く持ち、剣でばっさりと切り落とした。
彼女は切った髪束を固く結ぶと、地面に横たわるカミラのそばに置いた。
「死屍累々の惨劇に慰められて、儂はここに立っている」
聖女の言葉と行動は、綾人の意識に全く入ってこなかった。認識はしているが、頭が真っ白だった。
その時、視界の中で何かが動いた気がした。綾人は虚ろな目のままそれを探った。しかし目に映るのは、彼の愛した二人の少女が、血溜まりの上に寝そべった姿だけだった。
だが次の瞬間、呻くような声が聞こえてきた。綾人はリゼに目の焦点を合わせた。クリプトグラフを通した声だったからだ。
『……いき、て……』
生きて、と言っているのだと綾人は理解した。
そうだ、ようやく全てを思い出したのに、やっと自分を愛してくれる人と出会えたのに――。
彼の消えかけていた意識の残り火が息を吹き返した。烈火の如く激しく燃え盛っていく。
これから二人と共に歩んでいくはずだったのに、それをお前は。
綾人の目は真っ直ぐ聖女に向けられていた。彼女は二人から離れるように歩いていた。その横顔を眺めながら、彼は先ほど彼女が口にした言葉を思い出していた。
聖女、お前は自分に救いがあると思っているのか。いいや、そんなことは許さない。俺がお前を地獄へ送ってやる。地獄まで引き摺り回してやる――。
目を醒ました本能が腹の奥底から込み上げ、彼の理性を蝕んでいった。
「ぶっ殺してやる――」
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