18
ドーピングとはこんな感じだろうか、と綾人は思った。初めて魔剣を握った時とは全く異なる感覚がある。身体中を魔力が駆け巡っていた。まるで、今まで自分の中に眠っていたものを無理やり引き出されているようだ。
「フォン・フラガラッハ――」
その声と共に目の前に仄白い閃光が飛んできた。綾人は反射的に剣を下段から斬り上げる。
衝突と同時に甲高い金属音が響き、閃光は飛散した。剣自体が魔力を帯びているせいか、当たると同時に術式が分解された感触だ。そんなことより――。
「やはり厄介だな、その魔剣は」
綾人は改めてユリウスを見た。術式の構築速度が段違いで速い。少し遅れれば致命傷だった。
集中しないと――彼は大きく息を吸い込み、ふぅーっと長く吐いた。重心を低める。
綾人の疾走に合わせてローレンツが魔術を展開させた。ユリウスの足元に魔術円が浮かび上がり、彼の膝が地面に付く。
ユリウスは剣を地面に突き立てた。だがその隙に綾人が一気に距離を詰めていた。
ぱりん、とガラスが割れるような音と共に魔術円が消えた。それとほぼ同時に綾人は上段から斬り下ろした。
ユリウスは地面を蹴り、突き立てた剣を軸にして身体を捻ってそれを避けた。流石に戦い慣れてるな、と綾人は思った。しかし、そこへローレンツがもう一撃を繰り出す。
剣を引き抜いた体勢のままユリウスは受け止めた。彼等の周囲から少しく土煙が上がった。鍔迫り合いになったが隙がない。綾人は後ろから様子を見ていた。
「もう老兵だな」ユリウスが言った。「戦時の力強さはない」
ローレンツは柄から右手を放してユリウスの腹に掌底を振るった。
ユリウスは背後に跳んでそれを躱し、一度二人と距離を取った。
「諦めたらどうだ」と綾人は言った。「あの赤毛が廃教会を襲ったのなら、現場がレ・コンカルラとはいえもうじき妖政郷の魔術師が大勢集まる。ここにもだ」
「逃げたいなら逃げればいい。妖政郷が来て困るのはお前たちも同じだろう」
ユリウスの物言いに綾人は思わず苛立った。
「他人の命で築かれた安寧を容易く踏みにじるなって言ってんだよ」
「安寧だと? この三年間のフラウエンが安寧だとでも思っているのか? そんなわけないだろう。停戦後のフラウエンがどれだけ悲惨な日々を送ってきたかも知らんくせに、知ったような口を聞くなよ小僧。それにな」ユリウスは両手を広げた。「これは戦争を止めるための小競り合いじゃない。お前たちが魔剣を持ち去ったことで平和への微かな希望が消えたのだ」
三年前のお前の父親もそうだった、と彼は続けた。
「あんな誓約、教会相手に何の役にも立たんと分かっておきながら我々から全てを奪った。カミシロやお前たちのような
「何言ってる。死者に八つ当たりするなよ。何の役にも立ってないのはあんただろ。父さんを英雄と呼ぶ人は少なからずいる。この世に地獄を生まないという使命――それを背負ってるのは生きてる者たちだ。カミラは、あんたよりもそのことをよく理解してたよ」
「物を知らんガキが――」言い終える前にユリウスは膝を折った。彼の足元には魔術円が現れていた。
それを見た瞬間に綾人は飛び出した。顔に受ける風圧で、駆ける速度が上がっているのが自分でもわかった。身体が温まってきている。
ユリウスは魔術円に剣を突き立てようとしているところだった。
だがさっきの避け方は使えないぞ――綾人は剣を逆手に持って突進した。
その時だった。にやり、とユリウスの口元に笑みが刻まれた。それを視認すると同時に綾人は激しい目眩に襲われた。
彼は体勢を崩し地面に手を付いた。全身が強張って言うことを聞かない。息も苦しい。
「霊圧か……」と綾人は察した。魔力という魔術師の内に溢れる力の根源――それに敵愾心を込めて発散した威圧。ローレンツが全身に魔力を流し続けろと言った意味がようやくわかった。魔力をまとっていなければ意識を奪われていたかもしれない。
「アヤトッ――」と後ろからローレンツの声が聞こえてきた。何とか顔を上げるとユリウスがこちらへ向かってきていた。
綾人は立てた膝に手を付いた。霊圧の余韻で足に力が入らない。彼は膝立ちのまま剣を構えた。
だがユリウスが大きく踏み込んだ瞬間、綾人の身体は後ろに投げ飛ばされていた。「えっ」
ローレンツに肩を摑まれたのか、と気付いた時にはすでに、斬り落とされたローレンツの腕が彼の目の前に飛んできていた。
大きく開いた目でそれを追いかけた。地面に落ちると、ぼと、と重みのある音がした。
「やれえっ」とローレンツが絶叫した。「アヤトッ」その叫びで綾人は飛びかけていた思考を取り戻した。ユリウスの足元に再度魔術円が発生するのが見えた。
瞬時に立ち上がった綾人は、ユリウスを目掛けて剣を振り上げた。ユリウスは剣を振り下ろした体勢のまま地に伏している。まず躱せない。
しかし、眼前の恐怖で彼の全身は硬直した。カミラの父親――ユリウスは重力に抗いながら身体を起こそうとしている。
綾人は歯を食いしばった。だが依然として身体が動かない。
「敵を殺すのに躊躇するやつが」ユリウスが剣を向けてきた。「戦場で生き残れる道理はないだろう」
その時、ユリウスの足元にあった魔術円が急速に広がっていった。波紋のように幾重にも重なっていく円は、瞬く間に綾人を囲うまでに大きくなった。
強烈な重力がのしかかった次の瞬間、彼は身体ごと剣を振り下ろしていた。その刃はユリウスの上体を袈裟斬りに裂いた。骨や筋肉に当たる感触が手に伝わってくる。
次いで、ぬんっ、と気合の乗ったローレンツの蹴りがユリウスの横腹にめり込んだ。彼の身体は吹き飛び、地面を何度も転がった。
「ローレンツ」綾人はローレンツに駆け寄った。
「問題ない。そんなことより、やつは?」ローレンツは地面に横たわったユリウスに視線を投げた。「死ぬような傷ではあるまい」
「気を失ってるみたいだ」綾人はローレンツに顔を戻した。「お前、腕が……」
ローレンツの右腕はやはり肘から下がなかった。彼は血管を抑えるように腕を握った。
「止血はした。マリーナならもっと上手くやっただろうが」
見るとたしかに血は止まっていた。彼は落ちた右手を拾うと、着ていた外套でそれを包んだ。
綾人は顔を落とした。ローレンツが腕を斬られた直後だったにも拘わらず、自分は剣を振り下ろすのを躊躇ってしまった――その自責の念が彼の胸を締め付けた。
「ごめん……。僕のせいだ」
「いや、あれは私のミスだ。それを腕一本で済ませられたのだから安上がりだ。それに」ローレンツは地面の剣を手に取り、腰に差した。「お前が無傷で何よりだ」
つんとした痛みが鼻の奥に広がり、両目に温いものが広がった。悔しさのあまり、綾人は唇を噛んだ。
「すぐにリーゼロッテと合流するぞ」ローレンツは言った。
ちょうどその時、クリプトグラフの反応があった。リゼの畏縮した気配を綾人は感じ取った。どうした、と訊く前に彼女の声が聞こえてきた。
『すぐに聖堂から離れて……』
「えっ?」
『聖女が脱走した。今、そっちに向かってる』
綾人は大きく息を吸い、夜空を見上げた。全身から力が抜けそうだった。
嘘だろ……、と心の中で呟いた。これは戦争を止めるための小競り合いじゃない――不意にユリウスの言葉が蘇った。その通りになってしまった。もう、戦争は始まってしまった。
どうする――そうローレンツに訊ねようとした時だった。近くで突風が吹くと共に聖堂の方から木の割れるような轟音が響いた。
「何だっ……」
顔を向けると、聖堂に何かが激突したようだった。柱が折れてその周りが崩壊している。土煙が勢いよく舞っていた。
だが次の瞬間、綾人は目を見張った。土煙の隙間から人影が見えたのだ。
「は……?」思わずそう溢した。
一瞬見えた人影はローレンツに酷似していた。頭から血を流した彼が壊れた木の中に埋もれていた。
「な、なんで……」
手を伸ばしながら足を一歩踏み出した時、綾人の視界の端に何かが入った。
心臓が大きく跳ねた。不吉な予感を感じながら、彼はゆっくりと身体を回転させていった。
地面に横たわったユリウスのそばに、一人の幼女が立っていた。
それが聖女だということはすぐにわかった。彼女の佇まいにはそう直感させるものがあった。
十歳にも満たない姿だが、その表情には幼女らしからぬ悲劇の面影が垣間見えた。そしてぼろ布のような衣服からは
「娘を寄越したと思うていきおい出てきたものの、痛ましいのう」聖女は徐ろに膝を曲げると、ユリウスの頬を撫でた。その慈愛に満ちた眼差しは老婆そのものだった。
冗談だろ――内心でそう喚きながら綾人は聖女を凝視した。近いとはいえ、レ・コンカルラからここまで十キロは離れている。連絡があったのはたった今だぞ――。
青い瞳が綾人に向いた。
「漆黒の髪に、ダインスレイヴ」聖女は訊ねてきた。「おぬしがカミシロのせがれかのう」
綾人はゆっくりと首を縦に動かした。
「名はなんというのだ」
「……綾人」
すると聖女は左手を胸に当て、右足を半歩引いた。
「はじめまして、アヤト・カミシロ」聖女は膝を曲げ、頭を下げてきた。「儂は、アデーレ・フランツィスカ・ヴァレンシュタイン。皆が聖女と呼ぶものじゃ」
綾人は口を噤み、目でローレンツの様子を窺った。ぴくりとも動かない。
「案ずることはない」聖女が言った。「あれも強い男じゃ。死んではおらんよ」
「……カミラと、銀髪の女はどうした。さっき会ったはずだ」
「置いてきた。いささか場違いなのでな。半刻もすれば現れるじゃろう。手は出しておらんよ」
彼は何となく状況を理解した。リゼが『脱走』と言ったことから考えて、聖女は自ら廃教会を抜け出したのだろう。彼女と連絡を取りたいが、その一挙手一投足で聖女が不快だと感じれば殺される気がした。
ローレンツと距離を取り、リゼに回収してもらう――それがこの場の犠牲を最小限に抑える最善手だ。だがそんな時間稼ぎを聖女は許すだろうか――。
「問うが、我が背を斬ったのはおぬしか?」
会話で少しでも時間を稼ごう、と綾人は思った。「……そうだと言ったら?」
「いや、心に留まっただけじゃ。おぬしの返答がどうであれ儂のやることは変わらんからのう」
「何だ、やることって……」
「決まっておろう?」聖女はユリウスのそばに落ちていた剣を拾い上げた。
綾人は剣を握り締めた。やっぱりこうなるか――。
聖女は瞑想をするように一度目を閉じ、ゆっくりと開いていった。
両目を剥き、その瞳が大きく見開かれた時、彼女の周囲の空間が歪んだ。その歪みは早波の如く広がっていき、瞬く間に綾人にまで押し寄せてきた。
歪みの波に呑み込まれた時、彼はほんの僅かの間意識を失った。気が付くと目の前に地面が迫っていた。綾人は咄嗟に両手をついた。
なんだ、これ……――ぽたぽたと落ちていく鼻血を眺めながら、綾人は歪みに耐えた。魔力の威圧を絶え間なく浴びせられる霊圧とは違い、自分の全てが奪われ無になっていくような感覚だった。重りを付けたまま深海へと落ちていくように意識が薄らいでいく。
綾人はどうにか顔を前へ向けた。しかし聖女の姿はない。
「なぜじゃ」と左耳の後ろから聞こえた。至近距離だった。「なぜ立たぬ」
立てねえんだよ、と答えたかったが、彼にそんな余力はなかった。
「不愉快じゃ」
その低い声が聞こえた時にはすでに、彼の身体は吹き飛ばされていた。
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