此処ではない何処かの私達でない誰か

 少女の部屋の、小学生の頃から使っている学習机の、鍵がかかった引き出しの奥に、ノートが隠されている。そこには少女が殺したいと思う人達の名前と、殺したい理由、それに殺害方法が書かれている。もちろん本気などではなく、少女のたわいないストレス発散方法に過ぎない。一ページにつき三、四人分、それでノートの半分ほどが埋まっている。その恨みつらみの詰まったページが終わり、真っ白なページをずっと捲っていくと、最後のページに彼女の親友の名前が書かれている。理由と方法らしき文章は、一度書かれて念入りに消されたあとがある。


 もちろんそれは彼女の書いたもののはずで、実際筆跡は確かに彼女のものに間違いないが、しかし彼女にそれを書いた記憶はない。それに書く理由もない。いつからあるのかそれもわからない。いつものように新しい名前を書いて、それでなんとなく残りの白紙のページの数を確かめるようにパラパラとめくっていったときに、それを見つけた。


 親友は成績優秀、性格も明るくクラスの中心人物で、一方少女は飄々としてクラスでは若干浮いていたが何故か二人は気があった。喧嘩をしたことだって一度としてない。


 ノートに新しい名前を書き込むたびに、ついでに最後のページを捲る。いつも変わらず、その名前はそこにある。消すことも何度か考えたが、結局実行には移さない。残しておくには不気味だが、消してしまうにはそれはそれでなんとなく不安だ。


 結局最後の名前はそのままで、段々と名前が増えていく。嫌なことと嫌な奴には限りがない。ノートの三分の二ほどが埋まった時に、事件が起こる。


 ノートに書いた名前の人物が一人死ぬ。二年ほど前に書いた名前で、酔っ払ってセクハラじみた質問をしてきた、親戚を名乗るゴミクズ。別に最初の一人とか、特に強い恨みがあったとか、そういった特別な点はないし、死に方もノートに書いた方法とは全く違う。ただの交通事故。数年もあればこういうこともあるだろう、というだけの話で、もっと早く起こっていても不思議はないくらいだ。しかし彼女はその知らせを聞いてほんの少しだけ嫌な気持ちになる。死んでほしいくらい憎んでいる相手にも関わらず。


 これにはいろいろな理由がある。彼女の復讐はノートに書いた時点で完了していて、その後顔を見ることさえなかった。だからそいつのことはほとんど忘れていたし、その死の知らせを聞いたときも嫌な記憶を思い出すだけだった。その上因果関係がなかったとしても、実際、呪いの言葉を書き込み、それが成就してしまったという形になってしまったことが嫌だった。人を呪った者が、自身もまた不幸になるといった話は枚挙にいとまがない。


 彼女自身がそのすべてを言語化できたわけではなかったが、彼女はなんとなくノートの習慣を一旦やめてしまう。だが降り積もる恨みつらみに我慢できず、一週間もせずに再開される。依存症のようだ、と彼女は思うが、実際のところ強迫性障害に近い。


 そしてなんにも変わらない。別にそれ以上人が死んだという話は聞かないし、親友の名前も最後のページに書いたままだ。


 ノートに現実に干渉する力なんてもちろんない。


 ある日、親友が彼女の家に遊びに来る。何度目の来訪か、忘れてしまう程度の回数は遊びに来ている。


 親友がやってきたのは、予定より三十分ほど早い時刻だ。ちょうどその時、例のノートには、部活の気に食わない後輩の名前と、それをどのように残酷に殺すか、ということが書き込まれている。少女は部活では意外と優しい先輩で通っていて、その後輩にも慕われている。だけど彼女はその後輩を距離感を間違えたうざいやつと思っていて、それを正直にノートに書いている。それくらいで殺すのは、というのは誰もが思うところだろうが、実際には殺さないのでいくらでも過激になる。その過激さの反動が、自身の優しさの源だと彼女は考えている。殺したいほど嫌な部分を分離してしまえば、後輩だって悪いやつではないということに気づくことができる。だからこのノートはそういう面でも必要なのだ、と言い訳しながら、惨劇とも言うべき死を書き表していた。


 呼び鈴が鳴る。その音に驚き、慌ててノートをしまい、鍵を閉める。鍵をポケットにしまおうとして、うっかり落としてしまうが、彼女は気づかない。階段を降りていって、親友を出迎える。


「ごめんなさい、早く着いちゃって」


「全然大丈夫。先に部屋行ってて、飲み物準備してくるから」


 それは本心からの言葉で、一切の苛立ちはない。だが例の後輩が同じことをしていたら、ノートに書き込む文章量が増えていただろう。




 親友は少女の言葉に従って部屋に入り、ベッドに座る。その時足になにか当たる。それは鍵だ。興味を惹かれてそれを拾い、部屋の中を見渡す。鍵穴は一つしか見当たらない。好奇心からそれをさして回すと、鍵の開く音がした。


 出てきたノートの内容を見て親友の顔に笑みが浮かぶ。慎ましやかだが気配りの効く、優しい友達の醜い一面を、自分だけが知ることができたことが嬉しい。書いている名前は知っているものも知らないものもある。知っている名前の多くは嫌なヤツのものだが、善人に分類されるものの名前も少なくない。そこに書かれている理由は、随分と身勝手なものばかりで、だがだからこそ好感を持つ。自分が同じような発想でこんな物を書いていたら、こんなにあけすけには書けない。


 ページを捲っていって、自分の名前が出ないまま白紙のページに辿り着いたことに、安心すると同時に落胆の感情が湧いてくる。自分のどんな部分が嫌われているか、それがわかれば参考になるだろうと思ったのに。閉じようとして、最後のページに癖がついているのに気がつく。開くとそこに、自分の名前と、文章を書いて消したあとを見つけて彼女は心臓が高鳴り全身が震えるのを感じる。


 自分は彼女にとって特別なのだ。その証拠を今まさに発見した。それがたまらなく嬉しい。それが負の感情であれ何であれ。


 その興奮が階段を登る足音に気づかせるのを遅らせる。気づいたときには、もう扉が開くところだった。




 部屋に戻った時、少女は親友が慌ててノートを背に隠すのを見た。


「後ろに隠したもの、見せて」


 こういう時、親友は諦めが早い。すぐにノートが差し出される。


「中身、見た?」


 見たはずだ。見てないのならあんなに慌てて隠すはずがない。基本的にはデリカシーにかけているからだ。親友がうなずくのを見る。


 最後のページを見たか聞こうとして、やめる。それで興味を持たれるようなことがあれば藪蛇だ。


「あのさ、……引いた?」


「いや、別にそんなことはないっていうか、あなたにもそんな面があるってしれてよかったわ。普段結構かっこいいもの」


「そんなの一度も言われたことないんだけど」


「隠れファン多いみたいよ? 飄々として見えて割と優しいところが人気みたいね」


「うーん、あんまり嬉しくないな」


「なんで?」


「人気なんてあっても面倒のもとになるだけだし」


「じゃあ世話焼くのやめたらいいのに」


「差し引いても人の役に立つのは気持ちいいよ。ムカつくことがあればノートに書けばいいだけだし」


「なんか、結構歪んでる気がするけど」


「そりゃそうかも知んないけどさ。でも何か問題ある?」


「うーん、まあ、いいんじゃない? 私は嫌いじゃないけど、そういうの」


「でしょう。わかってくれるの君くらいだろうけどさ」


「まあ、言いふらしたりはしないほうがいいでしょうね。マジでヤバい人のノートだもの。普通の人ならドン引きよ。そこそこ仲のいいクラスメートの名前もあるのが特に」


「いくら仲のいい相手でもムカつくことはあるからね。君だけは別だけど」


「そう? じゃあ、最後のページはどういうつもり?」


「……えーっと、いや、信じてもらえるかわからないけどホントのこと言うと、なんか、いつの間にか書いてたっぽい」


「どういうこと?」


「気づいたらそこにあったっていうか、私の字なのは多分間違いないんだけど、全然記憶にないっていう」


「……」


「いやホントに」


「わかった、信じる。嘘つくならもっとそれっぽくするものね」


「そう、そゆこと」


「にしても、ふふ、あなたが焦ってるのはちょっと面白かったけど、ちょっと残念」


「残念って、なにが?」


「あなたが私をどんなふうに殺したいのか、分かるかと思ったんだけど」


「えっと、どうしてそんなこと知りたいの?」


「それがわかれば、あなたが私のことどう思ってるのかも分かるかと思って」


「いやわざわざそんなもの見なくても、分かるでしょ」


「なんとなくはね。でもちゃんと聞いたことはないわ」


「そうだっけ。えっと、好きだよ、ふつーに」


「色々あるでしょう、好きにも」


「まあそれはそうだけど」


「このノートにはあなたの感情が溢れているわ。憎んでいるものと、単に邪魔に思っているもので殺し方がぜんぜん違う。そういうものを言い訳にしつつ、実は興味や好奇心が勝ってる場合もある」


「へえ、そうなんだ。正直、意識してなかったな」


「だから、気になっちゃったの。私はどう殺されるのかな、って」


「殺さない殺さない。殺す理由がない」


「他の人だって、理由なんてあってないようなものだったりするじゃない。それに多分無意識に書いてたんでしょう? 私の名前と殺し方を」


「だからわかんないって」


「そうだ、今ここで書いてみればいいんじゃない? そうすれば思い出すかもしれないわ」


「そこまでして知りたいわけ?」


「もちろん」


「なんていうか私より君のほうがおかしいよね」


「そう? そうかも知れないわ。いややっぱりあなたほどじゃないわ。まあなんでもいいから早くやりましょう」


「ホントにやるの?」


「イヤ?」


「別にそんなことはないけどさ、実際書くことがないんだから書けるわけないよ」


「やってみなくちゃわからないでしょ」


「そういうの、もっと前向きな事柄に言うべきじゃない?」


「前向きでしょ。生きてる人間にとっては死はいつだって未来よなんだし」


「はは、屁理屈……ってわけでもないのかな。死は人生の集大成でゴールだ。……わかった、やってみようか。でもその前に約束してほしいことがあるんだけど」


「なに?」


「死なないでね」


「いやー、人間いつか死ぬものだし」


「平均寿命くらいは生きてほしいよ。なんていうか、君が早いうちに死んだら私のせいかと思うじゃん」


「呪いか何か? そんな事あるわけ無いでしょ」


「それは当然そうだけど、関係なくても気分は悪いからね」


「じゃ、逆にこれ書かなきゃいつ死んでもいいってわけね」


「そんなこと言ってないって」


「ま、何にしても約束はできかねるわ。人っていつ死ぬかわからないもんだし」


「……別にいいよ、なるべく死なないように気をつけてくれれば」


「でも、気をつけていても死ぬ時は死ぬっていうほうが恐ろしくない?」


「死んだらね。でも死んだときのこと考えるより死なないようにするほうが重要でしょ」


「それはそうかもね」


「いやそれにしても、多分ありえない呪いとか死について真面目に語り合ってると、段々馬鹿馬鹿しくなってきちゃうな」


「真面目なつもりだったの? 私は楽しく馬鹿話楽しんだだけだけど」


「……いやいいけどさ。じゃあもうとっととやろっか」


「はーい」




 ノートに向かう少女が持つ鉛筆の先を、その親友がじっと見つめている。


「やりづらいから、どっか別のところ見てて」


「はーい」


 親友はおとなしくその言葉に従い、目を移した本棚の中に漫画を見つけそれを勝手に読み出す。少女自身もまだ読んでいない新刊だ。少女はそれに文句をつけようとしてやめる。おとなしくしてくれるのならそれでいい。再びノートに向かう。


 殺し方の前にまず殺す理由を考えなくちゃいけない。それが決まると自然と殺し方も決まる……気がする。


 しかし全く考えつかない。彼女に対する許容量が妙に大きい。苛立つこともないわけではないが、それも楽しみの一つのように変換される。よくよく考えると妙な話だ。自分はもっと気軽に人を妄想の中で殺しているのに。彼女が特別なのは間違いないのだろう。どういう意味で特別なのか自分でもわからないだけで。そうしてみると考え方を変えて見る必要があるかもしれない。負の感情以外が、人を殺す動機になりうるだろうか。自分では全く気が付かなかったが親友の言うところによれば、私の殺し方には興味や好奇心が混ざっているようなので、そういう部分を広げていけばいいだろうか。しかし、そういう面が彼女を大切に思う気持ちよりも大きくなるような気がしない。


 愛しているから殺す、というのは物語の中ではよく見かけることだ。だが、どうにもピンとこない話だ。自分は彼女を独り占めにしたいわけでもないし、永遠に美しいままにしておきたいわけでもないし、彼女を自分の中に取り込みたいわけでもない。解剖して中身を見てみたいとは思わないでもないが、それは人体の構造に対する興味であって、彼女だから特別というわけでもない。そもそもの前提として、自分は彼女を愛しているのか、という点からしてはっきりしているわけではない。好きなのは間違いないが、愛していると言えるかまでは。それにどういう意味で好きなのかもいまいちよくわからない。そもそも彼女の方はどうなのだろうか。自分のことをどのように思っているかということがわかれば参考になるかもしれない。


「ねー、君って私のことどう思ってるの」


 もはや私のベットで寝転がりながら漫画を読む彼女に尋ねる。


「私? うーん、好き、だけど」


 漫画を読みながら彼女は答える。


「どういう意味で?」


「どういう意味、ねえ。一言で言うのは難しいかもね」


「いいから教えて?」


「なんでそんなこと聞きたいの」


「私ってあんまり自分の気持がわからないからさ。例として君の話聞けば整理がつくかもって思って」


「うーん、私だって自分の本当の気持ち、わかってるとは言い難い気もするけど、まあいいわ。そういうことなら教えてあげたっていい。まず言っておくけど、なんていうか、心っていうのは複雑怪奇で誰かに対する感情がたった一種類ってことはまずないわ。あなただってそれは分かるでしょう? 殺意向けてるほどの相手でも、そう悪くない感情を持ってることあるでしょ」


「ふーむ、まあ、なんとなく分かるかな」


「私のあなたに対する気持ちも同じで、憎いってほどじゃないけど嫌いな部分もあって、まあだからこそ、より一層好きになるっていうか」


「あばたもえくぼってやつ?」


「あってるような、ちょっと違うような」


「スイカに塩みたいな」


「それもどうかな」


「やっぱよくわかんないや」


「それで、好意みたいな正の感情も一種類とは限らないわ。親しみと憧れは、ほとんど反対の感情だけど両立しないわけじゃないでしょ」


「ふーん……、いや、それは分かるけどさあ、結局はどんな感じなの」


「どんな感じって?」


「色々混じってて複雑だっていうのはわかったけど、結局君がどういう気持ちなのか説明してもらってない」


「言ってるとおりよ。色々混ざってて複雑な好き」


「聞きたいのはそういうのじゃなくて」


「恋愛か友情かみたいなことでしょ。そういうのは感情の混じり合った結果生まれるものであって、今はそこまではっきりしていないの、残念かもしれないけど」


「うーん、まあ、参考にはなったかな」


「そう? それなら良かった」


 彼女はまた漫画を読むのに集中し始める。


 私もまたノートに向かい始めるが、しかし思いつかない。複雑の感情の混じり合いを感じて、しかしその中に殺意は一片も感じられない。


 殺し方を先に考えるというのはどうだろうか。彼女はそこから私の彼女に対する感情を読み取れると考えたのだから、私もそっちから始めてみればいいのではないか。


 と思って考え始めてみたが、こっちもやはり難しい。苦しまないようにあっさりと、なんて考えてみるが、それは殺したくないときに義務としてやるやり方で、このノートにはふさわしくないのではないか。


 死体の姿から逆算してみることにする。物言わぬ物体となった彼女。安らかな死体、悲惨な死体、どのようなものを思い浮かべても、感じるのは絶望ばかりで、心地よさのようなものは一切ない。自分は彼女のことが思っていた以上に好きなのだと痛感する。


 今度は彼女の死の状況まで巻き戻してみる。自分が殺してみてもしっくりこない。だから、事故死や自殺、他の私じゃない誰かに殺されるところを想像すると、それが許しがたく耐え難いものだと感じてしまう。


 そこで私は悟る。私は彼女を殺したいわけではないが、いずれ避けがたい死が訪れるのであれば、それを与えるのは自分でありたいと。


 そこで思い出した。彼女の名前をこのノートに書いたときのことを。夢を見たのだ。彼女が死ぬ夢。正確には彼女の葬式の夢。周りのささやきが自殺だということを伝える。棺に横たわる彼女の寝ているような穏やかな顔を見て、悲しみ、というよりは怒りの感情が湧き上がった。そこで目が覚めた。


 まだ真夜中で、はっきりとしない頭のままノートを引っ張り出し、彼女の名前を書いた。だけど殺す理由も殺し方も思いつかず、何度も書いたは消しするうちに、自分は何をしてるんだろうと我に返りノートを戻してベットに戻った。


 そして朝になるとそんなことはすっかり忘れている。


 今現在の私はノートをじっと見つめて、そしてベッドの方を向く。


 声をかけようとして彼女がそこにいないことに気づく。部屋のどこにも彼女の姿はない。トイレにでも言ったのだろうか。


 ベッドの上には漫画が開いたまま伏せてあり、それはふざけんなという感じだが、しかしすぐに帰ってくる意図を感じさせたため、気にせずにノートに向き直る。


 できるだけ安らかに、見苦しくならないように死なせる、ということなら毒がいいだろうか。しかしそれだと自分が殺したという実感が薄くなってしまう。となると、心臓を一突きということになるのだろうか。しかしそうなると今度は血の処理や証拠の隠滅が難しくなってしまう。いや、これは妄想でしかないのでそんな事を考える必要はないのだ。自分がこれまでは気にすることもなかった実現性について考えていることにわずかに寒気を感じる。妄想との適切な距離を考えなきゃいけない。今までは自然にできていたことなのに、どうしてこうなっているのだろう。やはり彼女は特別なのだろうか。


 さっき考えた通り、心臓を一突きで行こう。気を取り直して書き始めるとすぐに埋まってしまう。理由も方法もシンプルだから当然ではあるが、なんだか物足りない。何か他に書くことがあるかと考えて、理由を掘り下げることにする。死んでしまう前に自分の手で殺したいのはなぜかということだ。


 好意を持っているからだというのは疑いようがない。だが、それが殺したい理由とつながらない。いずれ来る死が避けられないものならば、それが安らかでさえあれば構わないはずではないか。


 そうだ、安らかでさえあれば構わない。だけど、死に方なんて自分では選べない。訪れる死が安らかであるとは限らない。だから、その前に私が安らかな死を与える、というのはどうだろうか。


 馬鹿げた考えだ。傲慢だ。死を与える、などまるで神のようだ。


 それに考えてみれば、彼女の死について想像したときその中には十分に安らかと言えるものも含んでいる。その時私は何を思ったか。たまったもんじゃない、だ。他の死に方と大して変わらない。それどころか、彼女が服毒自殺などしている光景を想像したときなど、激しい怒りが湧いてきたものだ。比較的安らかで、しかも彼女自身が選んだものにも関わらずだ。なんでだろうか。


 安らかだろうが、苦しもうが、周りにとっては悲劇なのは変わらない。そういう事かもしれない。そこで自分が観客でなく役者になれば、悲劇であることは変わらないにしても、その意味を変えることはできる。


 たったそれだけのことで、人を殺そうと思うなんて我ながらおかしいがそもそもこのノートはこういうものだ。過激に想像すれば自分を客観視することに役立つ。


 しかし本当にそうだろうか。私は自分を客観視しようなんて考えているんだろうか。自分の過激さに、異常さに酔っているのではないだろうか。思い返してみて少なくとも最初のうちはそんなことはないと確信できる。私はそうするより外なかったと思う。最近に関してはあまり自信がない。自分に酔っていた、まではないにせよ、ノートにそれを書き込むこと自体が目的になっていたというのは否み難い。でも、楽しかったのは確かで、結局の所趣味に過ぎないのならそれでいいのではないかと思う。そもそもこんなものは高尚な目的を持ち得ない気もする。


 彼女の死について考えるのは気が進まなかったが、やってみると、いろいろなことを見つめ直すことができたのは良かったように思う。だけどこんなふうにまとめていいものだろうか。


 彼女はまだ戻ってきていなかった。結構時間が経っているのに。不安が頭をよぎる。


 このノートはもちろん呪いのノートなんかではない。この前一人死んだのだって間違いなく偶然だ。だからといってもちろんその逆でもありえない。人が死に得ない瞬間なんて存在しない。


 部屋を出る。二階には他に書斎と名のついた物置がある。一応覗いてみるが、人の気配はない。階段を降りる。それなりに大きな音が聞こえて、果たしてさっきこんな音が聞こえただろうかと考える。覚えがない。だけど集中していたし気が付かなくても不思議ではない。まず行きそうな場所、トイレのドアをノックしても反応はない。ドアに鍵はかかっていないし、もちろん開いても中には誰もいない。


 家中探しても、彼女は見つからない。もしかしたら部屋に戻ってるかもしれないと戻ってみるが、やはりそこにも誰もいなかった。


 途方に暮れて窓の外を見る。外はもう夕暮れの時刻で、オレンジの光の中、通る人も車もなく、ただ家々が静かに立ち並んでいる。


 おかしいな、と思う。都会とは言い難い場所ではあるが、かといってどうしようもない田舎というわけでもない。これほどまでに人がいないということがありうるだろうか。


 外に出て、道路の左右を見渡す。真っ直ぐな道をどこまで視線で追っても、車も人も存在しない。


 これは夢だ、とようやく気づく。頬をつねる。痛みを感じる。感覚はそのままのようだった。目が覚める気配はない。いずれ覚めるだろうが、それまでどうしたものか。


 彼女の家に行こうと思い立つ。恐らくこの夢の中では重要であろうノートを持って。部屋に引き返して、戻ってくると、街の様相は変わっている。いや、最初からこうだったのかもしれない。白黒の世界で、彼女の家に通じる道とその周りだけが色彩を保持している。


 歩く。小学校の帰りによく寄っていた駄菓子屋、潰れていないのが不思議なボロボロの電気屋、起きているところを見たことのない大きな白い犬。犬は消えていないんだな、と思った。


 何もかもが懐かしい。懐かしい? おかしな話だ。私はしょっちゅうこの道をたどって彼女の家に行っていたはずだ。それも夢だったのだろうか。


 彼女の家は街から外れて畑に囲まれたところにあった。その畑一面に大量のトマトが植えられていて、熟れすぎた果実が重そうに垂れ下がっている。それが現実の光景と一致するものなのか確かな記憶はなかった。そのうちの一つが落ちて、潰れた。


 彼女の家のドアの前に立つ。時刻はわからないが日は沈んでいた。だけどまだ明るさは残っている。空は紺色、西にわずかに赤い光。黄昏。


 インターホンはなく、呼び鈴があるだけだ。鳴らしても、反応はなかった。鍵はかかっておらず、勝手に入る。


 彼女の部屋は二階にある。階段を登って、ドアをノックした。やはり反応はない。ドアに耳を当てて、中の様子をうかがう。静寂の中に、わずかに彼女の息の音が聞こえた気がした。ドアを開ける。


 電灯のついていない薄暗い部屋、そこにはベッドに横たわる彼女の姿がある。まるで死んでいるかのように動かない。いや、死んでいるのかもしれない。近寄って確かめてみる。肌が青白い。手を口の前にかざす。息が感じられない。手首に触れる。脈もない。


 私は案外冷静だった。もちろんこれが夢だと知っているからだ。でも夢だからこそ、どうしていいか迷う。警察や救急も、呼んで来るとは思えないし、来たからといってどうなるものでもないだろう。


 とりあえず彼女が死んでいる意味を考える。あのノートに関連して、彼女の死んでいるところを実際に見たらどう思うか、と言う実験だろうか。だとして、その試みが成功したとは言い難い。さっきも考えたように、私はこれが夢にすぎないと完全に自覚してしまっている。それにそもそも夢とはそういうものではない。詳しくは知らないが、記憶を整理している際にみるものだという。


 私の中にこんな記憶はもちろんないが、夢っていうのは色々混じり合うものだ。ノートに書いたことも影響しているだろう。いや、あれは夢の中で書いたんだから、むしろ同じ記憶から発生しているのだろうか。ノートをパラパラとめくってみる。夢の中でもそれは揺るぎなく、内容の変化など一切ない。


 そうしているうちに眠くなってきた。夢の中でも眠くなるのだな、と、新鮮な驚きを感じながら、絨毯の上に腰を下ろし、彼女のベッドに背を預ける。眠りは程なく訪れる。夢の中で夢を見ることはあるのだろうか、と思いながら意識を手放した。

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