第23話 らくがき掃除作戦・その1
翌日——
〈空担タック〉は機会をうかがっていた。ハミィにも手伝ってもらい、昨夜のうちに空の〈仮想通貨
入れ替えるためには少なくとも、自宅のPCか学校のタブレット、あるいは空のスマートフォンに、USBメモリが繋がっていなければならない。繋がってさえいれば、それぞれに忍ばしてある〈
今朝、一度チャンスがあった。昨夜、リディの家に泊まった空は、登校前、持ち歩いているラップトップにUSBメモリを挿そうとしたのだが、ちょうどその時、アイリーンがランチボックスを渡しにそばにきたのだ。空はUSBメモリをポケットに戻してしまった。
登校後、午前中は全くタイミングが無かった。何度かポケットに手を入れることはあったが、USBメモリを取り出すことはなく、授業以外でタプレットを触ることも無かった。
次のチャンスはランチタイムだ。
空は、雨の日以外はいつも、リディと一緒にゴルフコースの外れにぽつんと置かれた、ピクニックテーブルで過ごしている。手入れの行き届いた緑が映えるコースを一望できる、校内でもあまり知られていない穴場だ。3年前に空が見つけてから、朽ちかけたテーブルを修理して塗り直し、周囲の草を刈って居心地良く整え、アウトドア用の防水コンテナを持ち込んで、食器やカトラリー、バーナーや調理器具まで揃えている。
今日は気持ちの良い青空が広がっている。空はいつもラップトップを持ってくるので、〈空担タック〉は手ぐすねを引いていた。
11時50分、生徒たちのタブレットから軽やかなメロディーが流れ、4時限目が終わると、空はバックパック——ラップトップも入っている——を持って教室を出た。
教室棟からピクニックテーブルまでは少し距離があるが、イクスサーシャ学園のランチタイムは70分。往復15分程度は許容範囲だ。
裏の非常口から非常階段を降り、舗装された小路を歩いて、ゴルフコースの外れへ向かう。途中、生物担当の教員と敷地整備の用務員で手入れをしている、花壇の側を通る。ちょうど季節がら、チューリップやパンジー、ノースポール、マーガレットなどが色鮮やかだ。
5分ほどでピクニックテーブルに着くと、空はまず、コンテナから丸い布製のケースと、銀色の四角いシートを取り出した。布ケースには、折りたたまれたアウトドア用のガスバーナーが入っている。銀色の、断熱・防炎のバーナーシートを広げ、組み立てたバーナーを置く。ガスボンベをバーナーに挿して、かちっと点火を確認。
次に小さなケトルを取り出して、バーナーの上に置き、ペットボトルの水を注ぐ。もう一度かちっ。ツマミを回して火力を最大にする。バーナーのぼーっという音が意外と大きい。
リディはいつも、教室でひとしきりおしゃべりをしてからやってくる。空はポケットに手を入れて——
〈空担タック〉は身構えた。
——懐中時計を取り出し、時間を確認する。12時ちょうど。リディが来るまであと5分くらいか。
〈空担タック〉は冷や汗をかいた。
〈空担タック〉が潜むデバイスでもある空の懐中時計は、伸縮するチェーンでベルトに繋がっていて、いつもパンツの右ポケットに入れている。右ポケットには今、
(ボクにもUSBポートが付いてればいいのにな)
空は、マグカップを二つと、インスタントコーヒーの瓶を、几帳面に並べた。
空のマグカップは、濃いグレーに白い五線と音符が描かれていて、大きく〈D.328〉の文字がある。このピクニックテーブルを見つけた時に、リディが用意してくれたものだ。〈D.328〉はシューベルトの歌曲〈魔王〉の作品番号。
リディのマグカップは、空色に雲と、細い飛行機雲を引いて飛ぶ赤い飛行艇が描かれている。三鷹にある有名なアニメ制作会社の美術館で、空にねだって買ってもらったものだ。リディにとっては思い出深い、幼い頃に使っていた、サーフボードの絵柄と同じ飛行艇だ。
そして、空はバックパックからラップトップを取り出し、画面を開いた。
〈空担タック〉はまた身構えた。
真っ黒で薄くコンパクトなラップトップ。キーボードの真ん中に赤いつまみが付いている。画面の背景は、ぼやけていてはっきりしない。画面の上の方にさりげなく〈Ubuntu〉の文字、下部には少女マンガ風な男の子のアイコンが表示されている。
空が指紋センサーに指を置くと、ロックが解除され、画面に〝投げキッス〟をするリディと美咲のアップが表れた。
先週のこと。美咲がノックもせずに空の部屋にやってきて、
「お兄ちゃんのパソコン、健全な男子高校生らしくしてあげる!」
と言うなり、ラップトップを横取りして何やらこそこそと操作し始めた。Linuxなど触ったことのないはずの美咲だったが、15分ほど格闘した後、
「はい、これでよし。変えちゃダメだからね!」
とラップトップを返し、念押しをして出て行った。画面を見ると、壁紙には〝投げキッス・リディ&美咲〟、アバター・アイコンには少女マンガ風の空の似顔絵が設定されていたのだった。
空は、赤いつまみを指先で操作して、新着のメールをチェック。続いて、開きっぱなしWEBブラウザの画面をリロードする。大手のWEB検索サービスの画面で、検索キーワードは〈透明マント 実用化〉となっている。その下には、最近始まったAIによる検索の回答が載っていて、〝光学迷彩技術〟の研究が、現在、どのように行われているかの要約が書かれている。空は、その要約に載っている参考元サイトへのリンクをクリックし、文献を読み始めた。——USBメモリの入ったポケットに、手を入れる気配は無い。
〈空担タック〉はじれていた。
バーナーの上で、ケトルが強く湯気を吹き始めた時、
「おまたせー」
と、リディがやってきた。空はラップトップを閉じて脇によけると、バーナーの火を止め、インスタントコーヒーをマグカップに、几帳面にスプーンで数えながら入れて、ケトルの熱湯を注いだ。
〈空担タック〉は落胆した。リディがやってくる前までの、この10分ほどがランチタイムのチャンスだったのだが、すでにラップトップは閉じられてしまった。その落胆は、チックとタックの分身たちにもリアルタイムで伝わり、自宅のリビングで様子をうかがっていた陽子にも伝わった。リビングボードの上のアンティーク風置き時計には、眉をへの字にしてしょんぼりした、タック兄のアニメーションが映っている。空の様子を陽子に実況中継していたらしい。
「まだ午前中が終わっただけよ。まだチャンスはあるんだから、そんなにしょんぼりしないの」
陽子はチックとタックたちを励ましつつも、
(んー、なかなか
と、ソファの背に身体をあずけた。
空とリディは、ランチボックスを開け、ラップに包まれた北欧風オープンサンドを、テーブルに並べた。今日の具は3種類。
①サーモン+クリームチーズ+ディル
②ゆで卵+アボカド+マヨ&黒胡椒
③ハム+カマンベールチーズ+りんごスライス
ライ麦パンと全粒粉パンに乗せられ、ディルとニンジンのピクルスが添えられている。
空はコーヒーを一口飲むと、姿勢を正し、サーモンのオープンサンドを手に取って、ラップを外してゆく。
リディは、口元あたりで手の指を組んで、軽く目を閉じると、向かいの空にも聞き取れないほどの小さな声で、なにやらぶつぶつと呟き、最後に、
「アーメン」
と唱えた。幼い頃からの習慣となっている、食前のお祈りだ。
そしてリディのおしゃべりが始まる。大きな身振り手振りで、時には立ち上がったりもしながら、午前中、一度も授業で空と一緒にならなかった鬱憤を晴らすがごとくのマシンガン・トーク。いつ口にしているのか不思議だが、ちゃんとオープンサンドも減って行く。
無口な空は、追いかけてくるリディの視線をそらしつつ、黙って話を聞いている。オープンサンドにぱくつきながら、時折、あいづちも交えている。
出会ってからずっと続いている、いつもの二人のランチタイム。二人だけの特別な
オープンサンドを食べ終わり、ランチボックスを片付けて、2杯目のコーヒーを飲んでいたとき、
「あっ」
と、空が何かを思い出したかのように、ラップトップを開いた。ポケットからUSBメモリを取り出し、ラップトップに挿す——
(キタ!)
〈空担タック〉は、空のラップトップに潜む〈
空は何も気付いていない。USBメモリに入っていた何かのファイルを、ラップトップのフォルダにコピーしている。
何をしているのか気になったリディが、ラップトップの画面を覗き込み——
「あははは!」
美咲が設定した壁紙の写真を見て大笑い。空の正面に回り込むように、写真と同じ〝投げキッス〟ポーズをしてみせた。
(やったー!)
藤井家のリビングでは、タック兄がガッツポーズをしていた。陽子も、
「ふー、やったわね。作戦・第一段階はクリアね」
と、満足げだ。
作戦の次の段階は、数日後の週末、空がキャットの家を訪れる時だ。入れ替えた〈
(これならうまくいきそうね)
不安要素が一つ消えて、陽子はほっとしていた。
空とリディのタブレットから、軽やかなメロディーが流れた。12時50分。午後の授業が始まる前の予鈴だ。二人は手早くテーブルを片付けて、教室へ戻っていった。
桜彩ル蒼キ日々——現シノ空ニ描カレシ結ハ、今ゾ解カレン 風祭 航 @FlyingHog
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