仮面舞踏会への招待状②
神父に教会の使っていない一室を借りて、大きな湯桶を用意してもらった。湯桶はどうやら木製の大きめの洗濯タライのようだった。ハティと僕が膝を抱えれば二人お湯に浸かれるくらいの大きさだ。
僕とハティは喜び勇んですぐに服を脱いで湯浴みをすることにした。
匂いになれたとは言っても、靴の中で汚泥で不潔に湿ったままだった足が不快でしょうがなかったのだ。
とはいえ、僕はまだいい。汚れた服を脱いで、何度か石鹸で丁寧に足を洗ってしまえば匂いも取れる。
僕よりも毛皮を持つハティの方が悲惨だ。足の毛皮がじっとりと汚泥の水分を吸ってしまっている。
僕も手伝って、ハティの足を洗う。見る見るうちに湯桶のお湯が汚れていく。これ湯桶一回分のお湯じゃ足りないんじゃないだろうか。
ちょうど、そこでコンコンと部屋の扉がノックされる。
ロマ神父が扉を開けて、顔だけ出した。
「お洋服はここに用意しておきました」
「あ、ありがとうございます!」
どうやらお洋服を持ってきてくれたのらしい。扉の外に置いてくれているようだ。ありがたい。
咄嗟に感謝の言葉を告げたけれど、部屋の外でべシンベシンと床を尻尾が打っている音がした。ロマ神父が不機嫌そうな時にやる癖だ。
「まったく、お洋服を用意するのもタダじゃないんですからね! 今度汚したら承知しませんよ! 本当にもう!」
「あ、ごめんなさ──」
けれど、僕が謝罪の言葉を言い切る前に次の言葉が矢継ぎ早に飛んでくる。
「お湯足りなかったら、遠慮せずにさっさと言うんですよ! 湯桶取り替えますから!」
相変わらず、ベチンベチンと尻尾が床を打つ音が聞こえてるけれど。
それはとても親切な言葉だった。
あれ、怒ってるんじゃ? と、不思議がる僕にハティが耳打ちしてくれる。
「口では怒ってるけど、世話焼きなんですよあの人」
「ああ……」
本当にいい人なんだ……。
ロマ神父が神父をしているのは伊達じゃないのらしい。
そんなこんなで。
ご好意に甘えて、一度、二度とお湯を取り替えてもらって。
ロマ神父のおかげさまで僕達はすっかり綺麗さっぱり下水道を駆け抜けてきた汚れをおとすことができたのだった。
今は、二人してお湯を取り替えてもらった湯桶に身体を浸けていた。浴槽のようなきちんとしたお風呂ではなくて、ほとんどお尻とか膝を抱く僕のふくらはぎの中ほどまであたりまでが浸かる程度の水位だけれど、それでも暖かいお湯に浸かれているだけで、心のどこかピンと張ってしまった緊張の糸がほぐれて生きた心地がするのだ。
僕と向かい合って、同じようにお湯に浸かって一息ついている、ハティに声をかける。
「ハティ、これから僕たちどうしようか」
「今は静観するしかなさそうですね」
帰ってきたのは、芳しくない状況を物語っていて。
そっか。ハティなら、何か打開策を持っているんじゃないかと期待してしまったけれど……。
と、そこまで考えて、いけないいけない。僕は内心で甘ったれた考えを叩き出した。僕は、未だにハティを頼りにしてしまうところがあるようだった。対等になりたいなら、ハティに頼りきりにならないようにしないと。
確かに、状況がまだ読めない今は静観するしかないのだ。なら、こんな時だからこそ存分に体を休めるのが先決だ。
そうと決まれば、この湯浴みを堪能することにしよう。
そうこうしていると。
自然と湯に浸かっているハティに目がいってしまう。
湯に浸かっているハティは両膝を抱えている僕と違って、立膝をついて、横を向いて濡れた髪をかきあげて。鍛え抜かれた体を無防備に晒している。
僕はついぽ〜っと眺めてしまう。
水も滴るいい男という言葉は、ハティのためにあるんじゃないだろうか。普段は女の人みたいに綺麗なのに、衣服を取り払ってしまえば、男性的な魅力が詰まっている。
この銀狼はやっぱり天下一品の伊達男なのだなあと思っていると、ハティが僕の方に顔を向けて、目が合う。いつもならハティは僕と目が合うとニコッとしてくれるのだけど、いまは僕をじっと真っ直ぐに見ている。
ど、どうしたんだろう……。
と、僕がドギマギしていると、今度は、ハティの方から口を開いた。
「マーニ様、もしかするとこのままでは二人して死ぬなんてこともあり得るかもしれません。
……ここいらで思い出でも作りましょうか?」
「思い出……?」
僕はどういうことか分からずについ反芻してしまう。
分かっていない僕のために、ハティは具体的に言ってくれる。
「キスやあれやそれです」
「キスやあれやそれ!?」
とんでもないフレーズに、僕は再度反芻をしてしまう。
キスだけでも、大打撃だっていうのに、あれやそれって。
つまり、そういうことで。
段階を一気に駆け上がり過ぎじゃないだろうか。
心臓はさっきから縮み上がってしまっている。
けれど、ハティは僕とは対照的に落ち着き払っていて。
それどころか。
「私はマーニ様ならば、構いませんよ……?」
目を細めて怪しげな色香を纏ったハティが僕に覆い被さってくる。僕を押し倒す濡れた体は、毛皮が濡れて張り付いてる分、筋肉の輪郭を普段よりも色濃く表していた。それは以前、僕をキスのことで揶揄った時のハティよりも、断然色っぽくて……。
僕は思わず、ごくりと生唾を飲んでしまう。
今は汚れを落とすために、二人して一糸纏わぬ姿になっていて、ハティの大事なところと僕の大事なところが、ハティが覆い被さってきたことで触れ合っていることに僕は気づいていた。
けど、懸命に気づかないふりをする。
「また冗談……?」
「冗談だと思いますか……?」
ハティが僕の手を取って自身の胸に強く押し当てる。濡れた毛皮の奥、たくましい胸筋のハリを感じた更にその奥。
強い鼓動を手のひらに感じた。それは高らかに、そして心なしか早く脈打っていて。
ハティの胸も高鳴っていた。
落ち着いているように見えてドキドキしているのは、僕だけじゃないんだと、鼓動が告げている。
冗談なんかじゃない。きっと、本気だ。
それに気づいて顔を上げれば、ハティの藤色の綺麗な濡れた瞳と眼があって。
ハティは、僕にその身を捧げようとしてくれていた。
もしかしたら、もうそんな機会はないかもしれないから。
…………。
なら、僕も本気で応えなければいけなかった。
僕は一度ゆっくり目を閉じて、言葉を選んだ。
いま、言うべき言葉を。
「……ハティがそう言ってくれるのはすごく嬉しい」
そう、すごく嬉しい。
やっと念願叶うのだ。
それも、ハティから僕が何も言わずともそういう話を持ちかけてくれるという形で。
僕だって、男で、愛おしい人とそういうことがしたいと思うことがある。何度も、ハティを思い浮かべて、懸想したことがある。
だけど、
「でも、やめておくね」
それは『今』じゃない。
僕は、ハティの胸に押し付けられたままの手を、僕からも押して距離を取る。
「マーニ様……?」
まさか、断られると思っていなかったのだろう。
ハティは細めていた目を大きくして驚いている。
「僕は死ぬことを予期して慰めに愛し合うより、君と一緒に生きたい。君と共に歩く未来が見たい」
そう、僕はまだ諦めていない。
この現実を打開することを。
ハティと生きる未来を。
僕は他の何を諦めても、ハティだけを諦めないと、あの時、ハティが血まみれで帰ってきたあの夜に誓ったのだから。
そして、想いを込めて強く言い切る。
「だから、うまくいかなかった時のことは考えないことにするよ」
一緒に、同じ夢を見たいんだ。
君と。
「そういうことは、全てを終えた後で、それでもハティが僕の好意を受け入れてくれる時が来たら、その時は僕からお願いする」
僕の方からハティのことが好きになったんだから。
僕からハティに申し出るのが筋であって。
こんな状況に流されて、なし崩しのまま、セックスなんて僕はしたくなかった。
もしかしたら、本当に死ぬことになって、その時はハティとセックスしたかったなんて情けないことを思うのかもしれないけれど。
「……出過ぎた真似をしてしまいましたね」
ハティは色香を一度ふっと柔らかく笑ってかき消して、微笑んで。
そして、ハティは身を引いてくれる。
「ううん、嬉しかった。ありがとう」
けど、僕は身を引いたハティに今度は自分から抱きついてみせた。
嬉しい気持ちは嘘じゃないんだよって伝えるために。
ハティが、僕の好意を受け入れてくれて本当に嬉しかった。
「マーニ様はお強くなられた」
ハティは僕をすぐに抱きしめ返してくれて。
それだけで、『今』は十分だった。
そして、僕たちはしばらくそうした後、湯浴みを終えたのだった。
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