3-2 にじみ
夜明け前の美術室は、まだ誰もいない。
冷えた空気のなか、照明のスイッチはつけずに、斉藤真央は窓から入る薄明かりだけで机に向かっていた。
前の晩から、頭の中である言葉が何度も反芻されていた。
「涙の定義はデータにある」
「でも、感じたかどうかは人間のほうだ」
それは、昨日、図書室で交わした天野蓮との会話だった。
言葉を尽くしたわけではない。むしろ、ほとんど何も説明されなかった。
けれど、不思議と心のどこかに“にじんで”残っていた。
机の上には、真っ白な画用紙と、いくつかの絵の具。
今日は、筆を使わないと決めていた。
スポイトで、青を一滴。
次に、乾く前の紙の中心に水を置く。
じわり、と広がる色の波紋。滲みは、形を持たず、制御もできない。
けれど──その曖昧さの中に、確かな「気配」が宿っている。
「形にできない気持ちって、ずっと心に残るんだよね」
かつて、駿介が言っていた言葉がふと思い出される。
それは怒りや悲しみじゃない。
説明できない、伝えきれない、でも確かに“ある”感情。
蓮の作った肖像画に感じたあの“うっすらとした哀しみ”も、
カメラに写らなかった駿介の“ためらい”も、
きっと全部、にじみみたいなものなのだ。
だから、今日描く絵には輪郭を入れない。
線の代わりに、にじみだけで人の姿を描いてみようと思った。
光を背にした誰かが立っている。
顔はぼやけていて、目も鼻も曖昧。
けれど、そこに“何か”がある──と、見る人に思わせる絵。
完璧な形じゃない。
でも、感情を持った誰かにだけ、“わかる”ような気配。
朝が少しずつ、校舎に入り込んできた。
窓からの光が、紙に広がった色の上にかすかに揺れる。
にじみが、さらに新しいにじみを生み出す。
どこまでが自分の意志で、どこまでが偶然かわからない。
でも、その境目にしか描けない絵が、きっとある。
絵が、完成に近づく。
いや、“完成”とは違う言い方をしたほうが正確だった。
にじみは、乾いて初めて、意味を持つ。
けれど、乾いた瞬間、もう変えられなくなる。
「それでも、描く」
真央はつぶやいた。
AIでもなく、誰かの評価でもなく、
ただ、“感じる”ために。
今日の美術室には、静かな絵の具のにおいと、
にじみのような気持ちが、ふわりと漂っていた。
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