🔹第2章:揺れる輪郭、問いかける心

2-1 偶然という表現

 その日は、絵の具のにおいが、いつもより濃かった。

 開けたばかりのチューブが、机の上に並べられ、画材棚の下にはいくつものキャンバスが立てかけられている。


 美術部の活動日。いつものように斉藤真央は早めに来て、画用紙の前に立っていた。

 けれど今日は、“いつもの描き方”ができない日だった。


 「じゃあ今日の課題は、これです」

 部長の渡瀬先輩が、黒板に書いた言葉は、短くて、そして妙に曖昧だった。


 「偶然で描く」


 「偶然で……?」

 西野が小さくつぶやいた。


 「うん。今日は、筆じゃなくてもいいし、色も選ばなくていい。むしろ、選ばないで。

 絵の具がたれるのも、にじむのも、混ざるのも──そのままにして、そこから何かを“見つけて”」


 真央は、渡瀬先輩が置いた一枚の抽象画を見た。

 赤、青、黒、金。何のモチーフもないその作品は、見ようによっては風景にも、感情にも、夢にも思えた。


 「……これは、どんなふうに描いたんですか?」


 「半分、こぼしただけ。半分は、紙を折った」


 真央は思わず笑ってしまった。

 美術部の中では、誰よりも技巧派のはずの渡瀬先輩が、こんな「めちゃくちゃ」なことをするなんて。


 でも──不思議と、見入ってしまう。

 そこには意図のない線があり、計算されていないバランスがあった。


 (なんだろう、この感覚)


 まるで、自分の中にある「見たことのない感情」が呼び起こされるような。

 それは、AIの作品を見たときには感じなかった“ざらつき”だった。


 「偶然って、怖いけど、面白いんだよ」

 渡瀬先輩が、どこか楽しそうに言った。

 「描くことって、“意志”だけじゃない。手が滑った線、予定外の色、それを“あり”にできるのが、人間の表現なんじゃないかな」


 西野が、そっと紙に絵の具を落とす。

 すると、青と赤がじわりと混ざり合い、思いもよらない紫が滲み出した。

 その瞬間、西野の目がわずかに揺れた。驚きとも、喜びともつかない、発見に近い感情。


 真央もまた、手元の筆を置き、絵の具の瓶を傾けてみる。

 ポタッ、ポタッ。緑と橙が白紙の上に落ち、じわりと広がっていく。

 乾きかけた水分が、微妙なムラを作り、紙が波打つ。


 ──思いどおりにいかないことが、こんなに自由だなんて。


 窓から差し込む光が、絵の具の水面をかすかに反射していた。

 まるで、誰かの答えを求めているように。

 いや──きっと、答えなんてない。


 でもそれでも、何かが生まれる。

 “自分の意志じゃない何か”と向き合う時間。


 それは、AIにはできない体験だった。

 完璧でもない。再現性もない。だけど、だからこそ、唯一の感情がそこに宿る。


 美術室には、しばらく誰も言葉を発さなかった。

 色と音と静けさだけが流れていて、それがまるで、見えない会話のように思えた。


 今日、真央のキャンバスには何も描かれていない。

 けれど、彼女の中にはひとつ、新しい線が引かれていた。


 偶然という表現。

 それは、自分のなかの“余白”に、何かを許すことかもしれない。

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