1-4 接点
放課後の美術室は、絵具のにおいと乾きかけた空気に包まれていた。
陽が沈みかけるその時間帯、斉藤真央はいつもより遅くまで残っていた。
描いていたのは、風のない海。
凪いだ水平線と、空を映すような静かな水面。だけど、何度描き直しても、納得できる“揺らぎ”が出なかった。
完璧な構図を崩す勇気が、今日は持てなかった。
ガラリ、とドアが開いた。
振り返ると、見慣れない制服の人影。カメラを首にかけた男子生徒──写真部の部長、結城駿介だった。
「ごめん。……誰もいないと思ってた」
彼は軽く会釈をして、部屋の隅の机に歩み寄った。
「どうぞ。……何か、撮りに?」
真央が言うと、駿介は少し戸惑ったように笑った。
「いや。展示に使う参考になりそうな光を探してた。……この時間、ここの光、綺麗だから」
その言葉に、真央はふと、自分のキャンバスに視線を戻した。
たしかに、窓の外の光は少しだけオレンジがかっていて、海の絵の輪郭を柔らかく染めていた。
「……うまく描けないんです」
ぽつりと、彼女は言った。
「ずっと前から描いてるんですけど、なんか、ぜんぶ“正しすぎて”。風も波も、止まってるようで、生きてない」
駿介はしばらく何も言わず、キャンバスを見つめた。
それから、窓際に歩み寄り、ゆっくりとカメラを構える。
──カシャッ。
「……今、何を撮ったんですか?」
「描けないって言ってる人が、光に照らされながらそれでも筆を止めてない、その姿」
駿介はカメラのモニターを見せることなく、ただ淡々と答えた。
「それってたぶん、“作品”なんだと思うよ」
真央は、一瞬だけ言葉を失った。
誰かに、そんなふうに見られたのは初めてだったから。
迷っている姿を、肯定された気がして。
「……あなたは、AIのこと、どう思いますか?」
気づけば、真央は問いを口にしていた。
駿介は少しだけ目を細める。
その目は、まるで何度も同じ問いを考えてきた人のそれだった。
「正直、すごいと思ってる。もう“綺麗”っていう次元を超えてる」
「じゃあ、写真はもう……」
「でも」
駿介は続けた。
「AIには“偶然”がない。シャッターを切るときの、一瞬の風とか、髪の乱れとか。……そういうのが、写真にはある」
「……絵にも、あると思いたいです」
「あるよ。……今のあなたの絵、少しだけ風が吹きそうに見える」
真央は、思わず笑ってしまった。
それは皮肉でも、慰めでもなく、ただの“まっすぐな感想”だったから。
その日の帰り道。
二人は、言葉少なに同じ方向へ歩いた。
足音のリズムは、まるで呼吸のようにそろっていた。
それはまだ、“共鳴”と呼ぶには遠いけれど、たしかにそこに接点が生まれていた。
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