1-2 精密すぎる美

 美術室の空気は、夕方になると少しひんやりする。

 窓から入る西日が、絵具の瓶を透かして机に色を落としていた。青、黄色、そして乾きかけた朱。


 斉藤真央はイーゼルの前に座っていたが、筆は止まったままだった。

 手のひらをじっと見つめる。細かい絵具の跡が、爪の間に残っている。何度洗っても消えない色。


 「真央先輩」

 静かに声をかけたのは、美術部の後輩・西野だった。彼女は今日も、木炭デッサンの練習に取り組んでいる。

 「今日の展示……、見ましたよね」


 真央は頷いた。

 「あの“AIアート部”のやつ、すごかった。……すごすぎた」


 そう言ってから、西野は少しだけ黙った。

 描いていた顔の輪郭線を消しゴムでこすり、もう一度描き直す。


 「……あれ、もう人が描かなくてもよくないですか?」

 ぽつりと、彼女は言った。

 「絵の具のテクスチャも、陰影も、手ぶれすらリアルで。“リアル”って、何なんでしょうね」


 真央は返答に迷った。

 心のどこかで、同じ問いを抱えていたからだ。


 AIの描いた作品には、曖昧さがなかった。

 陰影は正確で、光源の位置まで計算され尽くしていて、輪郭もくっきりしている。何より、そのスピード。数十秒で一枚、何十通りもの構図。


 こちらは一枚仕上げるのに、何日もかけて、何度も失敗して、それでも納得できないまま提出することだってあるのに。


 「たぶん、ね」

 真央は少しだけ口元に笑みを浮かべた。

 「“完璧”って、見る側は一瞬すごいって思うけど……描く側は、迷わなきゃ描けないってこと、あるよね」


 「迷う?」

 西野が首をかしげる。


 「うん。たとえば……“この線でいいのか”って考えながら描く時間とか、“ここを塗り直したい”っていう迷いとか。

 それってたぶん、技術的には遠回りなんだけど。……でも、そこに気持ちが乗るんだよ。気持ちっていうか、なんていうか……」


 「人間らしさ、みたいな?」


 「……そう。うん」


 その瞬間、美術室の壁にかかっていた時計の秒針が、音を立てて動いた。

 時間が流れている。誰にも止められないほど速く、そして静かに。


 真央は、目の前のキャンバスに向き直る。

 昨日の自分が描いた輪郭が、少しだけ傾いて見えた。迷いの線。でも、どこか愛おしい。


 「私、描くね。今日の線、明日見たらまた変わるかもしれないけど。それでも」


 西野も、わずかに頷いた。

 「……じゃあ、私も消さない。今日のままで残してみます」


 窓の外、沈みゆく陽が、校舎の影をゆっくり伸ばしていった。

 この部屋には、AIの効率も、演算もない。

 ただ、描こうとする人間の、揺らぎと不安と、希望だけがある。


 その夜、真央は日記に一行だけ書いた。


 「完璧じゃない線に、私は少しだけ救われている」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る