🔹第0章:記憶のギャラリー

プロローグ:記憶を映す光

 その部屋には、音がなかった。

 けれども、何も聴こえないわけじゃなかった。


 空調の微かなうなり。

 足音の残響。

 そして──心の奥に静かに差し込んでくるような、あの絵の呼吸。


 斉藤真央は、展示室の中央にぽつんと立っていた。

 天井から吊られたオーガニックライトが、作品の表面を柔らかく撫でる。反射のない最新のフィルムが使われているはずなのに、どこか、かすかな“ゆらぎ”のようなものがそこに宿っていた。


 未来都市の中心に位置する「国際アートアーカイブ東京」。

 数十年にわたって保存された、世界中のデジタル・インタラクティブ作品が展示されている。真央はここで新作の監修にあたる傍ら、ときどき“あの作品”に会いに来る。


 《視差/parallax》──それが作品の名前だった。

 生成AIによって描画された「記憶にない街」。

 そこに、手描きの線が走り、写真が重ねられ、観客がその空間を歩くことで、内側の構造が変わっていく。


 けれど、その構造は、完全なものではなかった。

 どこか、歪んでいて。

 不自然な重なりがあって。

 真央はその「不完全さ」にこそ、あの夏の全てが詰まっているような気がしていた。


 展示パネルの脇に、旧式のタグが貼られている。

 《高校生合同制作作品・2025年》

 AIアート部、美術部、写真部──三つの部がひとつになって生まれた、奇跡のような作品。


 真央は、そっと作品の前に座る。

 そうして、右手の小指を胸元に当てた。

 かつて、絵筆の持ちすぎで腱鞘炎になったとき、結城駿介が小さな湿布をくれたことを、ふと思い出す。

 何気ない日々。

 言葉にしなかった想い。

 誰かと交わした視線、すれ違い、手渡された静かなやさしさ。


 ──あのとき、私たちは問い続けていた。

 アートってなんだろう?

 AIと人は、一緒に描けるのだろうか?

 この感情は、どこに向かえばいいのだろうか?


 作品が、かすかに動いた。

 未来技術によって、展示は保存されているはずなのに、“誰かの視線”によって微かに反応する仕掛けがある。


 今の真央にはわかる。

 それはAIの計算による反応じゃない。

 誰かの気持ちが、そこに残っている。

 あの時代の温度が、消えずに息づいている。


 真央は、静かに目を閉じた。


 あの夏の、光。

 記憶に差し込んだ問いの光。


 物語は、そこから始まった。


 ──そして、いまもなお続いている。

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