神は死んだ

黒冬如庵

神は死んだ

「神は死んだ。スナック"ニーチェ"で酔っぱらいに刺されて死んだんだ」


 黒馬は無表情でグラスを見つめながらそう呟いた。彼の言葉に応えるものはなく、薄暗いバーカウンターに漂う静寂だけが返ってきた。

 時計の針が午前2時を指し、店内には彼以外の客はいない。


 マスターは黙ってグラスを磨き続けている。黒馬の言葉に驚く段階はすでに通り過ぎている。"Razdel9"の名を聞いてしまったから。


 "Razdel9"、あの悪名高い特殊部隊の生き残り。噂では彼らの作戦行動は政府の公式記録からも抹消されるほどの極秘任務だったという。帰還した僅かな隊員もほとんどは社会に適応できず、闇の中に消えていった。


 黒馬大輔、29歳。彼が何を見てきたのか、誰も本当のことを知らない。

 ただひとつ確かなことは、彼の目が何も写していないことだった。生きているのに、死者の瞳を持つ男。


「もう一杯」


 短く呟き空になったグラスを差し出す。マスターは無言でラガヴーリン16年を取り出し、琥珀色の液体を注いだ。氷は3つ。いつもそうだった。


 黒馬の左肩には、かつて"Razdel9"のメンバーであることを示す赤い刺青の痕跡が残っていた。手術でほとんど消されていたが、よく見ると微かに浮かび上がる紅い影。それは消えない悪夢のようだった。


 外では雨が降り始めていた。窓ガラスを伝い落ちる雨粒が、室内の薄明かりに照らされてゆっくりと形を変えていく。


「神が死んでも、何も変わらなかった」


 再び黒馬は低い声で呟いた。自分に言い聞かせるように。


 三日前、彼はかつての上官の葬儀に参列していた。"Razdel9"を率いた男、コードネーム「ボーフ」。任務中はその名にふさわしく彼らの生殺与奪権を握り、死地から何度も生還させた正しく神の如き指揮官だった。

 その神が平和ボケ日本の場末のスナックで、酔ったヤクザに刺されるとは。何という皮肉だろうか。


 黒馬はウイスキーを一気に飲み干した。喉を焼くアルコールの燻製だけが、自分が生者の側にいる証拠だった。


「チェックだ」


 一言呟いて影のごとく立ち上がる。マスターは黙って頷いた。

 彼が店を出るのを見計らったようにスマートフォンが振動した。見知らぬ番号からの着信。深夜のコールに良い思い出は一度もない。


 黒馬は一瞬躊躇ったが、電話に出た。


「黒馬だ」

「久しぶりだな、ヴォルク1」


 聞き覚えのある声に、彼の全身が強張った。死んだはずの声だった。自分をコードで呼ぶ冥府の長の声。


「…ボーフ?」

「そう、私だ」

「生きていたのか……」

「必要だったから死んだ。それだけだ」


黒馬は呆然とした。揺らめく影が悪夢として追いかけてくる。


「何のために…」

「ちょっとした実験さ。それより新しい任務だ」


 唐突に通話が切れると同時に、目の前になんの前触れもなく巨大なピンク色のゾウが現れた。長さ3メートルはあろうかという鼻を振り上げた奇妙な物体が、夜の雨の中で派手に輝いていた。


「なんだこれは…」


 黒馬が戸惑っていると、ゾウがパカリと二つに割れ、中から小型の人影が現れた。"うちうじん"そんな言葉が頭に浮かぶ。身長30センチほどで、全身が青く輝くラメで覆われている。


「我々はうちうじ……じゃなかったM79星雲から来たヴォシチ星人だ!地球人よ、崇めよ!」


 うちうじんは日本語で堂々と宣言した。


「ヴォシチ?」

「そうだ!我々は日本の文化を愛している。溺していると言っていい。特に君たち日本人のアニメとマンガが大好物なんだ!」


 混乱する黒馬を無視して、宇宙人は踊りだした。聞き覚えのない妙にポップでノリの良い音楽が虚空から流れ始め、周囲の建物に七色の光線が走る。


「何が起きている?」


 黒馬の問いに、空から声が降ってきた。


「これは終末だよ」


 思わず上空を見上げる。

 巨大なニーチェの顔が雲の間から覗いていた。肖像のニーチェではなく、ポンチ絵の似顔絵のような顔だった。


「神は死んだ。神は実験のバグに過ぎない」


 ニーチェの顔が言った。


「君たちの世界は、高位存在の実験によって作られた仮想空間にすぎない」


 その瞬間、街全体がグリッチとなる。建物が歪み、人々が突如現れては消え、水玉犬が空を飛び、人面魚が窓ガラスを泳ぎ始めた。

 黒馬は思わず笑った。彼が笑ったのは、"Razdel9"入隊以来初めてだった。


「俺は狂ったのか?」

「いいえ、世界の方が狂っているんです」


 振り向くと、マスターが立っていた。しかし、彼の姿は徐々に変形し、かつての戦友・来津の姿になった。

 "Razdel9"で唯一、黒馬が背中を預けた男。死んだはずの男。


「おい、黒馬。真実を教えてやる」


 来津は黒馬の肩に手を置いた。その手が突然ゆるやかに崩れていく。黒馬の肩からチーズが滴り落ちた。


「我々は実在じゃない。VRゲームのキャラクターだ。プレイヤーが俺たちを操作していたんだ」


 空が割れ、その向こうに巨大な目が覗き込んでいた。1ドル札のあの瞳だ。


「でも、プレイヤーは飽きて別のゲームを始めた。だから世界設定が崩壊し始めているんだ」


 黒馬の頭上に突然、ステータス画面が表示された。


キャラクター名 : 黒馬 大輔

Lv.29

HP: 75/100

MP: 30/30

SAN:15/125(ピンチ)

固有能力:「現実拒否」発動中


「どういうことだ…」

「なに、簡単なことです。あなたの人生は悲惨過ぎたんです。あなたが現実を拒否して独自のナラティブを作り上げたんですよ」


 医者らしき白衣の男が突然現れて答える。


「あなたは単なる精神病院の患者で、"Razdel9"など存在しません。すべてあなたの妄想です。そんなあなたにトランキライザー」


「トランキライザー?」


 その返しに満足したのか医者も突然、巨大な樽に変身した。中から妙にこまっしゃくれた眼鏡の子供が飛び出して叫んだ。


「誰も彼も嘘つきだ!真実はいつもひとつ!」


 黒馬はただ立ち尽くす。世界が音を立てて崩壊していく。

 あげくに空から巨大なボタンが降ってくる。それは黒馬の目の前で停止した。「RESET」と書かれた文字が赤く点滅している。


「押せばすべてやり直せる」ニーチェの顔が言う。

「押すな、それは罠だ」来津が蕩けながら警告する。


黒馬は迷わずボタンを押した。


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目を覚ますと、黒馬はスナック「ニーチェ」のカウンターで寝ていた。マスターが肩を叩いている。


「お客さん、閉店ですよ」

「ああ…すまない」


黒馬は頭を振る。ひどく痛む。


「変な夢を見た」


マスターは笑った。


「酔いつぶれる前に、"神は死んだ"って言ってましたよ。哲学者ですね?」


「いや…」


 黒馬は考え込んだ。


「"Razdel9"?特殊部隊?」

「何言ってるんですか?まだ夢の続きですか?」


 黒馬は自分の肩を見た。赤い刺青などなかった。


「そうか…夢だったのか」


 安堵のため息をつくと、黒馬はふらつきながら店を出た。

 見上げれば少し赤みがかった魅惑の満月。その月が、かすかに黒馬に微笑んだような気がした。


 そして測ったかのように黒馬のポケットでスマホが振動した。

 画面には"ボーフ”からのメッセージ。


「実験再起動完了。次の任務に備えよ」


 黒馬はシニカルに笑った。そして彼の姿はピクセルと化して溶けていった。


END

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神は死んだ 黒冬如庵 @madprof_m

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