No Record

『だれでもいいからキスがしたい』


 たまたま教科書を借りた彼女の、スマホ画面が目に入った時。彼女に対して取っていた、「ただの隣人」という立ち位置が吹っ飛んだ。

 別にキスがしたかった訳じゃない。

 彼女がそんな書き込みをした理由が気になっただけ――2年前にたった一度話しただけの関係だが、誰にでも身体を許すような軽い子には見えなかったから。


『オレも、だれでもいい』


 あれは嘘だ。

 あの日も、これからも、そんなことをする予定はなかった。

 騒がしくてお節介なクラスの女子より、こうしてマルスやアリエス、ネロの白い首と向き合っている方が、よほど有意義だ――今も、その考えは変わらない。

 でも。


「……あ、折れた」


 B6鉛筆の芯が、乾いた音を立てて落ちた。

 準備室の少し埃っぽい床は、いつの間にか芯と消しカスだらけになっている。

 それに、練り消しも左手も真っ黒だ。


「手……洗わないと」


 夏休みが始まって少し経った、あの課外の日――いつもパレットを洗っているこの水道で、彼女とキスをした。

 ここで何度手を濡らしても、あの時の熱は冷めない。

 9月の新学期が始まっても、身体の芯に点いた火が、消えない。


『2回目もオレとしてほしい……って話、です』


 そう約束したはずなのに。

 ひとりで燻っているこの熱を、彼女は消しに来てくれない。

 課外は夏休み前半だけで、その後会う機会はなかった。オレがSNSを一切やっていなかったせいで、気軽に連絡先を聞けなかったのもある。

 でも、それで良かったのかもしれない――これ以上彼女に触れれば、きっと割り切れなくなる。


「あっ、やっぱりいた!」


 ノックもなしに鉄扉をくぐり抜けてきたのは、久しぶりに見る彼女。


「……っ、なんで」


 軽そうなスクールバッグを肩にかけ、人懐こい笑みを浮かべる彼女を目にした瞬間――身体の芯に点いた熱が揺らいだ。

 良くないことだと分かっているのに、見た目よりずっと柔らかい唇に目がいってしまう。


「……何の用ですか?」

「あれ、真水くん」


 なんか怒ってる気がする――呑気に言う彼女に、煩いほどに鳴っていた胸が締め付けられた。

 どうしてそんなに余裕なのか。

 自分から「キスしたい」と言っておきながら、オレが近づいただけで、泣きそうになっていたくせに。


「……怒ってないよ。久しぶり」


 すると、ぎこちなく微笑んだ彼女はパイプ椅子を引き寄せた。

 何かを言いかけては口を閉じ、やがて何かを思いついたように、「少し話してもいい?」と椅子へ腰かける。


「作業しててもいいなら、どうぞ」


 鉛筆の芯が、ケント紙を擦る音だけが響く。

 いつもは気にしない音が耳障りなのは、きっと彼女がこちらを見ているからだ。


「それ、文化祭で飾る絵?」


 彼女は、自分の横にある花瓶や果物に視線を移した。オレが今、それをデッサンしていると思っているのだろう。


「……大学の2次試験に向けたデッサンの練習。時間制限あるから」

「え! か、帰る」


 弾かれたように立ち上がった彼女の腕を、思わず取っていた。

 潤んだ瞳と、視線がぶつかる――。


「あっ……」


 自分でも予想外の行動に、思わず声が漏れた。

 握った腕は暖かくて、少し柔らかい。ただ彼女の感触をずっと留めておくわけにもいかず、「ごめん」と手を離すと。彼女は顔を背けたまま、パイプ椅子に再び腰を落とした。


「……真水くんはさ、画家になるの?」


 突然の質問に、つい笑いをこぼしてしまった。

 本当に、この人は忙しない――キャンバスに視線を戻し、少しズレた画鋲を押し直した。


「『画家』一本で食べていけるのって、天才の中の、ほんの一握りだけなんだよ」


 それでも。

 教育系の大学に進んで美術教師の資格を取り、学校で教えながら自分の作品をコンクールに出していく――それくらいの道筋は思い描けている。

 初めて教師以外の人に、このことを話した。


「はぁ……さすが。現実的な道筋を考えてるんだなぁ」

「そういう君は、どうなの?」


 キャンバスから目を逸らさずに、腕を動かす。

 白い部分を塗りつぶすように、何度も何度も往復する。


「私? まぁ、ウチの学校って一応進学校でしょ。みんなと同じで大学に行くには違いないんだけど、やりたいことが決まってなくて……」


 だから、2年生からコース選択できる学科のある国立大を狙っている。

 彼女は時々言い淀みながらも、そう明かしてくれた。


「私の家、大学行くってなったら奨学金頼りだからさ。できるだけお金かからないところ選ばなきゃで」

「……だったら。こんなところで話してないで、図書館に行ったらどうですか?」


 おっしゃる通り、と彼女は項垂うなだれた。

 言い方がキツかっただろうか――それに引き留めたのは、オレだった。


「真水くんって、友達いない?」


 鋭い指摘に、つい腕が止まる。

 言葉を選べないのは、お互い様らしい。


「愛想が悪いわけじゃないけど、誰かとつるむタイプでもなさそうだよね」


 少なくとも、特定の誰かと一緒にいる感じではなかった――まるで見ていたかのような言葉に、ふと彼女へ視線を移した。


「……どうしてオレのこと、そんなに知ってるの?」

「んー、どうしてでしょうね」


 静かな瞳は、オレの斜め下を見たまま動かない。

 クラスが被ったことは一度もないはずだ。


「……君は友達、多いよね」


 あえて、こちらからも問いかけてみると。


「まぁ、友達かは微妙なラインの人もいるけど」


 そうだったのか。

 いつも一緒にいるのは仲良し3人組の女子だが、それ以外ともバランスよく話している印象だった。変に気とか遣わずに。


「真水くんはひとりでも平気なタイプなんだね……私、今の仲良しグループから追い出されたら死んじゃうかも」

「女子はグループ作るものなんじゃないの? 原始時代から、女性はコミュニティを大切にしてたらしいし」


 とっさにそう返すと。


「……そうなんだ」


 やけに重苦しい沈黙が訪れた。

 また、無意識にマズいことを言ったのだろうか――。


「それで」


 沈黙を破った声は、少し固くなっていた。

 しかし彼女はそう言ったきり、次の言葉を続けない。

 鉛筆を動かす腕が鈍る――ひたすら白を黒に塗り潰しながら、静寂が破られる時を待っていると。


「いつキス、するの?」


 B6鉛筆の芯が、鈍い音を立てて折れた。

 たぶん、彼女がそう言い出すのを、オレはずっと待っていた――。


「……そんなにしたいの?」


 キャンバスからおそるおそる顔を上げ、彼女を見ると。出口の方を眺める横顔は、かすかに震えていた。


「放課後、こういう風に来られなくなるから」


 文化祭の準備もあるし、とそれに――と、彼女は早口に続けた。


「仲良しの叔母さんが、息子を連れて遊びに来るんだ。文化祭まで見ていってくれるから、けっこう長い間」


 彼女の叔母は家族とウマが合わないが、彼女とだけはとても仲が良いという。その理由を聞くまでもなく、彼女は「叔母さんの感性独特だから」、と笑った。


「固定観念とか、社会の常識とか? そういうのに縛られない人なんだ」


 だから叔父とも、いまだに籍を入れてないらしい――笑って言う彼女を見て、何だか腑に落ちた。


『だれでもいいからキスしたい』


 虚勢のためにそう言える彼女の価値観は、きっと叔母さんの影響を受けているのだろう。


「忙しいなら、無理してするものでもないですから」

「……そっか」


 約束だから、などという理由で、義務的に彼女と触れ合うことが嫌だった。

 だから結局、この日は何もしないまま帰したのだが――彼女のいなくなった空間は、むしろ集中できなかった。

 準備室に残った甘い匂いが、肺の奥にじんと沁みる。


「……チョコミント味のタブレット、まだ食べてるんだ」


 彼女のことは、ずっと見ていた。

 1年生の秋ごろ、たった一度美術室で会った時から。

『何描いてるの?』――そう、さっきと同じようなテンションで話しかけてきたのが彼女だった。


『あんまり絵は詳しくないけど、他の誰にもかけなさそうな絵だね』


「上手い」とか「すごい」とか、ありきたりな感想は沢山貰ってきた。それでも、『オレにしか描けない絵』と言ってくれたのは、彼女だけだった。

 あの日から、「好き」とかではなく、ただ目で追うようになっていた。クラスの前を通った時、登下校の時、全校集会の時――何となく、気づけば彼女を探していた。

 でも、2年間それだけだった。

 画面の向こうにいる芸能人を見ているかのような、一方的な関係。

 ただ――受験の選択科目で、日本史や世界史でなくわざわざ倫理を選んだのは、彼女が選択したと他の人に聞いたから。

 せめて同じ教室で課外を受けるのが、最後の思い出みたいなものだった。

 それでも、このことは口にできない。

 彼女がオレとどうこうなるのを望んでいないというのもあるが――今関係を繋いだところで、きっとその先に未来はないと分かっているから。




『放課後、こういう風に来られなくなるから』


 新学期に入ってから、彼女が顔を見せたのはあの一度きり。彼女は本当に来なくなった。

 そのまま全部無かったことにすれば良いのに、オレは――「あっちに用があるから」と言い訳して、彼女のいる3-4の前を何度も通っている。

 その度見えるのは、クラスメイトに囲まれて、楽しそうに壁新聞を作る彼女。頬まで絵具に塗れて、「下手くそ~!」、「味があっていいじゃん!」、と軽口を言い合っている。

 全部、知らない顔だ――。

 劇の台本の打ち合わせと称して、彼女と顔を近づけて笑っている男子ヤツもいる。

「オレの方が、もっとすごいことしてるのに」――そんな考えが頭をよぎった瞬間。

 やっと気づいた。

 オレは彼女を探すことを、いまだにやめられていない。それどころか、前よりもっと最悪だ。

 眺めるだけで満足していた以前からは想像もできないくらい、彼女にもう一度触れたいと願っている自分がいる――。

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