2nd
夕陽が頬を刺す帰り道。
力任せに自転車を漕ぐ私の頭は、今も真水くんに支配されていた。
「……何でしなかったんだろ」
あの1回で忘れた方が、お互いのためになる。
目的も達成されたし、これ以上真水くんの勉強の邪魔をするのは良くない――夏休み中も新学期に入ってからも、ずっとそう思っていたのに。
気がつけば、美術準備室の重い扉を開けていた。
『あっ、やっぱりいた!』
無神経を装って、そう言うと。
彼は少し迷惑そうに、どこか怒ったようにこちらを見つめていた。
今思い返せば、とても迷惑だっただろう。
2次試験の対策中と聞いて、胸の奥が冷えた。
彼は私と違って現実を見ている――。
『それで。いつキス、するの?』
私はあくまでも、「彼との約束」を守りに来た。
震える指を隠して、何でもないことのように口にしたけれど――。
『忙しいなら、無理してするものでもないですから』
2回目を望んでいた彼は、淡々としていた。
「ほんと、なんで……」
でも、これで良かったはずだ。
勉強の合間に文化祭の準備を手伝うようになったのだって、気がつけば頭に浮かぶ彼を振り切りたかったから。
アスファルトに長い影を落とす家の前で、力いっぱいブレーキを握り締めた。
「お帰りー。帰宅部なのに遅かったじゃん」
玄関先まで出迎えてくれたのは、久々に顔を合わせる従兄弟だった。
「……
「あははっ、1年ぶりの言葉がそれかぁ」
従兄弟は去年大学生になった、二つ年上の男の子。K−POPアイドル(男性)のファンで、服もメイクもどことなくそれっぽい。
彼を知らない人からすれば、ちょっと近寄りがたい派手さだけど――私にとっては、昔から明るくて優しいお兄ちゃんだ。
「叔母さ……淳子さんは?」
「おっ、賢明〜。淳子はねぇ、『お前が帰ってくるまでこの家居づらい〜!』って言いながら街のほう行ったよ」
なるほど。想像がつく。
実の姉妹である母とは、折り合いの悪い叔母さんのことだ。きっとカラオケか服屋で時間を潰しているに違いない。
「偀くんは行かなかったんだ」
「俺は留守番。輝子さんが、伯父さん迎えに行ったから」
輝子――もとい母はいない。
するとこの家には、従兄弟と私の2人きり。
「だったらアレ、やっちゃう?」
「おっ、久々にやっちゃうか〜!」
すっかりこの家を知り尽くしている偀くんは、迷わず私の部屋へ向かう。
大人がリビングで話している間、暇な子ども組は私の部屋でテレビゲームをするのが暗黙の了解だった。
偀くんと遊んでいるうちに、きっと気も紛れるに違いない――。
「あっれー? お前もしかして、最近やってない?」
たしかに、受験生になってからはやっていないけれど――昔は偀くんとも
「おかしいなぁ……」
誰かの顔がチラついて、全然集中できない――なんて話、今ここでできるわけがない。
ただ腕が鈍っただけ、と言い訳して、「コンティニュー」を選択すると。隣から、コントロールをテーブルに置く音が響いた。
「学校でなんかあった?」
「……なんか?」
誰にも言えない。でも、このまま胸の内に留めていたら、ゲームどころか勉強にも集中できない。
どうしよう――。
「勉強は無理だけど、恋とか人間関係のお悩みならドンとこいっ!」
「ははっ……」
友達には絶対に言えない内容だけど、たまにしか会わない偀くんになら良いかも――高校から大学まで、彼女の噂をたびたび聞く彼になら、こういう話をしても引かれないはずだ。
「実は、夏休み中にこんなことがありまして……」
スレを立てた話は省いて、「付き合っていない男子とキスをした」、と話した。
偀は気を遣ってくれているのか、私の顔から視線を逸らしたまま聞いてくれている。
「動機は、なんていうか……完全なる興味と、友達への意地でして」
1回して達成感を得たはずなのに、もう1回したくなっている自分がいる、と――。
改めて、私は何を言ってるのだろうか。
もう口に出してしまったのに、今更恥ずかしくなってきた。
「話、終わり……だいたいそんな感じ」
偀くんは最後まで聞き終えたはずなのに、コントローラーを持ったまま、暗い画面を見ている。ちゃんと耳だけはこっちに意識を集中させてくれているように思ったが――。
「なんていうかさ」
やっと口を開いた偀くんは、私から視線を外したまま、壁の方を向いて笑った。
「イトコののろけ話とか、聞きたくなかったかも」
「そ、そうだよね! ごめん忘れて……え?」
のろけ――?
「だから、その人とは付き合ってないんだけど」
「いや、それ好きでしょ」
好き――?
そんなはずない。
だってキスの相手は、真水くんじゃなくても良かったのだから。
沈黙の中、偀くんの小さな咳払いが響いた。そして彼は、「本当にだれでも良かったなら」――と声を落とす。
「俺としてみる?」
「え……?」
韓流をリスペクトした、中性的ないつもの顔面。そこに少しだけ、身を引きたくなるような空気が漂っていた。
冗談だと思うのに、目が逸らせない。
「……偀くん、彼女いるじゃん」
重苦しい沈黙の後、何とか出た言葉がソレだった。
「今はフリーだけど。やっぱり、誰でも良いんじゃなくてさぁ」
その子とだから、またしたいんじゃない――。
偀くんの指摘に、胸の奥を貫かれた気がした。
「真水くん、だから?」
いや、違う。
そんなわけがない。
これはあれ。
多分ただの生物学的欲が次を望んでいるだけで、相手はやはり誰でも良かったんだ。
「真水くんっていうんだ、その子」
「あ……」
話を逸らすため、「とにかく」と続ける。
「相手はだれだっていいんだから、偀くんとだって、できるよ……その、キス」
「ふーん。じゃ、どうぞ」
隣の彼は何のためらいもなく、薄くシャドウがきらめく目蓋を閉じた。
美肌メイクを施していても、小さい時の面影が濃く見える。
したい。そう望んだ2回目のキス。
澄ました顔に、自分から近づいてみたが。
何だろう――何かが違う。
緊張はする。
ただ偀くんの意識が、目の前の私に向いているようで、いないような――。
言葉にできない違和感が、「それ以上進むな」と言っている。
「やっぱイトコ同士は気まずいよねぇ〜。やめやめ」
「ううん、する」
意地になって距離を詰めると。偀くんは、やり易いように目を閉じてくれた。
常に彼女がいるだけあって、やっぱりカッコいい。分かる人にしか分からない真水くんと違って、万人受けしそうな顔立ちだ。
でも、「したい」と思えない。
偀くんのことは、知りすぎているから――?
10歳前まで一緒にお風呂入ってたし。
だから、そういう気持ちが湧かない――?
自分の気持ちが、まるで分からない。
「たっだいま! かわいい姪っ子ちゃん、帰ってるか〜?」
叔母の声に弾かれ、偀くんから離れた。
彼もゆっくり、目蓋を開く。
「んー、惜しかったね」
偀くんは笑っているが、全然惜しそうじゃない。
何かが違う――その夜私が得られた感覚は、それだけだった。
翌日も、その翌日も、ずっと真水くんに会いに行けないまま。
ただ淡々と試験用の「暗記・計算」をし、文化祭の準備をこなす毎日。そんな中、いつの間にか誰かの視線を感じるようになっていた。
友達に相談したら、「モテ期か?」と冗談で返されたが――私が振り返ると、教室の窓に映る誰かは消えてしまう。
「たぶん気のせい……だよね」
思い込むことで日々を過ごし、ついに文化祭前日。
劇で使う小道具の材料が足りなくて、ひとり買い出しに向かったのは16時頃。近所のコンビニで用を済ませ、昇降口に入った時だった。
靴箱の陰に立っていた人物にぶつかりそうになり、とっさに顔を上げると。
「……真水くん」
私はそれ以上何も言えずに、彼を見ただけで動けなくなった。
かすかな期待と、「もう会いたくなかった」という思いが交錯した途端。
「ちょっと」、と真水くんは私の手を引いた。
触れた手が熱い。
真水くんの一部が私に触れている――そう実感した途端、ピリッとした心地よい何かが、背筋を駆け抜けた。
「あ、あのさ真水くん、みんな見てるんだけど……?」
顔は知っているが、名前は知らない他のクラスの人たちが、こちらに注目している。
それでも無言のまま、真水くんは旧校舎に入って行った。
「君も国立大受験するんじゃないの? 毎日遅くまでこんなことしてていいわけ?」
肌寒い美術準備室に入るやいなや、真水くんはこちらを振り返った。
視線は壁に向いている。
腕を組んだ左手が、ときどきシャツを強く握っている――。
「真水くん、怒ってる?」
自分なりに早起きして勉強して、息抜きに放課後は劇の準備をしていると弁解した。
「脇役の継母役なんだけど、みんな『うまい』って言うからさ。ちょっと複雑だよね」
その劇の準備で必要なものを、今まさに買って帰るところだった。
真水くんの前から消えたい――。
もう一度、したい――。
相反する感情が決着をつける前に、深く息を吸い込んだ。
「みんな待ってるから、行かないと」
そう断って、鉄扉に手をかけた瞬間。
背後から伸びてきた腕に、開きかけた扉を押さえつけられた。
「約束の2回目。今したい……です」
余裕のない声。
震える息が首筋にかかり、振り返れなかった。
「い、今……?」
冷たい扉の向こう側からは、鉛筆が紙を擦る音が聞こえてくる。鍵もかかっていない。
こんな状況で、誰か来たらどうするつもりなのか――背中にかすかな熱を感じる。
逃げないと――。
「……あっ!」
足が硬い何かに引っ掛かった。反射的に座り込んだ私の上から、「大丈夫!?」と声が降ってくる。
どうやら、崩れかけたイーゼルに引っ掛けたらしい。
「足は? 捻ってない?」
目の前に座った真水くんが、タイツ越しの足にそっと触れた。
多分、彼に邪な感情は一切ない。本気で心配してくれているはず、なのに――「平気みたい」と答えた唇は震えていた。
呼吸の音が近い。
1回目のことを思い出し、身体が縮む。
「あ……」
目が合った。
音が消える。
真水くんが、視線を繋げたまま眼鏡を外す。
「……いい?」
期待を隠した目が、射抜くように見つめてくる。
目が逸らせなくなる。
「……うん」
白い肌が近づく。
無意識のうちに反っていた背中が、古いキャンバスの山に触れる。
そうして寄りかかったまま、唇に熱が灯った――。
頭の内側から「心地良い」が溢れる。今の私を責め立てる「大変なこと」を溶かして、ドロドロに混ざり合っていく。
他のことが、もう全部どうでも良くなるくらいに。
彼を避けていた私が、「本当はこれを望んでいた」と、痛いほどに分からせられる――ただ、息が苦しい。
不意のことで、息を吸えていなかった。
一度離れようと学ラン越しの胸を押しても、真水くんは動かない。
「むっ……」
酸素を求めて少し口を開けた、その時。
唇の内側に、生温かく湿ったものが触れた。
舌――そう気づいた途端、唐突に熱が去っていった。
「ごめっ……」
向こうも、私が突然口を開けたことに驚いたのだろう。
どちらからともなく、視線が外れる。
それでも彼を追ってしまう目が潤む。
そっぽを向いた彼は、無理矢理に呼吸を整え、正気を保とうとしているように見えた。
互いの柔らかい部分が触れた、あの瞬間。
私は何もかもがどうでも良くなるくらい、おかしくなっていた。真水くんにも、もっとおかしくなってほしかったのに――涼しい顔を装う真水くんを見上げたその時、勝手に口が開いた。
「もう1回、する?」
「え……?」
真っ直ぐに私を捉えた瞳が、かすかに揺れている。
淡い期待を宿して。
「だれでもいいんだけど……真水くんも同じ、でしょ?」
『オレも、だれでもいいから』
最初のキスの前に、彼はそう言っていた。
だから私の頭を占める「したい」も、「だれでもいいから」のままにしなければ――。
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