『口づけ抄ー青ー』
見早
1st
『だれでもいいからキスがしたい』
深夜テンションでネットの掲示板に投稿した、頭の悪いタイトル――それが真水くんとの始まりだった。
大学受験シーズン真っ只中の夏休み。
政経の中でも倫理を選択する生徒は少なくて、その日の課外は私ともう1人――隣の真水くんだけだった。
「ごめん、教科書見せてくれませんか?」
「え……いいけど」
忘れ物なんて珍しい。
だから、いつもは斜め後ろにいる彼が、私の真横に座ったのか。
「ありがとう」
まっすぐな視線が、一瞬だけ私に向いた。
この礼儀正しくも、あまり表情筋が動かない彼のことを、実はよく知らない。
クラスは3年間別で、部活も委員会も被っていない。初めて課外で顔を合わせる関係になり、少しだけ彼のことを知っただけだ。
左手で字を書き、右手で消しゴムを使うとか。授業中だけ眼鏡をかけている、とか。
ただ、彼の顔は1年生の頃からよく覚えていた。勝手に「好みの顔」だと認識していたから――いつも肌がきれいで、形の良い唇をしている。2年経って大人びた気がするが、それは変わらない。
そして課外で隣になった今、長めの黒髪で隠れている目元が、実は可愛らしいことを知ってしまった。それにまつ毛も――。
「私より長い」
授業を真面目に受ける横顔を眺めながら、そう呟いた瞬間。真水くんが教科書から顔を上げ、一瞬私を見た。
まずい。
筆箱で隠したノートの上に、スマホの画面を開いている私の、不真面目な所業を見られてしまっただろうか――。
それも妙なタイトルのスレッドを立てている、この画面を見られていたとしたら、人として終わる――と、警戒したけれど。
真水くんは何事もなかったかのように、教壇へ向き直った。
「……え?」
1週間後の、同じ課外の日。
妙なタイトルのスレに、目を疑う返信が来た。それも授業中に。
これまで冷やかしや、いかにも怪しい出会い厨からの返信はたくさんあったが。それはネットの匿名性を無視して、完全に私に語りかけていた。
『今隣にいる真水ですが、オレでもいいんですか』
真水くんは真面目な顔で前を見つつ、片手にスマホを隠している。
「な……」
衝撃に打たれたまま、いつも大して聞いていない授業が終わった。
おじいちゃん先生が朗らかに退室した後も、2人とも座ったまま動かない。
何か、言わないと――沈黙が鼓動を速める中。先に口を開いたのは真水くんだった。
「……君はさ」
穏やかながらも低い声に、肩が跳ねる。
「どうして、したいと思ったわけ?」
「え……ええ? それ、聞く?」
むしろそれが1番気になる――そう言われて、答えないわけにはいかなくなった。
友達3人とアプリの電話を繋いだまま、それぞれの家で同じ恋愛映画を観ていた時の話を。
「私以外、みんなしたことあるっていうからさ……キス」
それでつい、私も「したことある」と嘘を言ってしまった。
「彼氏いるとか、聞いたことないけど?」と友達には鋭い返しをされたが、「付き合ってなくても大人はするんだよ」、などと偉そうな口を叩いてしまったのだ。
「それで、嘘をほんとにしたい……って?」
「待って、今度は私の番!」
レンズ越しに光る瞳から逃れるように、顔を逸らした。そのまま「画面、見たの?」と訊ねると。
真水くんは「はい」と即答する。
「ま、まぁ、そうだよね……だから返信してくれたんだろうし」
そう呟いた途端、エアコンが切れた。
先生がタイマーにしていたのだろう。
「……移動しませんか?」
「えっ?」
「ここだと、廊下から丸見えだし」
部屋はまだ涼しいはずなのに、身体が熱い。椅子に汗の染みができそうで、慌てて立ち上がった。
「て、ていうか! これって、
「えっ」
先に出ようとした真水くんが立ち止まる。
「やっぱりオレじゃだめ……かな?」
『だれでもいい』って書いてあったけど――そう指摘する真水くんの目は、かすかに揺れていた。
たぶん、この人もキスしたことないんだ――。
「だれでもいい……そう、別にだれでもいいんだよ、私は」
逆に、真水くんはこんな私で良いのだろうか。
興味本位と意地で「だれでもいい」とか言っている女が相手でいいのか――そう訊ねると。
「オレも、だれでもいいから」
彼は前を向いたまま、そう言った。
真水くんが無意識に触れているであろう耳が、明らかに赤くなっている。
たぶん、彼も緊張しているんだ――。
2階の渡り廊下から、真水くんは無言のまま旧校舎に入っていった。同じく口を結んだまま着いて行くと、たどり着いたのは「美術準備室」だ。
イーゼルとキャンバスがほとんどを占める部屋の中は、夏なのにひんやりしている。奥は絵の具を洗い流す用の洗い場に続いていて、窓はない。
絵の具と油の匂いで満ちた空間――ここが待望の初キスのロケーション。
「ここなら誰も来ないから」
「うん……」
美術室は、選択科目で取らなければ3年間縁のない場所。その準備室である小部屋には、なぜか分厚い鉄の扉がある。
「真水くんって、美術部だったんだ」
「うん……君は部活、やってないよね」
何で知っているのか――訊ねる前に、真水くんは鍵を閉めてこちらを振り返った。
「最終確認だけど」
かすかに揺れる瞳が、私をとらえた。
「付き合ってないけど、いいのかなって……」
「うん。いいよ」
キスは、ただのキスだ。
なんの延長でもなくて、ただ今回のそれは、「私のプライド」で済ませたいだけのもの。
そう正直に話すと、真水くんはちょっと怒ったように俯いた。しかしすぐに、気のせいだったかのように真顔になる。
「他に、確認しておく条件は?」
本当に真面目な人なんだな――そんな彼が、どうして私のバカみたいな提案に乗ってくれたのだろうか。
不思議に思いつつ、「キス以上はしないってだけ」と告げると。
少しの間の後、「分かった」と返事があった。
「ただ……」
そう言いかけて、薄ら色づいた唇が閉じる。
自分よりも大きな彼が距離を詰めるたび、なぜか足が一歩後ろにいく。
壁に寄っていくうちに、乱雑に積み上がったイーゼルと背中がぶつかり、そこで足を止めるしかなかった。
「……大丈夫、触らないから」
前髪のかかったきれいな目が、まっすぐに私をとらえている。
その瞳から、息を呑むほどの緊張と、ちょっとの期待が伝わってくる――男性の顔をした彼に、身体が縮まる。
「か、肩だけ……いいよ。しにくい、だろうし」
そう絞り出してすぐ、血管の浮き出た白い腕が、顔の横を通り過ぎた。
真水くんが、壁に手をつき、私を見下ろしている。身体のどこにも触れないように、配慮しているのが分かる。
顔に影がかかった。
眼鏡越しの熱を宿した目と、視線が合う。
「いい?」
「うん……」
真水くんの顔が好きだった。
たぶん1番、小ぶりで薄い唇を見ていた。
それが今、目の前にある。
逃げそうになる身体を自分の腕で抱きしめ、荒くなる呼吸を抑える。
これがしたかったはずなのに、心臓が破裂しそう
なほどに鳴っている。
息が、できない――彼の短い息が、頬にかかる。
「ま、待った」
朝コンビニで買った、チョコミント味のタブレットを食べたまま登校したから、口を濯ぎたい――。
苦し紛れにそう言って、真水くんの後ろの洗い場に視線を移すと。
「……じゃあ、オレも」
彼は深いため息とともに、私の上から身体を起こした。
「……ごめんね」
水の流れる音を聞きながら、少し反省した。
自分の興味で誘っておいて、寸止め。真水くんのやる気を削いでいたとしても文句は言えない。
「まだする気ある?」、とも聞けず、ただ水の流れる音に集中していると。
「あれ? これ……」
目の前に差し出されたのは、先週発売したばかりのチョコミント味タブレットだった。
「ホントはさ。オレも同じの食べてたから、別に気にしなかったんだけど……」
「え? 真水くんもこれ、好きなの?」
意外だった。甘いものは好きじゃなさそうだと、勝手に想像していたから。
2人で並んで口を洗いながら、「あ」と大きな声を上げてしまった。ハンカチを教室のカバンに入れたまま、出てきてしまったのだ。
真水くんの前でなくとも、シャツの袖で拭くなんてことは、絶対にできない。
どこかにティッシュでも落ちていないものか――辺りを見回していると、目の前にタオルが差し出された。
「一回使ったのでいいなら……どうぞ」
一応洗ったやつではある、という真水くんのタオルを受け取った。
「あ、ありがとう……」
少し濡れているタオルに、頬をつけると。先ほど近寄った時にはまだ感じられなかった、彼の匂いに包まれた――瞬間、背筋にゾクっと震えが走る。
これから実物と触れるのだと思うと、どくどく脈打つ頭が、さらにおかしくなりそうだ。
「……ねぇ」
ふと顔を上げれば、真水くんは私を見ていた。
そのきれいな目で、邪なことばかり考えている私のことを、じっと――。
「オレもひとつ、後でお願いごとしてもいいかな?」
何だろうか。
「後で」というのは「キスの後」ということらしく、真水くんは答えてくれない。
「付き合う、とかじゃないなら良いよ」
「うん、違うから……」
そう呟いた途端、タオルを持つ手に熱が触れた。
真水くんの手――それに気を取られる間もなく、彼の匂いが濃くなる。
今にも泣きそうな顔で「いい?」と問われ、ただ頷くことしかできなかった。
元はと言えば、私が言い出したことなのに。
ネットに流したことが実現するはずない――そんな甘い考えで書いた願望が、まさか本当になるなんて。
とっさに息を止め、目を閉じた瞬間――。
唇に、柔らかい熱が灯った。
握られた手の力が、少し痛いほどに強くなっている。
「……っ」
だれでも良いと思っていたのに。
彼と――真水くんと触れた一点だけの熱が、彼の存在を強く伝えてくる。
「あ……」
熱が離れていって、思わず声を出してしまった。
息継ぎができて助かった、と思う反面、離れたくないと願ってしまった。
膨らんでいた肺が、楽になっていく――。
真水くんは顔を背け、少し荒い息を噛み殺している。
たぶん、彼も息を止めてた。耳まで赤くなっている。
何を言ったら良いのかわからなくて、溶けるように熱い目頭を押さえた。
真水くんから顔を逸らしたまま、静寂を破る。
「それでさ……お願いって、何だったわけ?」
実際は一瞬のことだったはずなのに、彼のことを深く知った気になった。
何となく馴れ馴れしい口調で、そう訊ねると。
真水くんは視線をあちこちに散らした後、頬を染めたまま口を開いた。
「2回目もオレとしてほしい……って話、です」
「え……?」
だれでもいいからキスがしたい――これが真水くんとの始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます