第3話
孤児院の子どもたちが残らず食堂にやってきたのとほぼ同時に、いつものように彼はやってきた。きいきい、がらがらと古い車輪と木製の床が擦れる音と共に、二人分の足音を引き連れて。
開け放たれていたドアを潜り、閉める。粥の甘いにおいに外気が混ぜ込まれる。食器を手にカンカン鳴らしていたこどもも、今ばかりは大人しく手を膝の上に置いている。古びた樫の木が軋む、それもこの世界の日常に過ぎなかった。
「みんな、おはよう」
彼――この孤児院の園長である、ドゥリディスは、車椅子に乗ったまま姿を現した。しなびたような両足が、今日はま白い靴に覆われている。鴉の顔を模した、全顔を覆う面――いわゆるペストマスクである――をつけた女に車椅子を押され、傍らには皮のマスクで顔の下半分を隠しフードを深く被った男を連れ、彼は食堂の前、ちょうど一段高くなっている所へやってきた。短いスロープを上がり、正面を向く。子どもたちの顔がすべて見渡せる位置だ。ドゥリディスは食堂を見渡し、一人一人に微笑みかける。穏やかな微笑みを向けられたアナは、花の咲くような笑顔でもってそれを迎えた。
「今日はこの後、みんなでふもとの教会に行きます。朝食を食べ終わり次第、門の前で待っていてくださいね」
はあい、と元気な返事を聞き、彼は満足そうにうなずいた。
「支度が終わってないのもいるけどねえ」
「やめてよ」
マガのからかいに、アナは顔を真っ赤にして答える。そのままマガに頬をもちもちもてあそばれ、アナは憤慨の声をあげる。それを目ざとく見つけた皮のマスクをした男――名をリーコスという――は、ぎろりとマガをにらみつけた。視線に気がついたマガは、パッと手を放して不服そうに前を向く。
「――支度が終わっていない者は、十分後には集合するように」
「あちゃあ」
「マガ……」
「アナ。おまえだぞ」
「うー……にいにのいじわる……」
「なんだと?」
「なんでもない!」
リーコスが声高に付け加えると、アナたちの周囲からくすくすと忍び笑いの声が聞こえてきた。マガは反対方向に目を向けたリーコスにむかって舌を出しておちょくっている最中だった。アナはマネをして舌を出してみる。バレることはなかったが、心なしか視線が厳しい気がした。
「それでは、いただきましょう」
ドゥリディスの声に、一斉に食器が持ち上げられる。スプーンと皿の触れ合う音が食堂の隅々にまで響き、小さな話し声すらかき消していく。夜の間に蓄積された空腹には、誰も勝てないのだ。
――そんな中でもアナは静かに手を組み祈っていた。目を閉じうつむき、まるで周囲の音が存在していないかのような、そんな凪いだ湖面のような穏やかさでそこに座っている。
マガは、その幼ささえ押し隠されたアナの横顔を眺めている。口いっぱいに詰め込んだオートミールを咀嚼し、飲み込むのと、アナの利発そうな目が開くのはほぼ同時だった。
「熱心だね」
思いがけずかけられた言葉に、アナは顔じゅうにクエスチョンマークを貼りつけてマガを見上げた。
「朝もお祈りして、ご飯のときもいっつもしてるだろ。信心深いこと」
「ふつうだよ?」
「……普通じゃないさ」
「?」
ふいに、マガの顔を何かの影がよぎった、ような気がした。何が言いたいのかちっともわからずに、アナは彼女の顔を見つめたまま皿に手を伸ばす。マガは口唇をゆがめ、アナの髪をぐしゃぐしゃと撫でまわした。地肌をもってぐわぐわ揺らすような乱雑な行為だったが、アナにとっては別にどうというわけでもなかった。せっかく梳いた髪は、またところどころ絡まってしまったが。
悲鳴をあげるアナをよそに、マガはけらけら笑いながら器を持ち上げ粥をかきこむ。行儀が悪いと叱られるような行為ではあったが、今の彼女はアナのお世話係としての認識もある。そのため多少の行為は黙認された。
「ほら、アタシが髪どうにかしてあげるから。あんたはとっとと食いな、おくれちまうよ?」
「マガのせいでしょー!」
「静かに食べなさい」
遠くから飛んできたリーコスの怒声に、アナはぴゃっと亀のように首をすくめ、眉根を寄せてマガを見上げた。頬が丸く膨らんでいる。その頬をついてやると、ぷしゅうとあっけなく空気が抜けて、唇をとんがらせただけになる。タコみたいだった。ゆっくりと、意識しなくても口唇が上がってしまう。によによ笑いながら、マガは頬を突き続けている。その度にアナは逃れるように首を振るが、マガの手からは逃れられない。
「アハハ、ああ、かわいい……」
「可愛くなんてなーいー!」
「アナ!」
「にいに、アナじゃない! マガだもん!」
ぎゃいぎゃいと始まりそうな口論に、マガはさらに大口を開けて笑った。その真っ赤な口内では、白い八重歯が光っている。
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