第2話

「おはよー!! 起きて!! 朝ごはんなくなっちゃうよー!」


 ガンガンガン、と鉄の大なべを鉄のお玉で殴りつける音と共に、アサナシア孤児院の朝は始まる。何が何でも全員を叩き起こすという気概に満ちたその音と少年の声は、孤児院全体を練り歩いている。

 騒音ともいうべきモーニングコールに起こされた子どもたちがわあわあと部屋を出て行く中、アナは小さな手で目を擦りながら、むっくりと起き上がった。その頭では細い金髪が複雑に絡み合い、見事な鳥の巣を形成している。大きく伸びをすると、大きな緑の目がぱっちりと開いた。

 アナはゆっくりとカーテンを開け、窓越しに空を見上げる。抜けるような青空。太陽が山の端から顔を出し、孤児院を囲む草原をみずみずしく照らしていた。毎朝見る同じ景色。しかしそれは、幼い彼女にとって全ての安寧を示している。何事もなく始まった、穏やかな日々の始まりである。

 雲一つない空に、祈る。いつもと同じように、小さな手を胸の前で組み、今日の安寧を願って。


 ――ああ、かみさま。今日が、いい一日でありますように――。



「アナ? 起きてんのかい?」


 ふいに聞こえた声に、アナはお祈りを手早く切り上げ振り返った。部屋の入り口――薄い暖簾がかけられただけの簡素なものだ――の前に、誰かが立っているのが見えた。


「アナ?」


 誰かは、一段声を張り上げてアナを呼んだ。


「おきてる!」


 アナは負けないように声を張り上げて、急いでベッドを降りる。カーテンを開けたまま、ベッドの下の靴を突っかけて、ぱたぱたと入り口へ。ヴェールのような暖簾から頭を突き出すと、そこに立っていたのはマガだった。

 くるぶしまである長髪を一つに編んだみつあみを垂らし、彼女はそこへ仁王立ちになっている。歳の頃は十一程だろうか、気の強そうな吊り目でアナを見下ろしている。彼女は珍しく、結婚式に行くかのような、はたまた死に装束のような白いワンピースを着ていた。


「おはよ、マガ」

「はい、おはよう。……あんた、まさか今起きたんじゃないだろうね」

「……なんで?」

「なんでってあんた」


 マガは湖よりも深いため息をついて、アナの額をずむん、と小突いた。狐のように意地悪く笑い、彼女は言う。


「今日は例の日だろ。あんた、一等楽しみにしてたじゃないか」


 ぽかん、とした顔でマガを見上げる。何のことかこれっぽっちもわからなかった。険しい顔でアナの頬をもちもち揉んでいた彼女は、またため息をついた。


「教会での礼拝。今日だっただろ?」

「……? ……あ!」


 慌てて髪をいじり始めた小さな子どもを前に、マガはその白く小ぶりな歯を見せて笑う。絡まった髪と悪戦苦闘している妹分を前に、彼女は愛おしそうにその頭を撫でた。緑の大きい目が、不思議そうな色を帯びてマガを見上げる。彼女はアナのわきに手を差し込み、勢いをつけて抱き上げた。ほとんど肩車のように、肩口へ担ぎ上げるようにして抱いてやると、アナはきゃあ、と喜びの声を上げた。


「まったく、うちのかわいこちゃんは困ったもんだね。ほら、支度するよ」

「たかーい!」

「のんきな子。先生待たせちゃだめだからね、あたしが手伝ってあげる」

「うん!」

「ま、まずは朝ごはんだね。出発進行」

「進行!」


 奇妙な神輿のようになった二人は、そのままずんずんと孤児院の中を進んでいった。目指すは食堂、である。

 賑やかな子どもの声、そしてガンガンと響く鉄同士が打ち付けられる音に合わせ、アナは体を左右に揺らす。さながら神事のようである。

 その度に、マガは「落ちるんじゃないよ」などと小言を言う羽目になった。実のところ、アナはこの孤児院の年長者ほぼすべての肩にのったことがあるので、そんな心配は必要なかったが。


「マガ」

「ん?」

「今日、隣に座ってくれる?」

「礼拝のとき? いやだよ、あんた司祭に気に入られてんだから、寝られないじゃないか……」

「寝なかったらいいのよ?」

「そうだね、あんたは賢い子だよ。いいこ、いいこ」

「ねえ、いいでしょ? ……あのね? 秘密よ。……にいには厳しいから、緊張する……」

「あはは」

「笑い事じゃないの!」


 朝食のオートミール粥を手に、食堂の空いている席に座りながらアナは甘えた声をあげる。小さなふくふくの手でマガの袖をそっと握って。マガは困ったように笑いながら、その手を握り返す。骨ばった細い手と、まだ赤子のような手が、お互いをぎゅっと握りしめ、二人は顔を見合わせて笑った。

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