第46話:この空の下に立つ
見上げると、青い空。
再現された異世界の都市。その空は、たしかに“向こう側”の空だった。
私は今、ARスタジオの中心に立っている。四方を囲む曲面スクリーンが空と街並みを描き、床のわずかな傾きと足裏の反力が、私の体に「現地の感触」を刻み込んでくる。
ここは、VR語学研修や異世界制度の講義と並行して行われている、“立体的な感覚共有”のための実習空間。異世界を「肌で知る」ための訓練——でも、それだけじゃない。私たちは、この場所で「立つ」ことの意味を知るように仕向けられている。
「そちら、白い壁の建物は、もともと裁定所として使われていた施設です」
林先生のガイドの声が、空間に穏やかに響く。
「建材には、近郊の石灰岩が使われており、独特の模様が浮かび上がるのが特徴ですね」
生徒たちは小さなグループに分かれて、先生の案内を聞きながら街の通りを歩いている。足音が床に反響し、誰かが「すごい、本当に陽が差してるみたい」と感嘆の声を上げた。
「はい、そちらは居住区の入り口です。街の中心から、地の民の自治区に続いていますが、建築様式が変わってくるので、よく観察してください」
林先生の案内に合わせて歩いていくと、周囲の景観がその通りに変化していく。
建物の高さ、窓の配置、通りの幅。見ているだけのはずなのに、身体がそれらを「通過している」と錯覚してしまう。
そして、私は——
……今、私はもう「なりきっている」のではなく、「そこにいる」のだと感じていた。
この都市には、何度も来た。VRの中で、語学演習の素材として、道案内の練習や聞き取りテストを受けながら。でも今日、こうしてクラス全員と同じ空間で、立っていると、まるで最初からここにいたような感覚がした。
足元の石畳の模様、建物の壁に射す光の角度、風が抜けるような音の反響——それらを脳が勝手に拾い上げて、つなぎ合わせて、「私はここにいる」と結論づけてしまった。
演出でも、錯覚でも、かまわない。
私は、この空の下に立っている。そう“信じた”瞬間、それはもう現実と何が違うんだろう。
——信じることで成立するものがある。
それは、たぶん、魔法と同じ構造なのかもしれない。
この都市には、「森の民」や「地の民」、それに獣の耳をもった人々が住んでいると聞いた。現地の人たちの描写や記憶をもとに再現された空間は、どこかゲームの世界にも似ているけれど、ただのファンタジーには感じなかった。
「この広場の名前、覚えてる?」
隣でチアリが声をかけてくる。
私は、うなずきかけて、やめた。
名前はまだ知らない。でも——
ここにある景色は、ただの空想じゃない。
私は、ここに立つ。そのことだけは、もう決めている。
────
……ARツアーが終わると、空気が一変した。明かりがゆっくりと落ち、投影が静かに収束していく。
ほんの数秒前まで、中世の都市にいたはずの私たちのまわりから、石造りの建物がすっと消える。
代わりにに現れたのは、天井から吊り下げられた360度トラッキングカメラ、ジンバルに乗った大型プロジェクタ、LiDARアレイやモーショントラッキングセンサーが満載されたセンサーバーの列。
さらに、床の端には送風機やロースモーク用のディフューザーまで揃っていて、さっきまで体が感じていた“風”や“空気の重み”の正体が、そこにあった。
まるで、映画の撮影現場の裏側に迷い込んだみたいだった。
私はつい、天井を見上げる。
この空間は、クラス全員の挙動をリアルタイムで捕捉し、共有するだけでなく、それぞれの視点から見た“近景映像”を、個別に合成して、ゴーグルに送り返している。
つまり、ここにいる全員が、“自分だけの現実”を受け取りながら、同時に“クラス全体で同じ空間を共有している”という構造になっているのだ。
その処理をリアルタイムで捌いている計算資源を思うと、ため息が出そうになるほどだった。
そのとき、ふと気配を感じて横を見る。
ユウトも、同じように天井を見上げていた。
……でも、それは私とは少し違う理由だったのかもしれない。
彼の目は、機材そのものというより、何かを確認しているようなまなざしだった。
何を考えているのかまでは分からない。でも、きっと、彼も何かを掴もうとしている——そんな気がした。
────
「では、移動しましょう」
林先生の案内で、私たちは教室へと移動した。
スクリーンと端末に資料が展開される。少し現実に戻った感覚。
私たちは席に着き、自然と姿勢を正した。
この後は「課外活動に関する手続きについて」という説明が行われることになっている。
素っ気ない案内だけれども、ここからが、たぶん、本番なのだ。
いつもだったら、こういう時にざわつくはずのゲーム勢が、固唾を呑むほどに緊張しているのがわかる。
説明会の壇上には、カウンセラーの須藤先生と、担任の片山先生が並んでいた。
「今日は、異世界渡航に関する手順の説明をします」
須藤先生が、落ち着いた口調で話し始めた。
「まず、異世界渡航に関する活動は、すべて“課外活動”という枠組みで実施されます。よって、強制は一切なく、むしろ参加には生徒本人と保護者双方の同意が必要です」
スクリーンに浮かび上がったのは、「異世界渡航に関するフロー」と題された図だった。
「これまで説明した通り、皆さんには、異世界渡航に関する“適性”があると見込まれています——」
“適性”——入学前の検査で、私たちには「異世界での活動に対する高い適応性を持っている」ことがわかって、ここにいるということをつい最近知った。「この道を先に進む」素質があると。
そして、私は、自分がここにいる意味がわかった気がした。「この道を先に進む」義務があってここにいるのだと。同じ決意をしている仲間はきっとたくさんいる。
カイトはそう、ユウトもおそらくそうだろう。あんまり「決意」というのを雰囲気に出さなくても、異世界を目指してこの学校に進学した子は、きっとみんなそうだろう。
「——これは、あくまで『素質』があるということで、『責任』があるということではありません」
あれ?——みんなも戸惑っているみたい。
「皆さんが大体気づいているように、この附属高校は異世界に関する研究を集中的に進めるために作られました——」
「課外活動についても、早い時点から異世界の文化や言語を学び、皆さんに異世界との交流の架け橋となって頂くことを目的としています」
須藤先生は、ここまでの話がクラスのみんなの腑に落ちるまで、しっかりと間を取って、話を続ける。
「そして、異世界との交流は、異世界に行くことでしか実践できないわけではありません」
「たとえば、渡航経験者からの記録・観察をもとにした分析的支援、あるいはこちらに残って現地との連携やサポートを担う役割なども重要です」
「——つまり、このクラスにいて、この特別活動に参加している皆さんは、そういう意味では、既に『異世界交流に参加』している立場となります」
そうか。渡航するかどうか、そればかりが決意だと思っていた。
でも——この場にいること、みんなと共に歩いていること。それ自体が、もう一歩、世界の向こうに踏み出していたんだ。
「異世界への渡航準備は、以下のようなプロセスで行われます」
と、スクリーンのフローに注目を集める。
「まず、最初は秒単位の試験的な『渡航』を体験して頂きます。この際に、体調への影響や、これまで観察されていない想定外の反応が生じないかどうかという医学的な観察を行います——」
「——以降は、様子を見ながら、徐々に滞在時間を延ばしていく計画ですが、ここについては、まだ現地で数分以上の滞在をした場合のデータはありませんので、診断をしながら慎重に進めていきます」
数分の滞在——自然とクラスの視線は片山先生に向かうが、片山先生は特に
「もちろん、各段階で皆さんの意思は確認しますし、同意はいつ撤回しても構いません。一方で、後から同意することも可能です」
「後から同意」という言葉にクラスが少しざわつく。
——決めきれない子にも、残された道がある。そういう仕組みなんだと、私は静かに理解した。
「まず。皆さん自身の参加の意思が最優先です。その上で、保護者の方の同意を得ることも必要ですから、参加されたい、あるいは説明を受けたいという方は、三者面談の予約をお願いします。もちろんオンラインで結構です」
「保護者の方に説明する際に、一般に公開されている範囲以上の説明をする場合には、守秘義務に同意して頂く必要がありますので、予め相談しておいてください。三者面談の場で、必要に応じて守秘義務に同意して頂くという形でも結構ですが、その場合、皆さん自身が先に保護者の方と相談して頂くのが難しくなると思いますので、私の方に相談してください」
「配布した資料は、『異世界渡航』に関してまとめられた公開済みの資料です。守秘義務以前の説明が必要でしたらお使いください」
アプリに「異世界渡航の展望と課題〜国家構想としての挑戦〜」と書かれた資料が届く。様々なジャンルの人たちとの対談やインタビューを交えて、研究科が作成したパンフレットらしい。
「質問や相談がありましたら、私か片山先生に。匿名での質問も受け付けますので、アプリから気軽にお願いします」
片山先生が初めて口を開く。
「大切なのは、自分自身が納得することだ。急ぐ必要は全くないからな」
「資料はアプリからいつでも見られますし、不安なことがあれば、なんでも相談してくださいね」
須藤先生の言葉が終わると、張りつめていた空気が、すこしだけほどけた。
でも私は、今この瞬間にこそ、心が静かに定まっていくのを感じていた。
【第46話:了】
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