数年後、揺らぐ予感に怯える杏 その2



杏は実家に戻り、母に佐伯さんのことや今抱えている悩みを話した。

ママの返事はあっさりしていた。


「じゃあ、辞めたら?」


「えっ?」


「あんた、優先順位おかしくない?」


「……うん、でも……」


「真秀くんとしばらく会えてないから、不安になってるだけでしょ」


「……そうかも」


ママは席を立ち、「ちょっと待ってて」と言い残して部屋を出た。少しして戻ってきたとき、手には古いシステム手帳があった。


「あった、あった」


メモに何かを書き写し、それを杏に渡す。


「昔バイトしてたアンティークショップ。オーナーに相談してみる?不思議な力がある人だよ」


「……占い師?」


「まあ、そんな感じ。行ってみなよ」


杏がうなずくと、ママはそのままスマホを取り出して電話をかけた。


「わたしです~、ごぶさたしてます!」


懐かしそうに少し話したあと、ママは満足げに頷いた。


「予約とれた。行ってらっしゃい」


***


その店は、会社から歩いて行ける距離にあった。

アーケード街の一角。古いビルの一階にひっそりとある。


重たいドアを開けると、湿った土と植物の匂い。中には大きな花瓶、並べられた古本と陶器、時を刻む古時計。

空間全体が、静かに時を重ねてきたような店だった。


「母に聞いて来ました。舎利倉です」


「裕子さんの娘さんね。いらっしゃい」


現れたのは、落ち着いた雰囲気のマダム。墨色のワンピースに、革のサンダル。年齢を重ねて、洗練されたという印象の人だった。


オーナーはドアにかかった札を「準備中」にひっくり返し、杏に微笑んだ。


「さっそくだけど、お茶にしましょう」


「はい、いただきます」


案内された奥の丸テーブルには、レースのクロスとティーセット。フエルトのティーコゼ。 棚から茶葉の缶を取り出し、オーナーは紅茶を淹れる。


「これは、今のあなたに合うお茶」


「えっ、私に?」


「ちょっとクセあるけど、ちゃんと飲んで」


甘くて、ほろ苦い香り。どこか懐かしい気持ちになる。


紅茶を飲みながら、マダムは若い頃のママの話をした。そして杏がよく似ていると言われた。

昔なら嫌だった言葉も、今は少し嬉しい。


杏は今の不安をマダムに打ち明けた。


紅茶を飲み終えてから、杏は奥の部屋に案内された。


ドアの先には厚手のビロードのカーテンが三重にかかっていた。くぐると、そこはほの暗く、中央のランプの光が届く範囲だけが丸く存在していた。


テーブルを挟んで座ると、マダムは鉛色の小箱を開け、中からアクセサリーを取り出した。


それは古びた金属のペンダントだった。表は彫金された細かい模様がびっしり。小さな石が埋め込まれ、手作りのような風合いで。そしてとても古そうだった。


「これは“ミルハイネのペンダント”。出自、来歴とも不明。でも、このペンダントは、とある記憶を刻まれているの」


ランプの明かりが少し落とされる。杏は、自分がどこか現実から切り離されていくような感覚に陥った。


マダムがペンダントを杏の手に置き、そっと手を閉じさせる。


「目を閉じて」


杏が従うと、マダムは低く、はっきりと呟いた。


「Ça brille, ça brille !…………」




***



――視界が、暗転した。


「……笑ってた……抱かれて……喜んでた……私が……」


汚れたシーツ。濡れた身体。男の声。


「悔しい……私のせい……全部、私のせい……」


「忘れたふりして……沈んで……甘えた……」


「心は? 身体は? 誰のもの?」


「わたしが望んで、わたしが堕ちた……」


「大切なものを、自分で壊した」


「想い出すたび、胸が焼けるよう……消えてしまいたい……」


声がした。名前を呼ばれた。だけど届かない。


「泣けない……赦されない……」


「もう戻れない。もう、何もかも……」


「赦して、赦して、赦して、赦して、赦して、赦して、赦して、――」


「赦して」


***


杏ははっと目を開けた。


マダムがそっとペンダントを取り上げているところだった。手のひらには跡が残り、じんわりと痛んだ。


「ミルハイネは、“寝取られた女”。詳しい事はペンダントと同じく、全然わからない。でもこのペンダントは、確かにいた彼女の痛みを映すもの。自分を律したい人の、きつい気付け薬みたいなものよ」


マダムはランプの明かりを戻し、小さな瓶を手に取った。香油をディフューザーに垂らす。


「さあ。愛しい人のこと、思い浮かべて」


ふわりとジャスミンと樟脳の香り。杏の心に、真秀の姿がくっきりと浮かんだ。


――真秀くん。わたしの、大事な人。






杏は礼を言い、固辞された見料の代わりに、小さな人形を買った。


「それ、相方とはぐれた子なの。大事にしてあげてね」




***




帰り道、杏はひどく空腹だった。香りに誘われてラーメン屋に入り、麺をすすった。


お腹が満たされて、ようやく現実に戻った気がした。



――“ならぬことは、ならぬもの”だね。よし、ノイズは無視して、前に進むぞ!




****************



杏は生涯間違えたくないという思いで、マダムの店を訪れました。


ミルハイネのエピソードは、あんぜ氏作 『死鎧の騎士』のヒロイン、

聖騎士ミルハイネの物語からお借りして大胆めに改変させていただきました。


どうもありがとうございました。


死鎧の騎士 https://kakuyomu.jp/works/16818093088653827442


死鎧の騎士、とても噛み応えがあって面白いです。

ミルハイネのその後は奇想天外!エロティック!!

読むと幸せになります。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る