数年後、揺らぐ予感に怯える杏 その1

 秋のある日、屋上で澄んだ空の下で真秀と杏はのんびり読書をしていた。


 静かな時間の中で、杏はずっと胸の中でくすぶらせていた質問を口にした。


「真秀くんは、進路どうするの?」


 読んでいた小説を膝に伏せた真秀は、あっさりと答えた。


「もちろん、家を継ぐ。っていうか、パン職人になるよ」


「大学、行ってから?」


 杏の問いに、真秀は少し笑って首を振った。


「ううん。やりたいこと決まってるのに、そんな遠回りしないさ」


 真秀の話は続いた。高校を卒業したら製パン学校に通い、国家資格を取る。そのあと、父親の兄弟子を頼って――ドイツに渡る予定だという。


「え、ドイツ……?そんな、いきなりそんな話、わたしイヤだよ。一緒に居たい」


 杏の声には驚きと、不安が滲んだ。


「三年くらい、かな。すぐ戻ってくるから」


 軽やかに言う真秀の言葉に、杏は笑顔を作りながらも、胸の奥でそっと息を呑んだ。

 三年。あまりにも長い。会えない時間が、遠くて、想像より冷たかった。


 それを感じ取ったのか、真秀は静かに彼女の頬に触れて言った。


「そうしたらさ、杏。帰国したら――結婚しよう」


 一瞬、時間が止まったようだった。


 杏の頬に、ふわっと熱が差した。あまりにも唐突で、真剣で、夢みたいで。

 でも、その一言で、すべてが決まった。


 杏は大学進学をやめる決意をした。代わりに就職して、実務経験を積む道を選ぶ。経営を学び、未来のふたりのために、自分にできることを積み重ねるつもりだった。


 親に話すのは簡単じゃない。だから彼女は、自分から真秀に言った。


「――真秀くん、わたしと婚約してください。それなら浮ついた話じゃなくなるもん」


 少し驚いたような表情のあと、真秀は力強くうなずいた。


 ふたりはまだ高校生だったけれど、その瞳の中にはもう、遠い未来がしっかりと描かれていた。



 それから4年――


 最近杏は、そばかすを隠さなくなった。


 以前は毎朝、コンシーラーで丁寧にカバーしていた。

 けれど最近は、メイクは控えめ。肌のケアだけは怠らず、色味はナチュラルに。

 服装も、目立ちすぎないけど地味すぎない、そんなバランスを心がけていた。


 左手の薬指には、婚約指輪。

 ベッカライ・クーゲルの常連のお客様で作家さんがいて、頼んで作ってもらった一点もの。ひねりの入ったデザインで、華やかさはないけれど不思議と目を引く。


 もちろん、それらは男性に対する牽制の意味も込めていた。



 ある日、少しはしゃいだ感じの同僚が、声をかけてきた。


「ねえ舎利倉さん、駅前のビルに貼ってあるポスター見た?あれ、すっごく似てたよ!」


 ちょっと気になって、帰りに見に行った。


 大きなポスターの中でポーズを決めるモデルは、赤毛のソバージュに、透明感のある瞳。そばかすのあるベビーフェイスが印象的だった。


 ――たしかに、似てるかもしれない。


 杏の色白の肌、赤茶っぽい髪、くっきりした目元とそばかす。

 そのどれもが、今どきの“ナチュラル可愛い”のイメージとぴたり重なっていた。


 それがきっかけだったのか、周囲で杏への評価がふわっと上がりはじめた。


 ある飲み会のあとだった。


 杏が席を外していた時に、誰かがぽつりと話したという。


「舎利倉さんの婚約者、何年もずっと海外なんでしょ?」


「え、それってちょっと寂しいねえ」


 何気ない会話のはずが、酒の場でふくらみ、勝手な尾ひれがついて広がっていった。


 ――彼氏と遠距離らしいよ。

 ――最近、ちょっと寂しそうじゃない?


 噂のせいで、杏は次々と誘われるようになる。


「このあと、軽く飲みに行かない?」

「今度の週末、美術館とか……好きって言ってたよね?」

「前話してたカフェ、気になってるんでしょ。一緒にどう?」


 他部署の先輩、いつも顔を合わせる同僚――

 次々と、杏に声をかけてきた。


 婚約指輪なんて、もう誰の目にも入っていないようだった。


 杏は丁寧に、笑顔で断っていた。けれど、誘いが重なるたび、気疲れしていく自分に気づいた。


 そんなある日。


 外回りから戻った杏に、はかったようなタイミングで声がかかる。


「神保です。近くまで来たので、寄らせてもらいました」


 取引先の営業マン。長身で清潔感があって、言葉の選び方にも品がある人だった。


 打ち合わせのあと、杏がコートを取ろうとすると、彼が自然な手つきでそれを持ってくれた。


「急に寒くなりましたね。こういう時期って、ちょっと人恋しくなったりしますよね」


 ――ああ、そう来たか。


 一瞬、返事に迷いながらも、杏は穏やかに笑った。


「……ですね。でも、風邪だけは引かないように気をつけてます」


 やんわりかわして、それ以上は踏み込ませなかった。


 そんな杏の支えは、杏の在籍する企画部の主任、佐伯さん。


 美人でスタイルもよく、誰にも媚びず、いつも凛としていて、クールだけど、筋の通った人。旦那さんは単身赴任中。だがガードは固く、いつも凛としていた。


 ある日、昼休みの給湯室でふたりきりになったとき、杏は思いきって相談してみた。


「……遠距離恋愛って、どうやったら続くんでしょうか」


 佐伯さんは紙コップにお湯を注ぎながら、少し考えてからぽつりと答えた。


「“うまくやろう”とかすると、逆に不安になるもんよ」


 そして、ふとこちらを見た。


 ぶっきらぼうな口調だったけれど、まっすぐな目をしていた。


「寂しいのと、人恋しいのは別。私は、そう思ってる」


 その言葉が、杏の胸に静かに沁みた。

 ――誰かにそう言ってもらいたかったんだと思う。


 でも、その佐伯さんが――


 会社を辞めた。理由は、不倫だった。

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