第4話: 【着替えの時間】
第一階層の街区を一通り見渡し終えたナエヴァは、手にしていた紙を自身のディメンションインベントリに仕舞い込んだ。一度の観察だけで、彼女はこの街の構造を完璧に把握していた。そのおかげで、ヴァイスが話していた店の場所を見つけるのは容易なことだった。余計な注目を避けるため、彼女はすぐに足を向けた。
人の流れから離れた街角に、目的の店が静かに佇んでいた。小さく質素な店構えだが、外観は清潔感があり整っている。扉の上には一枚の木製の看板が掲げられていた。
[ Красота ]
ナエヴァはその看板の文字をしばらく見つめてから、静かに呟いた。
「Красота……“美しさ”か。服屋の名前としては悪くないわね」
――チリン、チリン……。
扉を開けると、頭上の鈴が澄んだ音を響かせた。店内には様々な種類と素材の服が並んでいた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
店主らしき女性が声をかけてきた。彼女の肌は青く、腕は人間のものではなく鳥の翼のように広がっている。足も人間の形とは異なり、鋭い鉤爪を持つ鳥の足だった。そして背中には長い尾羽まで。
「ハーピー……?」
ハーピー。鳥のような身体と女性の顔を持つ種族。伝承では死者の遺体を盗み、悪臭を撒き散らし、通りかかった村の食べ物に毒を混ぜるなどと語られる。
(伝説のどこまでが本当なのかしら……)
ナエヴァはワイスから受け取った紙を取り出し、それを女性に差し出した。
「ダークエルフのワイスという者に、この店を勧められたの」
「あら、ワイスね……」
女性は紙を受け取り、そこに書かれた文字を目で追った。
「ふむ……確かに、これはあの子の字ね」
今度はナエヴァを頭からつま先までじっくりと見つめる。その様子はワイスが初めてナエヴァを見たときとそっくりだった。
「なるほどね。あの子、君が〈イレギュラー〉だからって、普通の服を買いにここへ来させたのね?」
ナエヴァは黙って頷いた。
「よしっ!あの子の紹介なら、私も気合を入れなきゃね。君にぴったりな服を探してあげるわ!」
「どんな服がご希望かしら?」
正直に言えば、ナエヴァは塔の中の服装の流行にはまったく詳しくなかった。地球に現れた〈パッセンジャー〉たちの生態にも関心がなかったのだから、彼らの服などなおさらだ。
「……任せるわ。」
「え、本当に? 全部私に任せていいの?」
ナエヴァはまた頷いた。
「目立たないけど、質のいいものを。」
「ふーん……高級な服を選んでも、文句は言わないのね? 私の利益のために、一番高いのを出すかもしれないわよ?」
「構わない。お金はあるから。」
「……!」
女性は一瞬驚いたように目を見開いた。まさか、こんなタイプの少女に出会うとは。
「ぷふっ……あははははっ!!」
「了解!それじゃ、任せてちょうだい。値段なんて気にしないのね?」
「ええ」
女性はにこりと微笑んだ。
「でも、せめて好みの傾向くらいは教えてほしいわ。何かこだわりはないの?」
ナエヴァは少し考えた。彼女が今着ている〈アイスプリンセス〉のドレスは、長い間着替える必要がなかった。汚れることがなかったからだ。白のドレスにはもう慣れきっている。でも……銀色の髪に氷晶の瞳、そして透き通るような白い肌。そんな彼女が真っ白な衣装を着ると、どうしても目立ってしまう。
「……暗い色がいい。」
「ん?」
「動きやすくて、暗い色の服を。」
「ふむ、暗色ね。それもいい選択だと思うわ。じゃあ、黒と青を基調にした、君の美しさを損なわない服にしましょう。ストッキングを合わせるとさらに映えるかもね」
ナエヴァは嫌な予感がして口を挟んだ。
「――露出は控えめで。」
「もちろんよ。では、さっそくサイズを測らせてもらうわね。」
ナエヴァの頷きを合図に、ハーピーは手を翳し、淡い黄緑色の光を生み出した。その光はナエヴァの全身を柔らかく包み込み、数秒のうちに計測が完了する。服を脱ぐ必要すらなく、瞬時に正確なサイズが導き出された。
「ふふ、これで完璧。君にぴったりの一着を用意するから、少しだけ待っててね――お客様。」
ハピさんは素早く店の奥へと消えていった。
その間、ナエヴァは展示されている品々を見て回った。
服の他にも、ノヴァを含むいくつかのアクセサリーが並べられていた。リボンや髪留めといった可愛らしい装飾品たち――その中に、彼女の目を引くものが一つあった。
「……」
目に留まったのは、可愛い系の装飾品ではなかった。
それは、独特な意匠を持つ――片耳用のピアスだった。
(ここって服屋だったはず。なのに、どうしてアイテムが?)
疑念が胸の奥に微かに生じる。
(ワイスに、あのハピさん、そしてこの店……。全部が妙に謎めいてるわね。ひょっとして、どこかの隠れ組織か何か?)
だが、彼女はすぐに思考を断ち切った。
(――まあ、関係ない。私の邪魔をしない限り、こちらから干渉する必要もない)
手に取ったピアスを、ナエヴァは静かに見つめた。
「……顔を識別されにくくする効果、か。これは……使えるわね」
塔の一層に降り立ってからというもの、ナエヴァは常に多くの視線を浴びていた。
無理もない。気品に満ちた優雅な足取りで歩く、雪のように美しい少女――そんな存在が通れば、誰もが振り返るのは当然のことだった。
(正直、うんざり)
自分が魅力的であることは、自覚している。
だが、それはもう何度も見せられてきた光景に過ぎない。何百年も、何千回も。鏡の中のその顔に、彼女は何の感慨も抱かない。
いや、それは自分自身に限ったことではなかった。
たとえ他人が美しかろうが、整っていようが――それが自分ほどでないなら、美しいとも感じない。あまりにも美に晒され続けたがゆえの、無感動。
ナエヴァの容姿を言葉にするなら、それは――
過度ではない均整の取れた美。
身長は百六十五センチと高すぎず低すぎず、ややふっくらした頬のついた小さな顔立ち。艶やかなピンク色の唇に、光を反射する氷のトリケトラが浮かぶ瞳。
月の光のように淡く輝く白銀の髪。白く滑らかな肌は、まるで染み一つない磁器のようだった。
見た目はほとんど人間と変わらないが、肌の白さはそれを超えており、耳はわずかに尖っている。そして、何よりも特異なのはその体温――氷点下に達する冷気を放っていた。
「お嬢様のお客様~~! こちらをご覧くださいっ!」
にわかに店内に響いた明るい声に、ナエヴァは視線を向けた。
先ほどのハピさんが、手に何かを持ってこちらへ駆け寄ってきていた。
「ご希望通り、ノースリーブの白シャツと、それにぴったりの黒のロングスリーブジャケット! さらに黒のミニスカートと、動きやすいロングストッキングもお付けしてますよ~!」
「サイズはちゃんとお嬢様に合わせて調整済みですっ! いかがですか? 気に入っていただけました?」
そのデザイン――モダンで洗練されたスタイルは、ナエヴァのかつての世界を思い出させた。
「……ええ。とても、綺麗」
「でしょ~~っ!!」
自信満々に胸を張るハピさんの声には、少しだけ誇らしげな響きがあった。
だが、ナエヴァはその調子を不快には思わなかった。
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「この服のセット以外に、何かあるかしら?」
「このピアスですね。」
ナエヴァは先ほど目に留まったピアスを差し出す。
「オーケー!以上で全部ですか?」
「他に、変装用のアイテムはある?」
「うーん……変装用かぁ……」
ハピさんは少しの間考え込み、彼女に合いそうなアイテムを頭の中で探る。
「あっ!」
何かを思い出したように声を上げ、彼女はショーケースからアクアマリンの宝石があしらわれた美しいベルトを取り出した。
「これなんてどうですか?このアイテムは、装着者のノヴァのオーラを最小限に抑える効果があって、他人がその人のノヴァの種類を見抜きにくくなるんです。それに、存在感そのものも薄くなるので、よっぽど目立つ行動をしない限り、周囲の人に気づかれにくくなりますよ」
その説明に、ナエヴァは興味を示す。
(最初の効果は私には必要ないけれど。ノヴァのオーラはすでに遮断してるから。でも、後者の効果は悪くないわね)
「じゃあ、それも追加で」
「かしこまりました、お嬢さまっ!」
薄すぎず厚すぎない生地の上下の服、ショートスカートにロングストッキング、さらにナエヴァが選んだピアスとベルト。すべての品を、ハピさんは慎重に計算する。
「全部で十二万二千カルメラになります。初心者にしてはちょっと高めかもしれませんけど、これ全部、魔法衣装なんですよ。この魔法ブレザーには、防御魔法と回復魔法、さらに破れ防止の保護魔法まで入ってます。ショートスカートとストッキングも同様です。ピアスには顔の印象をぼやかす変装魔法。ベルトもさっき説明した通り、隠蔽の機能付きです。シャツとブレザーが五万三千、スカートとストッキングが二万四千、ピアスが一万五千、ベルトが三万……で、合計十二万二千カルメラです!」
「でも、ヴァイスさんの紹介だから……十二万カルメラでいいですよ!」
「お金が足りなければ、月利三パーセントで分割払いもできますよ?どうします?」
ナエヴァは静かに首を振る。
「一括で払うわ」
「現金一括!?わぁ……本当に初心者のお金持ちなんですね〜。はははっ!」
二人は互いに手を伸ばし、掌を重ねる。
|振込の準備ができました。金額を入力してください。|
ふわりと表示された光のメッセージ。これはシステムでもステータス画面でもない、タワー内で時折現れる補助AIのようなもので、コンカラーたちの活動を支援してくれる機能の一部だ。資金の保管や送金にも使用されている。
この世界の通貨「カルメラ」は、地球の日本円でいうところの十円と同じくらいの価値を持っている。
「カルメラ」= Carmela
「十二万カルメラ」
|了解。十二万カルメラの振込が完了しました。|
送金が完了すると、二人は手を下ろす。
「ここで着替えてもいいかしら?」
ナエヴァの声は相変わらず淡々としていた。
「もちろんです!試着室をお使いくださいね!」
迷うことなく、ナエヴァはその場で服を着替える。古い服は自身のインベントリにしまい、新しい衣装に身を包んで、彼女は無言で店を後にした。
ドアベルが揺れる。少女は一言も発さず、風のように立ち去った。
その背中を見送りながら、ハピさんは寂しげに微笑む。
「ほんっとに冷たい子……でも、綺麗だよね……」
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