第2話:【第1層〈セーフゾーン〉】
「欲望以外すべてを捨てる覚悟があるなら、塔に入れ。」
それは、この塔で生き延びるために必要不可欠な覚悟。
その覚悟を持たぬ者は、無意味に命を落とす運命にある。
塔の入口に足を踏み入れる前に、ナエヴァはその意味を誰よりも深く理解していた。
彼女は何千年もの間、自らの領域に閉じ込められていたにも関わらず、この世界の基本的な知識を欠いてはいなかった。
生き残るために必要な情報はすでに、彼女の中に刻まれていたのだ。
まず、この世界で〈奇跡〉を起こす力──通称「魔法」のような力は、ノヴァ(Nova)と呼ばれるエネルギーによって行使される。
地域によってその呼び名は異なり、西方では「マナ」、東方では「気」、あるいは古代語では「チャクラ」などとも呼ばれる。
すべての征服者(Conqueror)は、体内にこのノヴァを有しており、その強さはノヴァの段階によって示される。
ノヴァには九つの等級が存在し、それぞれが十段階のステージに分かれている。
その等級は、色によって直感的に把握できるようになっている。
赤(レッド)
橙(オレンジ)
黄(イエロー)
緑(グリーン)
青(ブルー)
藍(インディゴ)
紫(パープル)
金(ゴールド)
白金(プラチナ)
最下級の「赤」は基礎的なノヴァであり、最上級の「白金」は伝説級、神域の力とも称される。
一つの等級を超えるだけでも莫大な資源と試練が必要とされるため、たとえ〈ランカー〉と呼ばれる征服者でさえ、「藍」や「紫」止まりがほとんどだという。
塔に足を踏み入れたばかりの者たちは、たいてい「赤」等級に過ぎず、「橙」以上は非常に稀。
実際、「橙」はおおよそ十階層以上の世界でしか見られない。
塔は百階層から構成されており、それぞれが独立した「世界」として存在する。
各階層の広さや法則はそのテーマに応じて変化し、既知の最上階到達記録は六十二階層である。
ノヴァの等級以外にも、塔の本質を理解する上で欠かせない要素がある──それは、種族の多様性だ。
塔の中には、百を超える世界からやって来た無数の種族が共存している。
だがここでは、どんな種族であろうと関係ない。
すべての者は、ただ一つの名で呼ばれる。
──「征服者(Conqueror)」。
塔に挑む者に与えられる称号。
それに対し、塔の中で生まれ育ち、まだチュートリアルに挑戦していない者は「乗客(Passenger)」と呼ばれる。
パッセンジャーたちは、成人を迎えるか、それに相応しいと判断された時、自らの意志で塔の外に出てチュートリアルに挑むことが求められる。
そして、その試練を乗り越えた者こそが、征服者としての資格を得るのだ。
征服者の中にも、二つの系統が存在する。
一つは、塔の中で生まれ育った者たち──正規の征服者(レギュラー)。
もう一つは、塔の外から門を通じてやって来た者たち──非正規の征服者(イレギュラー)。
塔に生まれたレギュラーたちは、この世界以外に居場所がない。
故に、塔を登ることが唯一の生き方であり、運命である。
一方、外から来たイレギュラーたちは、それぞれ異なる背景や欲望を抱き、塔の頂を目指す。
そして今、この少女──ナエヴァは、その存在としては特殊である。
たしかに、彼女は塔の外から来た存在だ。
だが、チュートリアルのボスとして三万年以上塔に留まっていた彼女は、すでにこの世界の一部と化していた。
それでもなお、彼女は「イレギュラー」としての性を帯びていた。
=======================================
ナエヴァの体は、まるで羽のように軽かった。
重力に囚われることのないその感覚は、まるで空を舞う鳥のようだった。
柔らかな雲の中を滑るように漂いながら、彼女の目はまぶしい光に包まれていた。
それは、どこから差し込んでいるのか分からない白光。
だが確かに、それはあたたかく、どこか懐かしささえ感じさせるものだった。
やがて、その光がゆるやかに消えゆくと共に──
ナエヴァは静かに瞼を開いた。
そして、次の瞬間。
彼女の足は止まった。
その場に、石のように固まったのだ。
──あまりに、眩しかった。
それは光のせいではない。
目の前に広がる情景そのものが、彼女を圧倒したのだ。
賑わい、笑い声、行き交う人々。
剣を携え、魔法の光を帯びた者たち。
焼きたてのパンの香り、軋む馬車の車輪の音、訓練場の鋭い掛け声──
そのすべてが、まるで幻想の中にいるかのように、彼女を包み込んでいた。
ナエヴァが最後に“他者”という存在を目にしたのは──
一万年以上も前のことだった。
それ以来、彼女の世界には静寂しかなかった。
孤独と寒気しか存在しなかった。
だからこそ──
これほどまでに“生”に満ちた風景は、彼女にとってまさに奇跡そのものだった。
塔、第1層(セーフゾーン)
塔の第1層は、他のどの階層とも異なる「安全地帯」である。
征服者たちが呼吸を整え、休息を取り、次なる階層へ進む前に英気を養う場所だ。
この層では、殺人、暴行、性的暴力、略奪といったあらゆる犯罪行為が厳しく禁じられており、それらを犯した者には塔の守護者による即時の制裁が下される。
このため、多くの征服者は冒険を止め、第1層に定住することを選ぶという。
その風景は、まるで中世ヨーロッパのようだった。
石造りの建物が立ち並び、布製の屋台が連なる通り。
騎士風の装いをした者、奇妙な魔道具を背負った者、ノヴァの気配を纏う魔法使い。
そして、焼き立てのパンの香ばしさが鼻孔をくすぐる。
ナエヴァは言葉にならない想いに胸を締め付けられながら、その情景を見つめていた。
「……こんな“安らぎ”を、私はどれほど見ていなかったのだろう……」
心の奥で、声がぽつりとつぶやく。
その瞬間──
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
長い時を凍りついたように過ごした彼女の心が、わずかに溶け始めていた。
その頬に差した微かな紅が、今の彼女が「生きている」ことを静かに物語っていた。
気づかぬうちに、彼女は袖でそっと涙を拭った。
「先輩、今年の新人、なかなか面白いの多いですね?
わざわざ第1層まで降りてきた甲斐がありましたよ」
「確かにな。
イレギュラーに、名門家の子息もいたな……。
パッセンジャーの段階でスカウトされた“スーパールーキー”まで。
これは、ひと波乱ありそうだ」
──?
ふとした会話が、ナエヴァを現実に引き戻した。
誰かが、彼女たちを見ていた。
視線の主を探して周囲を見渡すと、すぐ近くに一組の男女が立っていた。
若い男と、その隣にいる「先輩」と呼ばれた女。
彼らの背後には、同じように何かを見極めるような眼差しを向ける者たちが何人も立っていた。
それだけではない。
ナエヴァは気づいた。
自分は「一人ではない」のだということに。
彼女の足元には、幾何学模様が描かれた光のサークルが浮かび、
そこには彼女以外にも数人の男女が立っていた。
そのすべての者から感じられるノヴァの色──
それは、「赤」。
ナエヴァはすぐに理解した。
彼らもまた、チュートリアルを終えたばかりの「初心者征服者」なのだと。
彼女の眼は、特別だった。
ノヴァの色を視ることができる眼──
それは、彼女が「支配者」として存在していた頃に備わったものだった。
「……ふむ。全員、ノヴァは“赤”……なるほど、彼らもまた新参か。
ということは──」
ナエヴァは再び視線を移した。
彼女たちを見つめる無数の視線。その発する空気は、興味と期待と、わずかな獰猛さに満ちていた。
「……あれは、ギルドのスカウトたちね」
【ギルド】
ギルドとは──
共通の目的を持つ〈征服者(コンカラー)〉たちによって形成された組織、あるいは連盟のようなものだ。
ギルドに所属すれば、仲間とのつながりと支援を得られ、塔を登る旅において大きな利点となる。初心者にとっては、保護や資金援助などを受けることができるため、加入することで生存率も格段に上がるのだ。
さらに、同じギルドに所属する上級〈征服者〉がサポートしてくれる場合もあり、塔の攻略が格段に容易になるという。
──だが、その見返りに、自由はある程度奪われることになる。
もちろん、束縛といっても悪い意味ではない。
ただ、それは「ギルドの繁栄のために、自らの命を捧げる覚悟」が求められるということだ。
報酬の分配、ギルド戦への参加義務、ギルドの名誉を守る責任、能力成長の方向性の制限など──加入すれば避けられないルールが存在する。
その制約は煩わしく感じる者も多いが、それでもギルドへの加入希望者は後を絶たない。
なぜなら、得られる利益の方が圧倒的に大きいからだ。
とくに──
〈五大ギルド〉と〈七大名家〉に関しては、もはや塔の権力そのものと言っても過言ではない。
事実、数多くの〈ランカー〉たちがそこから輩出されている。
ただし、〈七大名家〉とは異なり、ギルドへの加入は個人の自由意志で決まる。
もちろん、ギルド側の承認があっての話だが──
そのため、多くの大手ギルドでは「入団試験」と呼ばれる制度が設けられている。
だが、別の手段も存在する。
──〈リクルート〉。
つまりは、試験を経ずにギルドへ加入する方法だ。
有望な〈征服者〉に対して、各ギルドのリクルーターたちが契約を持ちかける。
手間もなく、最速での加入が可能となる。
というのも──
階層が上がるほど、未所属かつ優秀な〈征服者〉を見つけるのは困難になっていく。
ゆえに、リクルーターたちは〈チュートリアル〉終了直後、最初の階層に集まってくるのだ。
──誰よりも早く、有望な新人を手中に収めるために。
その結果、〈ノヴァ〉の高い者たちが彼らの周囲に群がるというわけだ。
「くそっ……全部、オフィーリア・カリオペとイリアン・ヴァヴァーのせいだ! あいつらのせいで、リクルーターの数が通常の五倍近くになってるし……どうせ全員、あの二人しか見てねぇだろ!」
そう叫んだのは、ナエヴァの隣にいた一人の若者だった。
その嘆きは、嫉妬と焦燥の入り混じった、何とも痛々しい叫びだった。
==============
実名表記:
- Naeva Winter
- Ophelia Calliope
- Irian Vaver
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます