最終章 ゆらぎ

第1話

 規則的な電子音が聞こえる。まぶた越しには、白い光を感じた。


 誰かが、さらさらと私の髪を撫でていた。しっとりとした優しい細い手だ。


 いつか、ツルギもそうして私の髪を撫でていたっけ。あのとき彼は、眠る私を見てきっとゆらぎを思い出していたのだろう。眠っている間だけならあるいは、私は完璧にゆらぎを演じられていたのかもしれない。後にも先にも、ツルギが私に向かってあんなに切ない声で「ゆらぎ」と呼んだのはあのときだけだった。


 複数人が私の頭上で話をしていた。音としては認識できるのに、言葉はよくわからない。会話は数分もせずに終わって、人の気配は徐々に遠ざかっていた。ひとりは、私の近くにとどまっているようだ。


 先ほどとは別の手が、私の髪を撫でてくれる。先ほどとは違い、骨ばった長い指だった。なんだか、落ち着かない気分になる。


「あさぎ、もう昼になるのにまだ寝ているのか? そんな調子では次の小テストも俺の勝ちだな。クレープの負債が溜まる一方だぞ」


 どこか冗談めかした、悪戯っぽい声だった。この声を、私はよく知っている。横になっているだけなのに、とくりと心臓が揺れ動くような気がした。


「確か三つは奢ってもらわなければならない計算だから……何にしようかな。フルーツが全部乗った一番高いやつを三つでもいいな」


 冗談じゃない。私のお小遣いがなくなってしまう。


「三つぶんを合わせて高級ケーキも悪くないな」


 彼が選ぶケーキなんて、クレープ三つぶんを超えるに決まっている。絶対に却下だ。


「……でもやめた。わざわざ出かける回数を減らすことになるもんな」


 そんな言い方をすると、まるで私と何回も出かけたいみたいだ。そんな口実がなくたって、私でよければいくらでも付き合うのに。


「あさぎ」


 髪を撫でていた手が、頬に移る。掠めるように指先でくすぐられて、まつ毛がぴくりと動いた。


「……クレープでも、ケーキでも、いくらでも奢ってやるから、そろそろ起きてくれないか」


 彼とは思えないほどに、弱々しい声だった。懇願するような、自分の手からすり抜けていくものに縋るような、そんな切実な声だ。とてもじゃないが無視できない。


 鉛を乗せられたように重たい瞼を、無理やりこじ開ける。眩しいほどの白い光が飛び込んできて、視界がちかちかした。


 それでもその光の中に、確かに影を感じる。それは徐々に輪郭を得て、すぐに私の見知った幼馴染の姿になった。


「……あさぎ?」


 はっとしたように目を見開く彼に向かって、酸素マスクの下でにいっと唇を歪める。


「言ったね。約束だよ、景」


 景の顔が、みるみる曇っていく。いつも通りの、どこか不機嫌そうにすら見える彼の表情だ。


「お前……ずいぶん都合がいいときに起きるんだな」


「もっと眠っていたほうがよかった?」


 掠れる声で笑ってみせると、景は怪我人に向けるとは思えない冷え切った眼差しで私を睨んだ。


「冗談でもそんなこと言うな、馬鹿」


 睨んでいるのに、見ようによっては潤んだような黒い瞳が、なんだか愛おしかった。思わず目を細めて、ふっと息をつく。


「そうだね……心配かけたね」


 くしゃり、と景は泣き出しそうな顔で笑った。


「……手に触れてもいいか?」


 あの花火の日の夜のことを、気にしてくれているのだろう。さっきは髪にも頬にも散々触っていたくせに、と思いながらも、点滴の管がつながった右腕をそっと上げて、彼のほうへ差し出した。


「どうぞ」


 景は私の手を両手で受け止めると、そのまま縋るように自らの額に寄せた。なんだか大袈裟な仕草だ。


「あさぎ……ありがとう、帰ってきてくれて」


「うん、ただいま、景」


 これは、目覚めただけではなく、君のもとへ帰る決意を込めた「ただいま」なのだと、気づいてくれただろうか。


 指先で、そっと彼の前髪を撫でる。彼は静かに目を閉じて、おとなしく撫でられていた。こんな可愛い一面もあったのだ。


 かつてないほど穏やかな気持ちを味わいながらも、心のどこかで寂しさがひっかかっている。


 私を見守ってくれると誓ったツルギの姿はもう、病室のどこを探してもありはしなかった。


 ◇

 

 廃教会で階段から落ちた私は、雪森さんの速やかな通報によって病院に搬送されたらしい。検査中は意識を保っており、入院してからも何度か目を開け、薬や水を飲んだと言うが、ぼんやりとしていて会話が通じる状態ではなかったそうだ。はっきり覚醒したのは、景と会話を交わした昼下がり――事故から三日後のことだった。


 病院に運ばれてからの記憶こそないが、それ以外に目立った後遺症はなかったのが幸いだ。体もあちこちぶつけていたが、どれも打撲で済んでいる。それもこれも、ツルギが庇ってくれたからだった。


 ツルギは、修理のために母の手に渡ったときには機能を停止していたらしい。私を庇って、彼は家庭用アンドロイドとしての役目を終えたのだ。


 彼にとっては、ひょっとすると望ましい結末だったのかもしれないと思う反面、ゆらぎを失ったときによく似た虚しさを味わっていた。これから私が死ぬまでずっと、私たちは同じ温度の寂しさを抱えた家族として、生きていくはずだったのに。


 私が退院する前日になって、雪森さんが見舞いにやってきた。一連の謝罪をしたいと、景を通して連絡してきたのだ。


 景は無理に会う必要はないと言ったが、会うべきだと思った。ここで彼女を突き放してしまえば、今度は彼女を失うことになるかもしれない。それくらいに、あの日の雪森さんは危うかった。


「あさぎさん……ごめんなさい、私……」


 景から私の好みを聞いたのだろう。人気珈琲店のドリップコーヒーが詰まった箱とマカロンの小箱を持って、雪森さんはやってきた。いつになくしゅんと肩を落とした姿は、モデルとは思えないほど小さくなっている。


「わざとじゃ、なかったの。あのとき、あなたがゆらぎに見えて……もっともっと、ゆらぎみたいな顔を見たくて……それなのにあなたはもう前を向いているのがつらくてたまらなくて、思わず突き放してしまったの……階段から落とそうなんて、夢にも思ってなかった」


 ぼろぼろと泣きじゃくりながら、雪森さんは謝罪した。あれだけ自信満々に振る舞っていた彼女とは思えないほどの消沈ぶりだ。


「わかってるよ。雪森さんが悪いんじゃないよ。たまたま、私がバランスを取れなかっただけなの」


 いつも通りの革靴であれば、なんの困難もなく踏みとどまれただろう。すこし踵の高いサンダルを履いていたのが悪かったのだ。


「でも……でも、私のせいで、ゆらぎとあなたのアンドロイドが……」


 ツルギの顛末まで、彼女は聞き及んでいたようだ。それに関しては、こちらも返す言葉に迷ってしまう。


 もちろん雪森さんのせいだとは思っていないけれど、自分の怪我のように平然とした返事を返すのは難しかった。彼は間違いなく、私にとってかけがえのない存在だったのだから。


「ツルギはゆらぎのもとへ行くことを望んでいた。……これでよかったのかもって、思うしかないよ」


 雪森さんへの返事の体をした、自分へ言い聞かせるような言葉だった。


 その後雪森さんとは再会の約束をして別れ、面会は終了した。彼女とは友人のような関係になれる予感がしていたが、彼女との面会で気力を使い果たしたような気になって、その日はすぐに横になってしまった。


「そのキーホルダー、まだ他の色もあったのか」


 退院に際して、景のご両親が出してくれた車の中で、ぽつりと景は尋ねてきた。どうやら、私が握っていた黄色と緑のクローバー型のキーホルダーに目を留めたらしい。


「うん……本当は、浅葱色はゆらぎのために買ったの。私のは、この黄色」


 カバンにぶら下げている浅葱色のキーホルダーは外して、ゆらぎのお墓に備えるつもりだ。私がもう二度と、ゆらぎを演じないというけじめでもあった。


「それじゃあ、その緑は?」


「これは……」


 なんてことないふりをして告げようとした言葉が、詰まる。たっぷり数十秒の間を置いて、ようやく続きを口にできた。


「これは……ツルギにあげるつもりだったんだよ」


 景には、私とツルギのすべての事情を話してある。ゆらぎが心を開発したことにはずいぶん驚いていたが、ひとつも否定せずに私の話を最後まで聞いてくれた。


「彼のことは……残念だった。その……今は平気か?」


 平気なわけはないと、景もわかっているような聞き方だった。私としても彼の前では感情を偽る気にもなれず、窓の外を眺めながらぽつぽつと言葉を返す。


「自分から手放せないくらいには、そばにいて欲しかったひとだからね。……ちょっと、きついな」


 けれども、最愛を失っても、片割れを失っても生きていかなければならないとツルギに豪語した以上、前を向かなければならないことはわかっていた。


「もうすぐ夏休みだな」


 景は、この話題を長引かせないことを選んだらしい。憂いはもちろん晴れないが、その機転に救われるような心地がした。


「せっかくだし、どこかに行くか? 柚原たちを誘ってキャンプなんかもよさそうだな」


「花火大会がいいな」


 景の顔を覗き込んで、にいっと笑いかける。


「もちろん、ふたりきりで。……いつかの誘いは、まだ有効だよね?」


 目が合うなり、たちまち彼の耳の端が赤くなるのがわかった。雨の中であんなキスをしてきたくせに、彼は案外初心だ。


「そ……れは、もちろん」


「ああ、でも浴衣は買い直さないとかな……。今度の週末にでも、浴衣、一緒に選びに行ってくれる?」


「行く……行くからあんまりこっち見るな」


 景はとうとうふい、と視線をそらしてしまった。こんな反応ばかりされると、揶揄いたくなってしまって困る。


 思わずくすくすと笑いながら、元の体勢に戻る。


 ……浴衣は、どこかで着付けを予約しないとね。


 以前はツルギに着付けてもらったが、それはもう叶わない。母も忙しいから頼れないだろう。今日だって、私が病室を出るのと同じタイミングで職場に戻らなければならなかったくらいに業務に追われているのだから。


 ……今度、ご飯でも作りに行ってあげよう。


 ツルギのおかげでサラダくらいは作れるようになったのだ。これをきっかけに、手料理の幅を広げていけたらいい。


 窓の外を見やれば、自宅近くの住宅街が見えてきた。まもなく到着だ。


 自宅マンションの前に、ぴたりと車が停車する。自動運転機能付きだから安全な上に到着地まで完璧だ。


「荷物、上まで持ってく」


 景は私が手に取るより先に、入院物品が入ったボストンバッグを肩にかけた。あからさまに甘やかされているのはなんだかくすぐったい。


「……ありがと」


 あまり顔色が変わらない体質でよかった。滅多なことでは照れていることを悟られることはないだろう。


 高校と同じようにエントランスでAIが私が入居者であることを照合してくれる。景を客人として登録して、エレベーターに乗り込んだ。


 エレベーターを降りて、部屋の扉を開けても、もう出迎えてくれる人はいないのだ。


 その事実を、まざまざと思い知らされたような気がして、またすこし気分が沈んだ。しばらくはきっとこの繰り返しだろう。


 エレベーターを降り、慣れ親しんだ廊下を抜けて自宅の扉を開ける。自分の家の匂いに、ほんの少しだけ油絵の香りが溶け込んでいて、わけもなく頬が緩んだ。


「景、上がってよ。お茶くらい飲んでいって」


 扉を大きく開けて景を招き入れる。景は鞄を抱えたまま不敵に笑って見せた。


「あさぎの淹れるお茶なんて不安しかないが……じゃあ、お邪魔しようかな」


「一言余計だよ」


 幼馴染から一歩進んだ関係になっても、この応酬は変わらないらしい。それが、心地よくもあった。


 カーテンを開けたままだったようで、リビングには夕焼けが差し込んでいた。今日は天気が良かったから、燃えるような赤さだ。


 もう、この美しい西陽の中で私を出迎えてくれるあのひとはいないのだ。


 堪えていたつもりだったのに、つうっと一粒涙が伝うのがわかった。慌ててそれを拭いながら、誤魔化すように笑う。


「眩しいね……目がちかちかしちゃった」


「それは大変だ。あまり擦らないほうがいいよ。よく見せて、あさぎ」


 柔らかく済んだ青年の声に、はっとする。声がした場所を探すより早く、頬に滑らかな指が触れた。

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