第3話

「ありがとう、あさぎさん――」


「――でも、今日とは言っていない」


 手に持ったナイフを鞘に納め、鞄にしまう。父とゆらぎの形見でもある品だから、粗末には扱えない。


「何を言って――」


 動揺をあらわにする彼の胸ぐらを、思わず掴む。咄嗟のことでバランスを保てなかったのか、そのまま彼を押し倒すようなかたちになった。


「ゆらぎの妹として、あなたをこんなところで終わらせられない。ゆらぎを守れなかったことを悔やんでいるのなら……ゆらぎの代わりに、私が幸せになる姿を見守ってよ。そうしたら、私が終わる日に、あなたの心も壊してあげる」


 ツルギは、目を見開いて私を見上げていた。私よりずいぶん大人びた振る舞いばかりする相手だと思っていたが、こうしてみると幼い子どものようだ。


「私たちは、一緒にゆらぎのところへいくの。ゆらぎが見られなかったもの、ゆらぎが知りたかったこと、それらを全部手土産にしてね。あなたは私が見落としていた幸せも含めて、一から十までゆらぎに伝えるの。それが、今日からのあなたの役目だよ」


 ツルギの顔が、くしゃりと歪む。憎悪すらのぞかせるような眼差しで、彼は私を睨んでいた。


「それまで、ゆらぎを失った寂しさを抱えて生きていけと……?」


「そうだよ、人間はそういうものだよ。最愛を失っても、半身を失っても、命が続く限り生きていかなければならないの。ひどく残酷なことだけれどね」


 でもそれは、寂しさとともに生きていく命に終わりがあると確信しているからこそ耐えられることでもあると思う。


 けれどツルギには、それがない。だからこれは、私が彼に与えられる唯一の希望だ。


「私が終わる日に、あなたがもし望むなら、一緒に連れて行ってあげる。それが、私からの贈り物だよ」


 ツルギは葛藤するようにしばらく私を見つめた後、再び泣き出しそうな顔で微笑んだ。


「ひどいことを言うひとだ。機械のぼくに、人間の真似事をして生きろと?」


「そうだよ、心を持っているのなら、私はあなたを人間として扱うよ」


 そっと手を引いて、床に背をつけた彼の体を起こす。彼の膝の上に座って向かい合うような形で、そっと彼の頭を撫でた。


「私と一緒に、生きていこう。同じ温度の寂しさを抱えた、家族として。……そうだな、ゆらぎと永遠を誓ったのなら、人間風に言えばツルギは私のお義兄さんだね」


 相手を兄と呼ぶのなら頭を撫でる行動はちぐはぐな気もするが、彼に必要なのはこういう慈愛のような気がしていた。彼はきっとまだ、ゆらぎからもらった恋人としての愛情しか知らないのだろうから。


 ツルギはおとなしく撫でられながら、やっぱり泣き出しそうな表情のまま、どこか冗談めかして笑った。


「きみがぼくの義妹か……ゆらぎが聞いたら嫉妬しそうだ」


 くすりと笑いながら、彼はそっと私を抱きしめた。まるで幼い子どもが眠る前にぬいぐるみにするような、そんな抱擁だった。


「わかった。もうすこし、頑張ってみるよ。きみが、導いてくれるのなら」


「ひとりにはしないよ。言ったでしょう、ツルギの手の届かないところへはいかないって」


 私もそっとツルギを抱きしめ返して、彼を見上げた。憂いを振りきれてはいない瞳だったが、先ほどのぞっとするような翳りはなくなっている。


「現実逃避は、これでおしまいだね。……今日からは、ツルギとあさぎとして仲良くしよう」


 名残惜しさがないと言えば嘘になるが、お互いにもう、ゆらぎの幻影に縋って生きるつもりはないのはわかりきっていた。


「ありがとう、あさぎ」


 敬称をつけるのをやめた呼び方が、彼が前を向いた証のような気がして嬉しかった。思わず頬を緩ませながら、彼の手を引いて立ち上がる。


 ……ゆらぎ、私はあなたが愛したこの人を導くよ。


 再会は、もう少しだけ待っていてほしい。ゆらぎだって、今この瞬間に私にツルギの心を壊されることは望んでいないはずだ。彼女は愛するひとには幸せになってほしいと正しく願える、清廉な人だったのだから。


「あさぎ」


 ツルギはふと、私の手を引いた。どうやら、祭壇奥の崩れた窓ガラスのほうへ導いているようだった。あたりには、割れたガラス片が散らばっている。


「ああ、サンダルだから危ないね」


 ツルギは私の足もとを確認するなり、ひょい、と私を抱き上げた。両腕で膝を抱えられるように抱き上げられ、すぐに彼の首の後ろに手を回してバランスを保つ。


「ここに何かあるの?」


「うん、きみに見せたかったものだ」


 そう言って、彼は壁の隅に残されたまだかろうじて割れていないガラスの前に立った。


 それは薄緑のステンドグラスだった。綺麗だが、いったいなぜ私に見せようと思ったのだろう。


「そのガラスから、空をのぞいてみて」


 ツルギに言われるがまま、そっとガラス越しに空を眺めてみる。眩いほどの夏の光が、色ガラスでわずかにくすんで、直視できる程度になっていた。


「あ……」


 それは、浅葱色の空だった。いつかゆらぎが描いていたけれど、結局場所を教えてくれなかった空の絵だ。


 ……あれは、ツルギと永遠を誓った後に描いた絵だったんだ。


「ゆらぎはこの空を見つけて喜んでいた。きみの色だって。……妬けてしまうくらいに、彼女はきみが好きだったよ。これからは、ゆらぎとの思い出の品をぜんぶ、きみにも見せてあげたい」


 ひとつ、心残りが減ったような気がして、気持ちが軽くなる。ゆらぎの絵を見返したくてたまらなくなった。


「ありがとう。崩れてしまう前に、見られてよかった」


 そっとガラスに指を這わせる。この状態では、次来たときに残っているかは怪しいだろう。


 ここでゆらぎがはしゃぐ姿を思い浮かべるだけで、自然と頬が緩んだ。


 そうだ、ゆらぎが私たちに残して行ったものは寂しさだけではないはずだ。こうして思い出すだけで思わず微笑んでしまうくらいの愛しさを、彼女は刻みつけてくれた。


「帰ろうか」


 ツルギも同じような表情をしてひとしきりガラスを眺めた後、穏やかに切り出した。


「そうだね」


 ツルギは私を抱き上げたまま、ガラスが散乱する場所を歩いてくれた。ぱりぱりと、硬いものが割れる音がする。


「今まではゆらぎの好きなものばかり作っていたから、今夜はきみの好物を作りたいな。あさぎは何が好きなの?」


「トマトを使った料理以外は、だいたい何でも食べるんだけど、そうだなあ……」


 今までの様子を見ている限りツルギはどんな料理でも作れるようだから、せっかくなら自分ではまず作れないようなものをリクエストしたいところだ。


 彼に抱き上げられた状態で思い悩んでいると、ふと、入り口の扉が軋んだ音を立てて開くのがわかった。私たち以外の客人がやってきたのだ。


 入ってきたのは、小柄な少女のようだった。柔らかな茶色の髪をして、見慣れた制服を纏っている。ゆらぎの高校の制服だ。


 ゆらぎと同じ制服を纏った小柄な少女と聞いて、真っ先に思い浮かぶのはひとりしかいない。心がざわりと波打つのを感じ、思わずぎゅう、とツルギの服を掴んだ。


 向こうも何かに勘付いたのか、迷うことなく一直線に階段を登ってくる。階段の中程を過ぎたあたりには顔が見えて、相手が誰なのか確信を得た。


「ツルギ、おろしてくれる?」


 少女が階段を登り終えると同時に、私も床に足をつけた。彼女は明らかな敵意を滲ませて、わたしたちを眺めている。


 ……雪森ひな。


 ゆらぎの親友で、景の従妹で、高校で私とツルギの関係をわざわざクラスメイトに話した相手だ。ゆらぎのスケッチブックに描かれていたくらいなのだから、ゆらぎにとって大切な人であることは間違いないのだろうが、心穏やかに対峙できる相手ではなかった。


「よりにもよって今日この場所に来るなんて……あなたはどれだけ実の姉を愚弄するつもりなの? 橘あさぎ」


 雪森さんは、今にもつかみかかりそうな敵意を滲ませて私を睨みつけた。思わず萎縮してしまうほどの鋭い眼差しだ。


 今日、この日に何か特別な意味があったのだろうか。ゆらぎにまつわる記憶を辿るも、それらしいものは見当たらない。


「黙っててごめん。実はゆらぎとここにきたのが、ちょうど去年のこの日だったんだ」


 ツルギが、申し訳なさそうに教えてくれる。ゆらぎと永遠を誓ったのと同じ日に、彼は心を手放したかったのかもしれない。


「そうだったんだ……」


 雪森さんは、きっとゆらぎからツルギと恋人になった日のことを聞いていたのだろう。それでゆらぎを偲ぶ意味も込めて、ゆらぎにとって思い入れのある場所を訪ねたのだ。


「雪森さん、この通りあさぎは知らなかったんだ。あさぎを責めないでほしい」


 ツルギはそっと私の肩を引き寄せて庇ってくれた。だが、その行動が彼女の怒りに余計に火をつけたようだ。


「あなたも、なんなの。ゆらぎが死んだ途端に妹に乗り換えるなんて。同じ顔なら誰でもいいわけ?」


「誤解だよ。私とツルギはそんな関係じゃない。今日だって、ゆらぎを偲びにきたんだよ。雪森さん、あなたと同じで」


 ツルギの手から離れて、雪森さんに向かいあう。だが、彼女は私の言葉などまるで信じていないのか、唇を歪めて嘲笑に近い笑みを浮かべた。


「清廉そうな顔をして、あなたもやるわね。そう言って、景のことも誑かしたんでしょう」


「景とはちゃんと話をするよ。……それこそ、あなたに踏み入ってもらいたい領域じゃない」


 いくら景の従妹でも、私と景の関係を邪推して欲しくなかった。


 思わず睨むように雪森さんを見返せば、彼女ははっとしたように目を見開いた。


「すごい……怒った顔はゆらぎにそっくりなんだ……」


 そう言ってからくしゃりと、雪森さんは顔を歪ませた。憎悪にも似たやり場のない怒りと底なしに悲しみが入り混じった表情だ。


「ねえ……他にはどんな表情があるの? ゆらぎとそっくりな顔は、あといくつある?」


 ふらり、と雪森さんは私に近づき、無造作に私の両肩を掴んだ。爪が肌に食い込むほどの強い力で。


「っ……雪森さん?」


「ゆらぎの彼氏さんもずるいなあ……こういう顔があるから、妹さんのこと捕まえたんだ。いいな、独占しないでよ。私にも見せて? 全部見せてよ、ゆらぎとそっくりな顔」


 ゆらぎに対する友情を超えた執着を感じて、ぞわりとする。


 ゆらぎは、一体どれだけの人間の心を奪って生きていたのだろう。


「やめてくれ、あさぎが怖がってる」


 ツルギが間に入ろうとしてくれたが、雪森さんは手の力を緩めなかった。むしろ一層肌に爪を食い込ませて私との距離を詰める。


「ねえ、ゆらぎ、戻ってきてよ。ゆらぎがいないと、私は幸せな物語を書けないの。ゆらぎがいないと、みんな悲しい、救われない物語しか書けないの。ねえ、約束したでしょ。ふたりで世界一幸せな結末の絵本を作るって。ねえ……約束したのに……」


「雪森さん……」


 この人も、私やツルギと同じくらいの寂しさと虚しさを抱えているのだ。それも、おそらくは今日までひとりきりで耐えてきたのだろう。


 あの日、彼女と美術館で初めて会った日に、私がきちんとゆらぎの妹として対応して、雪森さんに誠実な対応をしていれば、何か変わっていただろうか。ゆらぎを失った悲しみをわかちあう仲間として彼女の話を聞いて、お互いに心をわずかにでも軽くすることができただろうか。


 私がゆらぎのふりなんてしていたせいで、彼女の悲しみはどんどん膨らんでいったのだ。分かち合う機会は、何度もあったのに。


「雪森さん……今まで、仲間外れにしてごめん。話をしよう? ゆらぎのこと、もっと聞かせてよ。私とツルギと三人で、ゆらぎを偲ぼうよ」


「やだ! やだやだやだ! ゆらぎが死んだなんて嘘だもん……! 勝手に思い出の中のひとにしないでよ……!」


 子どものような駄々をこねて、彼女は叫んだ。大きな瞳には、涙が滲んでいる。

 ……ああ、同じだ。


 彼女は現実逃避に溺れていた数日前までの私と同じなのだ。彼女の錯乱を、とても他人事とは思えなかった。


 それはツルギも同じなのだろう。かける言葉は見つからないながらも、痛ましいものを見るように雪森さんを見守っていた。


「ねえ、そんな目で見ないでよ! ゆらぎみたいに、あのひまわりみたいな明るさで笑ってみせて? 私をひなって呼んでよ!」


 現実逃避に溺れていた私であれば、彼女の言葉にも応じただろうか。でも今の私はもうわかってしまった。私がゆらぎを演じることは、自分や相手の悲しみを拗らせて、現実を受け入れるべき瞬間を先延ばしにしているだけに過ぎないのだと。


 ここで私がゆらぎのように笑いかけることは、目の前の彼女の一時的な寂しさを救うことはできても、きっと本当の意味で寄り添うことにはならない。


「ごめん、雪森さん……それはできないよ」


 真っ直ぐに彼女を見つめて、できるだけ静かな声で告げた。ゆらぎとは、きっと似ても似つかない振る舞いだろう。雪森さんからしてみれば、拒絶されたように感じるかもしれない。


「ずるいよ……その男の前ではゆらぎのふりをしてあげたくせに、私の前ではしてくれないの?」


 ぽろぽろと涙を流しながら、彼女は私をすがるように見つめていた。対して仲良くない相手だとは言え、こんなふうに泣かれるとこちらもつらい。


「……私がゆらぎのふりをすることは、誰のためにもならないって気づいたの。もちろん、ここにいるツルギのためにも。……だから、ごめん」


 すっと、雪森さんの纏う雰囲気が冷え切ったような気がした。いつか景を突き放したときに見た、あの深い翳りにも似ている。


「そっか……あなたはもう、先に行っちゃったんだね。ゆらぎの彼氏さんと一緒に。私だけが、取り残されちゃったんだ」


 何かを悟ったような彼女の瞳は、暗く沈み切っていた。まるで月のない夜の海を見ているようだ。


「置いていかないよ。……私たちと一緒に話をしよう。ひとりには、しないから」


 肩を掴まれた状態のまま、そっと彼女に手を差し出す。その手を見て、雪森さんの瞳がわずかに揺らぐのがわかった。


 私の話に少しは心を開いてくれたのか、と思ったのも束の間、彼女は思い切り私の手を振り払った。


「いいよ、いらない。ゆらぎのいない未来に進もうとするあなたたちは、私には必要ない」


 突き放されるように手を振り払われたせいで、バランスを崩してしまった。足で踏ん張ろうとするも、慣れないサンダルのせいでうまくいかない。


 ぐらりと体が傾いていった先は、あの長く白い階段だった。


 ……え?


 浅葱色の空が遠ざかっていく。訳もわからぬまま、次の瞬間には殴られたような衝撃に襲われていた。


 視界が、ぐらぐらと揺らめく。あちこちを酷く打ち付けているのがわかった。息もつけないままに、衝撃に堪えることしかできない。


「っ……う」


 体が投げ出されるような感覚を最後に、ようやく衝撃が終わった。あの長い階段を、いちばん下まで転がり落ちたようだ。視界がぐらぐらとゆらめいているが、どうにか意識は保っている。


 手探りで床に手をついて、ゆっくりと状態を起こす。その際に、ふいに何か温かなものに触れた。


「え……?」


 そこには、細かな部品を撒き散らして横たわるツルギの姿があった。力無く体を床に投げ出しているというのに、その右手はしっかりと私の腕を掴んでいる。


 すぐに悟った。彼は、私を庇って一緒に転がり落ちたのだ。


「ツルギ!」


 私が意識を保っていられたのは、彼のおかげなのだろう。私の代わりに衝撃を受け続けた彼の体は、あちこちが破損していた。


「ツルギ……!」


 ああ、これが人の体だったらせめて、応急処置ができたのに。私は機械の体のことなどまるでわからない。震える手で思わず、あたりに散らばった部品をかき集めた。


「あさぎ……」


 ツルギは横たわったまま、力なく私の名前を呼んだ。思わず、彼の顔を覗き込む。


「ツルギ……! なんて無茶を……!」


 ツルギの手が、震えながら私の頬に伸びる。そうして、慈しむように撫でられた。


「よかった。今度は……間にあった」


 心底安堵したようにツルギは微笑んで、そのまま静かに目を閉じた。エラーを知らせるような聞き慣れない音が、ツルギの体から響いている。


「ツルギ……? ツルギ!」


 思わず彼の体を揺さぶるも、もう、彼は答えてくれなかった。


 ぽたり、と彼の頬に涙が落ちる。まるで彼が泣いているように見えた。


「ツルギ……! ツルギ!!」


 広い教会の中に、私の絶叫だけがこだましていた。神様とやらがいるのなら、あまりに残酷だ。前を向いて手を取り合って生きていこうとした相手を、こんなにもあっさり奪ってしまうなんて。


「ツルギ……置いていかないで」


 彼の体に縋って、泣きじゃくる。ツルギは白い光の中で横たわったまま、やっぱり答えてはくれなかった。

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