第2話

 そこには、もう二度と会えないと思っていた彼の姿があった。


「え……?」


「退院おめでとう、あさぎ。今日は退院祝いに何を作ろうか」


 まるでここにいるのが当然とでも言うように、彼は柔らかく微笑んだ。人好きのする、あの美しい笑顔だ。


「ツルギ……? どう、して……?」


 機能停止して壊れてしまったのだと、母からも景からも聞かされていたのに。


 あるいは、ツルギによく似た新しいアンドロイドなのだろうか。


「きみのお母さんが、治してくれたんだよ。ほら」


 ツルギは、一枚のメッセージカードを差し出した。またいつもの母の走り書きだ。


『修理できる確証がなかったからあのときは壊れたと言ったけれど、なんとか直せました。ひとつ規格外の部品が紛れ込んでいたけれど――これは、ゆらぎの発明なのかしらね。わざと脆い部分を作って、百年以内には自然停止するようにしてあるみたい。きっとこれはゆらぎとあなたの秘密なのよね。大切にするのよ』


 母は、おそらくツルギに埋め込まれた規格外の部品が何を意味するかくらい、悟っているのだろう。世に発表すればAIの常識をまた大きく変える代物だとわかっていながら、これを秘密にしようとしたゆらぎの意思を尊重しているのだ。新しい種を作る責任は負えない、と決めたゆらぎの判断にひょっとすると賛同しているのかもしれない。


 何より、きっとゆらぎはツルギだけを「特別」にしたかったのだ。


「そっか……百年で」


 やっぱり、ゆらぎはすごい。心を得たツルギが、永遠を恐れて苦しむことを見越して、期限を作ったのだ。私が手を下すまでもなかった。


「きみの誓いは嬉しかったけれど……どうやら、酷なことを任せずに済みそうだね。本当に、よかった」


 ツルギは心底安心したように、頬を緩めた。彼は私の体だけでなく心までも守ろうとしてくれているらしい。すでに、立派な私のお兄さんだ。


「ツルギ……おかえり!」


 飛びつくようにして、ツルギの肩に手をまわす。すぐに、彼も私の背に手を回して受け止めてくれた。


「ただいま、あさぎ。もうどこにもいかないよ」


 ふわり、と優しく抱きしめられる。慈愛に満ちた、あのやわらかな抱擁だ。


 人の平熱と同じ彼の温もりを感じながら、私もそっと彼を抱きしめ返す。


 帰ってきてくれたのだ。私と同じ寂しさをわかちあってくれる、大切な家族が。


「……あさぎのそんな嬉しそうな顔、久しぶりに見た」


 どこか拗ねるように、横で私たちを見守っていたらしい景が零す。確かに、景の前で一応異性のなりをしたツルギと抱き合うのは、配慮に欠けていたかもしれない。


 だがツルギは私の肩を抱いたまま、どこか得意げに告げた。


「そんなふうに嫉妬するなんて大人気ないね。恋慕と親愛の違いもわからないようじゃ、聡明なあさぎの恋人には相応しくないんじゃないかな、星川景」


「言ってくれるじゃないか……家庭用アンドロイドの分際で」


 かろうじて浮かべていた景の笑みが引き攣る。他の話題であれば景を宥めようと思っただろうが、こればかりは聞き逃せなかった。


「景、ツルギはアンドロイドじゃないよ。ツルギだよ」


「そう、しかもゆらぎの伴侶である以上、あさぎの兄も同然の存在だ」


 ツルギは誇らしげに告げ、どこか意味ありげに景に微笑みかけてみせる。修理されてバージョンアップでもしたのか、なんだか表情がいっそう豊かに感じる。


「あさぎにゆらぎの面影を押し付けたと思ったら、今度は保護者面か……」


「ゆらぎのぶんも、彼女を見守ると決めたからね」


 廃教会での誓いを、彼はさっそく行動に起こそうとしてくれているらしい。それが何よりも、彼が前を向いた証のようで嬉しかった。


「ありがとう、ツルギ。改めて、これからよろしくね」


「こちらこそ、よろしく。あさぎ」


 ツルギの灰色の瞳に、柔らかな光が灯る。これからこの目に、私は目一杯の幸福を見せてあげるのだ。


「景も、不束者ですが末長くよろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げると、景も反射的にわずかに頭を下げ、それから堪えきれないとでも言うように頬を緩めた。


「そうだな、末長く、だな」


 そう言って、彼は照れたように笑った。


 やっぱり、彼が笑うと心の奥をくすぐられるような、甘い快さを覚える。これが、好きだと言うことだったらしい。


「ひとまず、お茶でも出すよ。さっきあさぎのお母さんがケーキを置いて行ったから、それも一緒に」


 ツルギはくるりと踵を返すと、キッチンへ向かった。景もボストンバックとは別に持っていた紙袋を手に取って、その後を追う。


「このマカロンも一緒に出してくれ。貰い物なんだ」


 お茶菓子を用意するだけだと言うのに、早速ツルギと景はキッチンで言い争いを再開していた。なんとなく、この先もふたりはこんな関係を続けていきそうだ。


 思わずくすくすと笑うと、不意に背後で、同じように笑う声を聞いた気がした。


 はっとして振り返るも、そこには誰もいない。


 ただ、眩いほどの夕暮れの中に、ふわりと油絵の香りが立ち昇ったような気がした。


「あさぎ、ちょっと手を貸してほしい」


「ケーキが倒れそうだ……! 早く来てくれ、あさぎ」


 騒がしいキッチンから私を呼ぶ声がする。微笑みは崩さぬまま、くるりと夕暮れに背を向けて、大切な人たちがいるほうへ足を踏み出した。


「いま行くよ」

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ゆらぎ 染井由乃 @Yoshino02

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