第2話

 食事を終え、カフェの外に出て深呼吸をする。とてもおいしかったが、思ったよりもクリームの量が多くてすこしだけ胸焼けしていた。甘いものは得意なほうだが、それでも限界はある。クレープくらいがちょうどいいらしい。


「大丈夫? こればかりは手伝えなくてなんだか申し訳なかったな」


 隣でツルギがくすりと笑う。女性店員は取り分けるためのお皿を置いていってくれたが、当然ツルギは食べていない。


「確かに、ふたりで食べたらちょうどいいくらいだったかもね」


 景とふたりだったら、むしろすこし物足りないくらいで、おやつの時間に別の店でアイスくらいは食べられたかもしれない。自然と彼とともに海辺を散歩する光景を思い描いていることがなんだか気恥ずかしくて、思わず想像を振り払うように首を横に振った。


「じゃあ、ツルギの行きたいところに行こう。案内してくれる?」


 ツルギの前に一歩躍り出て、彼を振り返る。潮風が、彼の灰色の髪をさらさらと揺らしていた。


「わかった。ついてきて」


 ツルギは、再び波打ち際を目指して歩き始めた。私も、彼の半歩後ろについていく。


 ゆらぎとは手を繋いで歩いたのだろうか。ふたりきりのときに、彼らがどんな調子で会話をするのかわからないが、きっとゆらぎははしゃいで、ツルギはそれを眩しそうに眺めているのだろう。想像するだけでも、それは幸せな恋人たちの姿だった。


 波の音に耳を澄ませながら、暖かな砂の上を歩く。陽の光を受けて銀色に輝く海も、澄み渡る空も、すこし前の私なら受け入れられなかっただろう。ゆらぎがいない世界に残されたものを、きれいだなんて思いたくなかった。


 けれど、今の私は信じられないほど穏やかな気持ちで砂浜を歩いている。悔しいが、ゆらぎのふりをした現実逃避のあの日々が、生々しく開いていた心の傷にすこしずつ蓋をしていたのだと思い知らされた。一生治らなくていい、残しておきたい傷だったのに、生きて時間を重ねている限り、心の痛みでさえも変わらないでいることはできないらしい。


 幼いころに亡くなった父を恋しくは思っても、亡くなった翌日のように泣きながら起きることがもうなくなったように、ゆらぎのこともいつか、少しずつ少しずつ意識の隅に追いやられていって、毎日のように思い出すことはなくなるのかもしれない。生きている以上仕方がないと思っていても、それはやっぱり、寂しくてならなかった。


 ツルギは、どうなのだろう。彼女が与えた心は、私と同じように、時を重ねるごとにすこしずつ、悲しみに蓋をしてなじませてくれるのだろうか。あるいは夢を見ることも忘れることもない彼は、ゆらぎが失った悲しみを、まるで昨日のことのように生々しい傷のままで抱えているのだろうか。


 後者だとしたら、苦しいことだ。ゆらぎはある意味、この上なく残酷なことをしたと言えるだろう。彼に心を与えた以上、すくなくともこんなに早く彼の前からいなくなってはいけなかったのに。


 私では救えなかった。彼の後ろ姿を見ていると、もやもやとした不安が立ち込める。


 最後にして最大のこの現実逃避を終えたら、彼はどうするつもりなのだろうか。


「ここだよ」


 海辺をしばらく歩いた先で、ツルギは不意に立ち止まった。目の前には、高校の体育館ほどの大きな白い建物がある。扉や階段は銀と白で統一されていて、シンプルながらもどこか神聖な雰囲気だった。


「来て」


 ツルギに導かれるがまま、扉の先に足を踏み入れる。中は、広いホールのようになっていた。


「わあ……」


 思わず声が漏れてしまうほど、美しい光景だった。


 入り口の目の前には、広い広間が広がっていた。温もりのある木の長椅子が数列並べられており、広間の中心とその周囲に水路が張り巡らされている。おそらく海と連続しているのだろう。広いホールの奥には、真っ白な階段が続いていた。天に向かうように真っ直ぐに伸びたその先には、小さな祭壇がある。さらにその奥には壁がなく、海をそのまま臨めるようになっていた。


「すごい……ここは、教会なの?」


 この海辺にこれほど美しい教会があるなんて、知らなかった。ぐるりとあたりを見渡して、感嘆の溜息をつく。


「昔はれっきとした教会で結婚式なんかも執り行われていたらしいんだけど、今は廃教会なんだ。でも、そうは思えないくらい綺麗だよね」


 確かにそう言われてみれば、壁や床に小さなひび割れが確認できる。それでも、人の手を離れたとは思えないほど綺麗な建物だった。


「よくこんなすてきな場所を知っていたね」


「ゆらぎが、背景の資料を集めているときにたまたま見つけたんだ」


 ツルギは階段の直前まで歩みを進め、静かに続けた。


「ここで、ぼくとゆらぎは永遠を誓ったんだよ」


 白い光の中で、彼は幸せそうに呟いた。どくり、と心臓が揺れ動く。


 今朝、電車の中で見た夢でも、ゆらぎはそう言っていた。幸せな話を教えてくれているというのに、なんだか胸騒ぎがする。


 この光の先に進めば、なんだか、ツルギのことまでも失ってしまいそうで。


「一緒に来て。きみにも、見てほしいんだ」


 ツルギは光の中から私に手を差し出した。どくどくと早まる脈が、その手を取ることを躊躇わせる。


「……いいのかな、ふたりの思い出の場所に、私が踏み入っても」


「きみなら、もちろん」


 ためらう私の手を、ツルギのほうから迎えに来た。彼の手に引かれるようにして、白い階段を登る。


 怖いほどの静寂の中に、私とツルギの足音だけが響いていた。本当に、現実ではない世界に迷い込んだような心地だ。


 階段はおよそ二階分くらいあるだろう。ゆっくりと上り切った先には、枯れた花が置かれた祭壇が待っていた。祭壇の奥の壁はてっきり初めから外と連続した作りになっているのかと思ったが、間近で見ると壁の辺りにガラス片が落ちていた。どうやらガラス張りの壁が崩れてこのように開放的な作りになっているらしい。


 やはり、不思議な魅力のある場所だ。美しいだけでなく、心を強く惹きつけられる独特の空気感がある。割れたガラスや枯れた花は翳りを思わせるものなのに、不思議と神聖な雰囲気が漂っていた。


 ツルギは祭壇の前に歩み寄ると、向かい合うように私を立たせた。吹き込んだ潮風に、二人の髪が靡く。


「ここで、こうやって向かい合って、永遠を誓ったんだよ。……本当に幸せだった。ぼくはただの機械なのに、ゆらぎは僕に心をくれただけでなく、愛まで与えてくれたんだ」


 泣き出しそうな表情で、彼は語った。見ているだけで、こちらまでずきりと胸を抉られるようだ。


「あのときのゆらぎは、本当に可愛かったな……。珍しく照れて、頬を赤くして……愛おしいってこういうことなんだって、ゆらぎが教えてくれたんだ」


 涙を流していないだけで、彼は泣いているのだろうと思った。眩い白い光の中で、ツルギはぐしゃりと前髪を握りつぶすようにして顔を覆う。


「ゆらぎはぼくのすべてだった。ゆらぎが、ぼくの世界そのものだった。……それなのに、ぼくはゆらぎを守れなかったんだ」


 生々しくぶつけられる後悔と悲哀を前に、かける言葉が見つからない。


 私も同じだ。ゆらぎに教えてもらった感情がいくつもあった。ゆらぎがいなければ見られなかった景色が、たくさんあった。


 私にとってもゆらぎはすべての中心にいたけれど、ツルギの想いには敵わない部分がきっとある。彼が言った通り、ゆらぎは彼の世界そのもので、彼の心の創造主で仕えるべき主人で恋人だったのだから。


「ゆらぎがいなくなって、きみが迎えに来てくれるまでの一週間、ゆらぎが死んだあの場所で何千回も何万回も計算したよ。どうすれば、ゆらぎを生かしておけただろうって。ぼくのすべてを使えば、ゆらぎを助けられる方法があったはずだって」


 山のように積まれた花束の前で、呆然と立ち尽くしていた彼の姿が蘇る。朝も昼も夜も、雨が降っても、彼はきっとあの場を動かなかったのだろう。


「けれど、だめだった。ぼくがあの車が暴走していることに気づくタイミングが遅すぎた。そこからゆらぎと車の間にうまく飛び出すことができたところで、ゆらぎはおそらく命を落としていた。……それでも、庇うまもなくゆらぎを死なせてしまった今のぼくよりはずっとましだけれど」


 いくら高性能のAIが搭載されていると言っても、ツルギはあくまでも家庭用のアンドロイドだ。護衛用や軍事用ならまた話は違うのだろうが、機動性はおそらく人間とそう変わりない。どれだけすばやく判断ができたところで、ゆらぎを完璧に庇うことは無理だったはずだ。


「残酷だな……あの車が暴走した時点で、ゆらぎの死は確定していただなんて。こんなに一瞬で、大切なものが失われてしまうなんて」


「ツルギ……」


 かける言葉が見つからない。私だって同じ種類の痛みを感じているはずなのに、彼の嘆きはつい昨日ゆらぎを失ったばかりかのように生々しかった。


 やはり、忘却の機能がないぶん、彼の心の傷は癒されないのだ。その状態で今日まで理性的に行動していたこと自体が、奇跡だと思えた。この慟哭を押し込めて、彼はずっと静かに微笑んでいたのだ。


「そこからのぼくだって、最悪だった。初めからきみがきみだということくらいわかっていたのに、君にゆらぎのふりを押しつけるなんて……。嫌いな食べ物まで食べさせて、無理やり絵も描かせようとして……ゆらぎが誰より大切にしていたひとを、ぼくは踏み躙ったんだ。……許されることじゃない」


 最後のほうはほとんど掠れて、絞り出すような声だった。とてもじゃないが見ていられず、思わず彼が自らの顔を覆う手を引いて無理やり視線を合わせる。


「ツルギ、さっきも言ったけれど私に関して罪悪感を抱かないで。利用したのは私も同じだよ。それに……ゆらぎのふりをしていたあの日々がなければ、私はきっと立ち直れなかった」


 ひょっとすると、いつか一瞬よぎった「悪い選択肢」をとっていたかもしれない。とっくに薄れた左手首の切り傷が、ちくりと疼くような気がした。


 ツルギは、深く翳りきった瞳で私を見ていた。深淵を覗いたような心地になって、自分の意思に反して肩がびくりと跳ねる。


「どうだろう……きみには家族がいるし、星川景もいる。ぼくがいなくてもきみは、いつか立ち直れたはずだよ」


「それは……」


 否定は、できなかった。母も景も私が塞ぎ込んでいたら、絶対に放っておかなかっただろう。母は実家に私を連れ帰っただろうし、景も自分の家に呼び寄せてでも私を見守ったであろうことは想像に難くない。


「ぼくにはきみだけだったよ。ゆらぎを失ったあとの支えは、きみだけだった。きみが今日までぼくの心を生かしてくれたんだよ」


「今日まで、って……」


 ツルギはずるずるとその場に崩れ落ちると、床に膝をついてポケットから何かを取り出した。


 それは、この間私が食器棚から見つけて謝って手を切ってしまった、果物ナイフだった。幼いゆらぎの手で施された、可愛らしい彫刻があるから間違いない。


 胸騒ぎの原因は、これだったようだ。物騒なものを差し出されて、平静を保てるはずがない。心臓が、かつてないほどの速さで暴れ出していく。


「あさぎさん――」


 ゆらぎの死後、彼が私の名を呼ぶのは初めてだった。続く言葉がそれほど彼にとって重要なものなのだと思い知る。


 彼は木製の鞘を引き抜くと、自らの手のひらの上にそっと銀色のナイフを乗せた。


「――どうか、きみの手でぼくの心を終わらせてくれませんか」


 彼は震える声で、縋るように懇願した。一瞬ふたりの間を支配した沈黙の中に、遠くの波の音が溶け込んでくる。


「あなたの、心を……?」


「ゆらぎが作ったものだから、抵抗があるかもしれないけれど……きみにしか頼めないんだ。簡単だよ、この下に、星の形をした小さな機械が眠っている。これが、心の源だとゆらぎが言っていた」


 ツルギは胸を押さえながら、いつも通りを演じるかのように微笑んでみせた。


 星の形をした機械なら、私も知っている。いつか見た「何か」のレプリカは、やはりゆらぎが発明した心だったのだ。


 ゆらぎはきっと私との対話を通して、機械に心を植え付ける行為の重さに気づいたのだろう。それで公表はせず、ツルギだけに特別に与えることに決めたのだ。


 その判断は、ある意味正解だったのかもしれない。ゆらぎが心を与えたせいで、彼は今こんなに苦しんでいるのだから。


 ……でも、それだけじゃないはず。


 ゆらぎが彼に与えたのは、苦しみや寂しさだけではないはずだ。


「ツルギは、いいの? ゆらぎに感じた愛しさも、ゆらぎと一緒にいて楽しかった時間も手放そうとするなんて……そんなの、ゆらぎに対する冒涜だよ」


「そうかもしれない。でも耐えられないんだ。ゆらぎがいない寂しさを抱えて、ゆらぎを救えなかった罪悪感に絡め取られて日々を過ごすのは……。もう限界だ。死ぬことができないなら、せめて心を壊してほしい。ぼくの手では、どうしてもゆらぎの作品を壊せない」


 そんなのは私だって同じだ。だがツルギの心を壊したくないと願うのは、ゆらぎが作ったからじゃない。彼の心を壊すことは、彼を失うのと同義だ。私は、それがどうしてもいやだった。


「ひどいよ、ツルギ。今まで一緒に、寂しさをわかちあえていると思っていたのに。私を置いていくつもりなの」


 確かに私には母も景もいる。自分で気づいていないだけで支えてくれるひとはもっとたくさんいるのだろう。


 けれど私と同じ寂しさを、ゆらぎがいなくなった虚しさを、限りなく近い温度で噛み締めているのはツルギだと思っていた。お互いにとってゆらぎは、半身のような存在だったのだから。


「寂しさは、ぼくのような存在とわかちあうべきじゃない。誰の隣にいるのが正しいかくらい、きみはとっくにわかっているはずだ」


 花火の音と、雨の匂いが蘇る。減らず口ばかり叩く彼の影を、隣に感じたような気がした。


「これ以上ぼくと一緒にいても、ぼくはきみの幸福の妨げにしかならない。だから、ゆらぎがいちばん大切にしていたきみの手で、終わらせてほしいんだよ」


 これがきっと、嘘偽りのないツルギの願いなのだろう。彼はせめて心だけでもゆらぎのもとへ行きたいのだと、見えない涙を流して訴えているのだ。


 差し出されたナイフを、そっと手に取る。ツルギが、申し訳なさそうに微笑むのがわかった。


 このまま彼の願いを叶えてあげるのが、ひょっとするといちばんの優しさなのかもしれない。彼にもっとそばにいてほしいという私の思いを殺して、彼の心を壊してあげるのが、ゆらぎになれなかった私ができる最大限の慰めになるのかもしれない。


 彼と同じように床に膝をつき、そっと彼の胸に触れる。人間であればとくとくと脈打つその場所は、温かいだけで何も感じなかった。わずかに触れる振動は、彼の体内に埋め込まれた機械が動いている証拠なのだろう。


「わかった。……壊してあげる」


 ツルギは、申し訳なさそうな微笑みを深めて、長い瞬きをした。

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