第七章 永遠の誓い
第1話
「ねえ、あさぎ。人間とアンドロイドは永遠を誓えると思う?」
見覚えのない白い部屋の中、ゆらぎは壁一面に空を描きながら私に問うてきた。
こんな場所の記憶はない。こんなことを問われた覚えもない。それでも、その質問がゆらぎのものであることは不思議と確信を持てた。
ゆらぎに会えたのなら、伝えたいことは山ほどあったはずなのに、不思議とこの部屋の中では何の焦燥感も覚えない。ゆらぎが目の前にいることを、当然のように思っている私がいた。
「それは、無理じゃないかな。人間は死んでしまうし、アンドロイドに心はないから」
我ながら、相変わらず面白みのない答えだと思う。気の利いた答えを返す才能は、母のお腹の中でゆらぎが根こそぎ持っていってしまったようだ。
「アンドロイドに、心があったら?」
ゆらぎの持つ筆が、大胆に線を描いていく。青緑のようなその色は、おそらく浅葱色だ。空に近い色とは思えないのに、ところどころに白い雲が描かれているせいか、自然とそれを大空の絵だと捉えている。
「そうだな……それでも厳しいかもしれないね。やっぱり、人間は死んでしまうから」
「その理論でいくと、人間同士でも永遠の愛は誓えないね? 景くんは悲しむだろうなあ」
揶揄うように、ゆらぎは横目で私を見て笑った。まるで私と景の間に何があったか知っているような口ぶりだ。
「そういうゆらぎは? どう思うの?」
彼女はいつもこの手の質問をしてくるけれど、私に意見を求めるばかりで自分の考えを明かしてくれたことはあまりない。けれど、この白い部屋の中で名から包み隠さずに答えてくれるような気がしていた。
「どう思うも何も、私は誓ったよ」
「え?」
ゆらぎは筆を置いて、どこか不適な笑みを浮かべてこちらに向き直った。
「私は、ツルギと永遠を誓ったの」
ぐらり、と地面が揺れる。たちまち、浅葱色の空もゆらぎの姿も遠ざかっていった。
私は揺れる地面に転がりながら、小さくなっていくゆらぎに手を伸ばすことしかできない。現実と同じように、夢の中でも別れは残酷なくらいに突然だった。
◇
「……ゆらぎ」
かたかたと、あたりが揺れている。ゆらぎの名を呼ぶ自分の声にはっとして目が覚めた。電車に乗り込んだところまでは覚えているが、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。しかも、隣に座るツルギに寄りかかるようなかたちで。
「起きた? 海が見えてきたよ」
私に肩を貸していたツルギは私が寄りかかっていることを気にするふうでもなく、窓の外へ視線を移した。天気に恵まれたおかげで、深い青色に輝く海が見える。陽の光に目を眇めながら、ツルギに預けていた頭を上げた。
「本当だ。綺麗だね」
白い部屋の夢を見ていたせいか、海の青がいっそう鮮やかに見える。
「ツルギ……今ね、ゆらぎの夢を見ていたよ」
ツルギは窓越しに海を眺めながら、静かに唇を歪めた。
「人間は羨ましいな。夢の中で、亡くなった人に会えるなんて」
アンドロイドに睡眠は必要ない。彼が夢を見る日は一生来ないのだろう。
私が彼にできることがあるとすれば、ゆらぎに夢で会うたびに、それを教えてあげることくらいだろうか。
「次の駅だ。降りる支度はいい?」
ツルギは普段と何も変わらない微笑みで、私を見た。今までと決定的に違うのは、私の名もゆらぎの名も呼ばないところだ。
「うん。……楽しみだな、海」
私もまた、無理にゆらぎらしく振る舞おうとは思えなかった。ツルギの前で素の自分を曝け出すことになるなんて、思ってもみなかったことだ。
膝に乗せた鞄の中で、端末がわずかに振動した。手にとって確認してみれば、ロック画面にメッセージが表示されている。景からだ。今日は無断で高校を休んだから、きっと心配して連絡してくれたのだろう。
だが、今は返す気にはなれなかった。私は今、ツルギとともに今までで最大の逃避行に出掛けているのだから。
すぐに端末を鞄の中にしまって、降りる支度をする。隣でツルギが静かに首を傾げた。
「返さなくてよかったの?」
「うん。……今は、ツルギといるからね」
駅名をアナウンスするAIの声と同時に、扉が開いていく。じりじりと照りつくような日差しの中に足を踏み出せば、潮風の匂いがした。
◇
夏休みにはまだ早い平日の昼間であるせいか、浜辺の人影はまばらだった。白い砂浜と深い青のコントラストが目に眩しい。銀色に光る水面を見つめながら、大きく深呼吸をした。
ツルギと共に、波打ち際を目指して歩く。泳ぐつもりはないので、水着は持っていなかった。
サンダルに入り込む細かな砂がくすぐったい。温かくて、夏の上を歩いているような心地だ。
「去年の夏に、ここに来たんだ。去年の今頃は気温が低い日が続いていて、海辺には僕らしかいなかった」
波打ち際で立ち止まって、ツルギはぽつりと溢すように教えてくれた。その目はやはり、遠くの海を眺めている。
「ゆらぎは白いワンピースを着ていた。髪はいつもみたいにポニーテールにして、ワンピースと同じ素材でできたりぼんを僕が結ったんだ。服も髪も髪飾りも、ゆらゆら揺れて綺麗だった」
思い出を語ったときと同じ調子で、彼はごくわずかに微笑みながら告げた。口調自体は淡々としているのに、彼がゆらぎと過ごした一瞬一瞬をどれだけかけがえなく思っていたか痛いほど伝わってくる。
波打ち際に白いワンピース姿で佇むゆらぎを想像してみると、私まで自然と頬が緩んだ。靡くポニーテールを押さえながら、半身でこちらを振り返って「早くおいでよ!」と笑う彼女がありありと目に浮かぶ。夏の眩いほどの陽の光がよく似合う、ひまわりみたいな人だった。
「そんなにすてきな格好をしていても、ゆらぎのことだから海に飛び込んだりしたんじゃない?」
絵でも描いている最中ならともかく、彼女がおとなしく海を眺めて帰るはずがない。ツルギはくすりと笑って、小さく息をついた。
「さすが、よくわかっているね。ゆらぎは水着にも着替えずに膝まで海に浸かって、まだ寒いって笑っていたよ」
いかにもゆらぎがやりそうなことだ。私もつられるようにふ、と笑ってしまった。
「ツルギの苦労が伺えるね」
「そうだね。……楽しい苦労だった」
夏の海辺にふさわしくない憂いの滲んだ声だった。私の寂しさに共鳴するような彼の声がどうにも切なくて、誤魔化すようにサンダルを脱いで波打ち際に足を浸した。
心地よい冷たさの海水が、足の甲を撫でる。小さな波が押し寄せるたび、足の周りの砂が削れていく感覚がくすぐったかった。
おろした髪が、潮風に舞い上がる。あの空の中に、この青い海の中に、ゆらぎは溶け込んでいるのだろうか。
何となく吸い寄せられるように海の中へ一歩を踏み出したところで、ふいに背後から腕を掴まれた。
「ツルギ?」
ゆっくりと振り返り目が合うと、彼はひどく寂しそうな顔をした。私の後ろ姿に、ゆらぎを重ねていたのだろうか。
「……あまり奥へ行かないで」
「ツルギも足だけでも入ったらいいのに」
「いや、やめておくよ。防水仕様だけど、長くは浸かれないんだ」
初めは彼をただのアンドロイド扱いしていたのは私だというのに、彼が自身を「防水仕様」なんて無機質な言葉で形容することに違和感を覚えてならなかった。私と同じ寂しさを抱えている彼は、私と同じ存在ではないのだ。
「じゃあ、行かないよ。ツルギの手の届かないところには行かない」
ツルギの手に引き寄せられるようにして、波打ち際から足を出す。濡れた爪先に、暖かな砂がまとわりついた。
ゆらぎの身代わりにすらなれなかった私の言葉で彼が安らぐはずもないとわかっていたが、すこしでも彼を安心させてあげたい。せめて私だけは、彼の手の届く範囲にいよう。
「……きみは、やさしいひとだね」
私の意図が伝わったのかどうか定かではないが、彼はいちどだけ軽く私を抱きしめた。側からみればまるで恋人同士のように見えるかもしれないが、これはそんな熱っぽい感情から起こされた行動ではない。親が子にするような、慈しむようなふれあいだった。そしてそれを、不快ではないと思う私がいる。
……ゆらぎの恋人なら、私のことは妹同然に思っているのかな。
そこまで考えているのだとしたら、彼はやはりもうただのアンドロイドとは呼べないだろう。いつか私が彼をアンドロイド呼ばわりしたときに、ゆらぎが怒ったのも頷ける。
「次はどこへいく? ゆらぎと来たのは、海だけじゃないんでしょう」
「そうだね。どうしても行きたい場所があるんだ」
ツルギは私から手を離すと、風に乱された私の髪を軽く整えてくれた。
「でもまずは、近くのカフェでお昼でも食べようか」
砂浜のそばにはいくつかの白い建物があった。あそこがおそらくカフェや飲食店なのだろう。
ツルギの案内で、さっそく私たちはカフェへ向かった。正直お腹は空いていなかったが、ツルギの手前食べないという選択は受け入れられなさそうだ。
壁一面に大きな窓が設置された白い建物の中に入り、窓際の席に案内される。障害物がいっさいない状態で海を見渡せる、見晴らしのよい場所だ。
「前に来たときもこの席だった。ゆらぎはスケッチブックを取り出して、食事が来ても夢中で絵を描いていたよ」
ツルギは目を細めて私を見ていた。まさに、私が座っているこの席に彼女が座っていたということなのだろう。
「迷惑なお客さんになっていないといいんだけど。……ゆらぎらしいな」
思わず、椅子の座面をそっと撫でた。一年前の彼女の温もりが残っているはずもないとわかっているのに、彼女の気配の名残を見つけたくて仕方がなかった。
テーブルの端に立てかけられたメニュー表を手に取って、ぱらぱらと頁をめくる。今どき物理的にメニュー表を置いているなんて珍しい。思えば、入店したときからAIの声を聞いていない気がする。店内も木材でできた家具や貝殻の飾りなどがあしらわれている温かみのある作りだから、敢えて電子的な存在を表に出さないコンセプトなのかもしれない。近ごろではこういった観光地でしかお目にかかれない店だった。
リネンの服と黒いエプロンを纏った女性店員に、レモンクリームの乗ったパンケーキを注文する。全部食べ切れる自信はないが、いちばん美味しそうだ。
「ランチメニューの特典でミネストローネかかぼちゃの冷製スープをお選びいただけますが、どちらになさいますか?」
ゆらぎなら、間違いなくミネストローネを選んでいただろう。一瞬、言葉に詰まってしまった。
「かぼちゃの冷製スープでお願いします」
一瞬の間を奪うようにして、ツルギが代わりに返事をしてくれた。女性店員はにこやかに注文を繰り返し、メニュー表を回収して立ち去っていく。
……そういえば、ツルギはわかっていたんだよね。
私がトマトを食べられないことを、彼は知っていたはずだ。私がゆらぎの家に遊びに行った際には、わざわざお昼のナポリタンをカルボナーラに変更する気配りを見せてくれていたのだから。
ツルギはどこか気まずそうに視線を伏せ、ぽつりと呟いた。
「きみには本当に悪いことをした。食べられないとわかっているものを、夕食に出すなんて。本当にごめん」
そうまでしてでも、ゆらぎと同じ姿をしている私が、ゆらぎの好物を食べている光景を眺めたかったということなのだろう。とても責める気にはなれなかった。
「いいの。食べると決めたのは私なんだから」
あの現実逃避の日々は、彼に押し付けられたものではない。私も同意して、彼とふたりで作り上げた時間なのだ。
私の言葉に、ツルギは弱々しく微笑んだ。
「こんなに優しい本当のきみを、どうしてぼくは踏み躙ることができたんだろう。……ゆらぎには、ひどく叱られるだろうな」
私だって、いちどは私として生きる人生よりも、ゆらぎのふりをしてツルギと現実逃避に溺れる日々を選ぼうとしたのだ。罪があるとするならば、重さは彼と同じはずだった。
「いつかゆらぎに会えたら、ふたりで怒られようね」
慰めのような儚い約束だとわかっていた。それでもいつかふたりでゆらぎに叱られて、その後でまた三人で仲直りする姿を想像するだけで、ほんの少しだけ、前へ進む力が湧いてくるような気がする。
やがてパンケーキとスープが、目の前に置かれた。ゆらぎは絶対に選ばないであろうかぼちゃの冷製スープは、ほんのりと甘くて優しい味がした。
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