第4話
家に帰るなり、ツルギに髪を解かれ、そのまま入浴するよう促された。夏だと言うのに長いこと雨に当たったせいか、浴衣を脱いだ肌は冷え切っていて、湯船に浸かった瞬間は思わず溜息がこぼれた。
ツルギが用意してくれた部屋着に着替え、髪を拭きながらリビングへ移動する。ツルギの姿は、そこにはなかった。狭い家の中だ。ツルギのいる場所なんてだいたい検討がついた。
薄暗い廊下を進み、彼が作り出したアトリエを目指す。扉はわずかに空いていて、中の様子を伺うことができた。
ツルギは、部屋の中で立ち尽くしていた。電気もつけず、雨が降っている外のわずかな明かりだけが彼の影を浮かび上がらせている。どこか茫然とした様子で立ち尽くすその様は、彼と再会したときのことを彷彿とさせた。
あの日彼は、ゆらぎがいなくなった事故現場で、飼い主を迎える犬のようにゆらぎを待っていた。膨大な知識と高度な学習能力を併せ持ったAIが搭載されているにもかかわらず、まるで彼女の死を理解できないとでもいうように、じっと待ち続けていた。
あのままツルギが私に気づかずに、彼と接触することもないまま母にツルギの回収を頼んでいたら、私はどうなっていたのだろう。ゆらぎの死を乗り越えて、景と手を繋いでいただろうか。
思わずふ、と自嘲気味な笑みが溢れる。自分で考えておきながら、馬鹿馬鹿しい発想だ。冗談でも、そんな姿は思い浮かばない。ツルギがいなければ、私はひょっとすると今ごろ――。
扉をそっと押して、中に入る。ツルギも私の存在に気づいているのだろうが、こちらを見向きもしなかった。その視線は、ゆらぎが描いた絵に注がれている。星の中で横たわる灰色の髪の少年の絵だ。
「ツルギ」
防音設備はしっかりしているはずだというのに、雨音がうるさいくらいに響いていた。私とツルギだけが、この薄闇に取り残されたような気分になる。
「……ずっと、聞きたかったことがあるの」
これを尋ねてしまえば、私の優しい現実逃避は終わってしまう。それでももう、目を逸らし続けられるような段階にないことはわかっていた。私はもう、夢から覚めかけているのだから。
「ツルギ、あなたは――本当は私のこと、ゆらぎじゃないってわかっているんでしょう」
彼は振り返らなかった。まるで聞こえていないとでも言うふうに、ゆらぎの絵を眺め続けている。
「私にゆらぎを重ねて、あなたも現実逃避をしていたんだよね。……AIがそんなことするはずないって思っていたから、確信を持てなかったけれど――」
眼裏に、星を模った美しいゆらぎの作品が蘇る。
あれが、すべての答えだったのだ。
「――ツルギ、きっとあなたはゆらぎに、心を与えられたんだよね」
ツルギには、心がある。そしてそれは、ゆらぎによって設計された。それこそが、私が辿り着いた結論だ。
星を模った「何か」のレプリカだと言って見せてくれたあの作品。その「何か」というのが、きっとツルギに埋め込まれている心なのだろう。ツルギが眺めている星と灰色の髪の少年の絵は、それを示唆しているのだ。
私をゆらぎと思い込むなんていう不可解な行動も、きっと不具合などではなかった。私たちは始めから、お互いを利用しあっていたのだ。ゆらぎが生きているかのように錯覚できる日常を求めて、一緒にいることを決めたのだ。
何も言わないツルギの隣に並びたって、星と少年の絵を眺める。絵本作家を目指していた彼女らしい、優しい筆使いの絵だ。私は他のどんな画家の絵よりも彼女の色使いが好きだった。
「……あなたとゆらぎはきっと、本当に恋人同士だったんだよね」
スケッチブックに描かれたツルギの絵を見ればわかる。描き手とモデルが心を通わせあっていることを察するには、十分なほど優しい愛にあふれたスケッチだった。
あれは紛れもなく、ゆらぎの恋の証だ。
私の隣にいるのは、ただのアンドロイドじゃない。恋人を失って悲しみに暮れる、ひとりの青年なのだ。
ツルギの視線がふと、私に向けられる。口もとには、無理やり貼り付けたような笑みが浮かんでいた。
「……さっきからきみは、何を言っているんだろう。恋人だったも何も、きみは、ぼくのゆらぎなのに」
「ツルギ……」
彼はまだ、この現実逃避を手放したくないらしい。私だってできることなら、手放したくなかった。今日も明日も今までと同じように、ゆらぎとしてこの部屋の中で笑って、当たり障りのない優しい時間を過ごしていたかった。
「そうだ、久しぶりに絵を描いてよ、ゆらぎ。またきみの絵が見たいんだ。そろそろ新作が欲しいな」
ツルギの手に手首を掴まれ、そのまま画材が仕舞われた棚の前に連れて行かれる。ゆらぎが使っていたままのパレットと筆を持たされ、部屋の隅に立てかけられた白いキャンバスの前に立たされた。
「ツルギ……私、絵は描けないの。ゆらぎみたいな才能はないんだよ」
「いいから、描いて、ゆらぎ。描いてみせてよ」
ツルギの手が、筆をもつ手に重なる。急かすような彼の言動には、明らかな焦りが滲んでいた。
「ツルギ――」
「――いいから! 描いて、描いてよ! きみはゆらぎなんだから……!」
彼が声を荒らげるのは初めてだ。思わず肩がびくりと震える。その拍子に、絵の具を吸った筆が床に落ちてからからと鳴った。
落ちた筆の周りに、ぱっと赤い液体が飛び散っていた。暗がりの中でも抜けるように明るい赤。人の血とは遠い色をしているのに、どうしてか歩道の上でだらだらと血を流し続けるゆらぎの姿が眼裏に蘇った。
「っ……!」
吐き気を覚えて、思わずその場にしゃがみ込む。部屋着に絵の具がつくことも厭わずに、うずくまるように床に手をついた。
「ゆらぎ、ほら、筆を持ってよ。ねえ」
ツルギは追い打ちをかけるように私の目の前にしゃがみ込み、再び筆を握らせた。
壊れものを扱うようだった今までの言動とは大違いだ。切羽詰まったような強引さを感じて、何も言い返せなくなる。
「またぼくを描いてよ、ゆらぎ。次は花と一緒に描いてくれるって、約束したじゃないか。ずっと、待っているんだよ。どうして約束を果たそうとしてくれないの」
ツルギの手には、パレットから飛び散った様々な色の絵の具が付着していた。それは混じりあって、淀んだ黒になる。この鬱屈とした暗闇と、同じ色だ。
追い詰められるように肩を掴まれ、思わずバランスを崩してしまう。そのまま床に飛び散った絵の具の上に押し倒されてしまった。
奇しくもそれは、絶命したときのゆらぎと同じ構図だ。ぱっと飛び散った色とりどりの絵の具の中で、ゆらぎはどす黒い赤を流していなくなってしまった。
ツルギも、同じ光景を思い出したのだろう。静謐を保っていた灰色の瞳に、怯えに似た揺らぎが走る。
「ゆらぎ……」
それはきっと、私に対する呼びかけではなかった。
「どうして……」
震える彼の手が、そっと私の頬を撫でる。絵の具が頬につく感触があったが、拭う余裕は私にもない。
「どうして……どうしてきみは、ゆらぎにならないんだろう。同じ食事を与えて、同じ時間に眠らせて……平熱だってゆらぎと同じで、同じ顔をして、同じ遺伝子情報を持っているのに……どうしてきみは、ゆらぎにならないんだろう」
心からの、純粋な疑問を吐露するように、彼はぽつりと呟いた。私の頬を撫でる手は今までと同じように繊細なもので、私の中に眠るゆらぎの面影を必死に掘り起こそうとしているかのようだ。
「他に何をすれば、どう接すれば、きみはゆらぎになってくれるの。外の世界がいけない? 星川景がいなくなればいい? ずっとこの部屋に閉じ込めておけば、きみはいつかゆらぎになってくれるのかな」
人間は、他の人間にはなれない。遺伝子情報が同じでも、決して同じ存在にはなれない。人であればまず思いつきもしないような願望を、彼は無邪気に口にしていた。
でも、ツルギだってきっと、無理だとわかっているのだろう。それでもわがままにも似たその不可能を押し通したいと思うほどに、ゆらぎに焦がれているのだ。
「……ごめんね、あの日いなくなったのが、私だったらよかったね」
景の想いを裏切る言葉だとわかっていても、それはやっぱり私の本心だった。あの日あの場に立っていたのが、私だったらよかったのに。
そうすればひょっとすると、安穏と生きているよりも鮮烈に、景やゆらぎの記憶の中で生きていられたかもしれない。景の初恋の呪いになって、ゆらぎの歳を取らないモデルになれただろう。それでもきっとふたりは前を向いて私の死を乗り越えて、私はいつか彼らの強さの理由のひとつになるのだ。
そのほうがよっぽど、みんな幸せだった。私も含めて間違いなく幸せだった。
「っ……ゆらぎの代わりに、なりたかったなあ」
湯船に浸かって引っ込んでいたはずの涙が、勝手に溢れ出す。鼻の奥がつんと痛んで仕方がなかった。ずっと、血の匂いがする。
「違う! 代わりになるべきは、ぼくだった。あの日、ゆらぎのいちばんそばにいたのに……ゆらぎを守りきれなかった……! いなくなるべきは、間違いなくぼくだ」
私に馬乗りになったような姿勢のまま、彼は顔を覆って項垂れた。
「ゆらぎ……ごめん、ゆらぎ……」
絞り出すように震えた声だった。聞いているだけで、余計に涙が溢れてくる。
きっと、ツルギには涙を流す回路が備わっていないだけで、泣けるものなら泣いていただろう。分厚い悲哀が、覆い被さるように私にも降り注いでいた。
絵の具に塗れた手を、気づけば彼に伸ばしていた。そのまま、そっと滑らかな彼の頬に触れる。ツルギはくしゃりと表情を歪めて、私の手に頬を擦り寄せた。
私たちはもっと早くに、こうしてお互いの寂しさを曝け出すべきだったのだ。ひとりで抱えて誤魔化してきたから、こんなにも拗れてしまった。
「……ゆらぎによく似てるのに、ゆらぎの手じゃない」
「そう……そうだよ、私はあさぎ。あなたと同じくゆらぎを失って悲しんでいる、ゆらぎの妹だよ」
初めて、彼の前で素の姿を晒した気がした。
ツルギは堪えるように目を瞑ったまま、そのまますがるように私の肩口に顔を埋めた。
人と変わらない柔らかさの灰色の髪を、指先でそっと梳くように撫でてみる。ゆらぎに与えられたであろう心は、きっとまだ芽生えたばかりなのだろう。私よりもずっと幼い感情を包み込むように、優しく彼を抱きしめた。
「ねえ……聞かせてよ。あなたが知ってる、ゆらぎの話」
泣きながら笑いかけると、ツルギも似たような表情をして、私の隣に寝転んだ。飛び散った絵の具の上で並んで横たわる私たちは、きっとひどい姿をしているだろう。
ツルギは、静かに微笑んでぽつぽつとゆらぎの話を始めた。きっと映像で投影させることもできたはずなのに、彼は自分の言葉でゆらぎを表現することを選んだのだ。
それは、とてもとても幸せな、ゆらぎの記憶だった。祝福の中で生きた、美しい少女の物語だった。
雨音が遠ざかり、空がわずかに明るくなり始めたころに、ツルギはふいに口を噤んだ。それ以上語るゆらぎの物語がなくなったからだと気づくのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
床に散らばった絵の具が、乾きかけている。
このまま朝が来たら、私たちはどうすればいいのだろう。
「ツルギ」
あてもないのに、彼の名を呼んだ。隣で寝転んだ彼がわずかに首を傾ける。
「どこか、遠くへ行こうか。……私が、ゆらぎでもあさぎでもない場所へ」
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