第2話
「おかえり、ゆらぎ。浴衣の準備はしてあるよ」
家に帰るなり玄関口で出迎えてくれたツルギの言葉で、はっと我に帰った。ずっとぼんやりとしていたせいで、午後の記憶がほとんどない。確か景は、病院へ向かったのだということだけは辛うじて把握していた。
「あ……ただいま、ツルギ」
通学用の鞄を受け取り、彼はそのまま私の部屋へ向かった。姿見も鏡台もあの部屋にしかないから、そこで着付けをしてくれるつもりなのだろう。
後夜祭の開始までは、まだ一時間ほど残されている。学校で着替える人もいるようだが、こうしていちど帰って支度をしてくるクラスメイトも多いようだった。景が後夜祭に参加できるかは、脱臼の程度と治療にかかった時間次第だろう。
壁際には、今日着る予定の白地に赤と青の草花が描かれた浴衣がかかっている。その隣に同じようにかけられたベージュのインナーをまず着れば良いのだろう。
「ツルギ。ちょっとだけ、あっち向いてて」
流石に下着姿を見られるのは憚られる。ツルギは従順に私の言葉に従って、壁へ向き直った。その隙に制服を脱ぎ、インナーを纏う。これでも心許ない格好だが、浴衣を着付けてもらう以上仕方がない。
「もう大丈夫だよ」
私の声を合図に、ツルギは浴衣を持って早速振り返った。わずかな間もなく、まず浴衣を肩にかけてくれる。
「ゆらぎ、袖に手を通してくれる?」
「うん」
ツルギの指示に従って、手を挙げたり下げたりを繰り返す。彼は無駄のない動きで、一部の乱れもなく浴衣を着付けてくれた。お腹のあたりに赤い帯を巻かれ、背中で結ばれる。
「どうかな、苦しくない?」
「平気だよ。さすがツルギ、完璧だね」
姿見の前で、くるりと回転して確認する。きっちりと結ばれた帯は、そう簡単に解けることはなさそうだ。近ごろ流行っているようなふわふわとした帯ではないが、昔ながらの結び方が気に入っていた。
「じゃあ次は髪を結い上げよう。ここに座って」
ツルギに促されるままに鏡台の前に座る。ゆらぎを真似て高い位置でひとつにまとめていた黒髪が、するりと解かれた。肩にタオルを乗せられ、それから結び癖をならすように櫛を通される。
とても、繊細な手つきだった。間違っても傷つけまいとするような、そんな優しさを感じる。ツルギがいかにゆらぎを大切にしていたか、またひとつ伝わってきて、胸が絞られるように苦しくなった。
「今までにアップロードされた浴衣に合わせた髪型にまつわるデータを一通り読み込んだよ。ゆらぎは髪も長いし、だいたいどんな髪型でもできると思うけど、どうする?」
ゆらぎなら、どうするだろう。動きづらい服や髪型を嫌っていた彼女が何を選択するのかまるで検討がつかない。幼いころ家族で花火大会に行ったときには、お揃いのツインテールにしていたが、きっと今は選ばないだろう。
「ツルギが、選んでいいよ。私に似合うと思う髪型で」
本来のAIの役割を超えた命令をしていると、自分でも思った。だが、ツルギはきっと応えてくれるはずだ。
「わかった。任せて」
ツルギは器用に髪を何束かに分けると、複雑に編み込みながら後ろでまとめていった。一部の乱れもないところが、本当にアンドロイドらしい器用さだ。
十分も立たないうちに、髪は綺麗に結い上がった。後ろでまとめられた部分に、帯と合わせた赤いりぼんがくくりつけられる。
「できた。どうかな」
ツルギに促され、首を軽く左右に振って確認する。完璧だ。両サイドの髪は三つ編みに編み込まれ、曲線を描いて後ろでまとめられている。
「すごい、ツルギはなんでもできるね」
ゆらぎを意識して満面の笑みを浮かべれば、ツルギが鏡越しに私をじっと認め微笑んだ。
「そうだよ。ぼくは、ゆらぎのためならなんでもできるよ」
愛にも忠誠にも似た言葉に、またすこし、切なくなる。そんなものツルギにあるはずないと、深く考えもせずに突き放していたころが懐かしかった。
返す言葉に迷って、窓の外を見やる。夕暮れだというのに、空は薄暗かった。絶好の花火日和とは言い難いだろう。
「夜遅くなるようなら、迎えにいくよ」
ツルギはヘアピンや櫛を片付けながら申し出た。ありがたい提案だが、万が一にも景や雪森さんと遭遇してほしくない。ツルギと一緒にいるところを再び見られれば、絶対に言い逃れできなくなることは目に見えていた。
「ありがとう、でも平気。バスの臨時便が出る予定だから、みんなと一緒にそれに乗るよ」
鏡台の前から立ち上がり。改めて姿見の前で浴衣姿を確認する。いつもと違う格好であるせいか、ゆらぎと思えばゆらぎにしか見えない。
思わず、そっと鏡に手を触れて、微笑んでみた。ゆらぎが、笑いかけてくれている。
「わかった。じゃあ、食事を用意しておくよ。くれぐれも気をつけてね。今日のゆらぎは、いつもにも増してかわいいから」
鏡の中を覗き込むようにして、ツルギも隣に並び立つ。彼は明らかに私ではなく、鏡の中の「ゆらぎ」を見ていた。ふたりとも、縋り付くものは同じだ。
「ふふ、知らなかった。ツルギはお世辞も言えるんだね」
「お世辞なんてとんでもない。AIらしい客観的な判断だよ」
どこか冗談めかした調子でそういうと、ツルギは赤い巾着を差し出してくれた。中にはすでに携帯用端末と、ハンカチが入っている。
「ありがとう」
「楽しんできて、ゆらぎ。いい思い出が作れるといいね」
「……そうだね」
本当は、新しい思い出などいらないのだ。ゆらぎが生きているふりをしている、この優しい部屋の中以外の思い出なんて、いらない。
「行ってきます」
慣れない下駄を履いて、玄関口でツルギを振り返る。彼は慈しむように私を見つめながら静かに手を振った。まるで「ゆらぎ」の浴衣姿を目に焼き付けようとするかのような、優しいまなざしだ。
ひとたび外へ出てしまえば、優しい時間は終わってしまう。生ぬるい夏の風が、呼吸を奪うようなしつこさでまとわりついていた。
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