第六章 雨の匂い

第1話

 祝砲とともに、学祭が幕を開けた。


 ステージ発表、模擬店、各部活の発表と三日間の日程は休む間もなくさまざまなイベントで目白押しだ。どれだけ欲張っても、すべてを見て回ることはできないだろう。


 学祭の参加者は全校生徒の他に、その親類、友人、今年の職業適性検査で「医師」の判断を受けた来年入学してくるはずの少年少女たちとさまざまだ。


 私たちのクラスはステージ発表まで、ぎりぎりまで稽古を続け、小道具の不具合があれば直す必要があるくらいで、比較的自由な時間が多かった。どのグループも、交代で学内を見回っているようだ。


 小道具班のリーダーは気を利かせて景と同じ時間に私の自由時間を取らせようとしたが、全力で断った。


 今、景に捕まったら、きっと私とツルギの関係を明らかにせねばならなくなるだろう。景をうまく誤魔化せるほど、私は演技上手ではなかった。


 私には回りたい場所も、落ち合いたい友人もいないため、他の人の代わりになるべく小道具の修正や雑用を引き受けることにした。みんなには感謝されたが、逃げるための言い訳に使っていることがむしろ申し訳ないくらいだ。


「け、い! あそびにきたよー!」


 見覚えのある愛らしい少女が教室に飛び込んできたのは、一般公開が始まった学祭二日目のことだ。本来ステージ発表のクラスの教室には、学生以外の立ち入りは許されていないのだが、その子はどうやら景の居場所を嗅ぎつけてやってきたらしい。


「……ひな、来てたなんて知らなかった」


 景に飛びつく勢いだった少女の肩を押さえ、景が目を丸くする。


 肩を掴まれた少女は、柔らかな栗色の髪を揺らしてにこりと明るい笑みを見せた。


「サプライズ! ふふ、学祭だって言うから思わず来てみたけど、発表は明日なんだね。王子さまは景がやるんでしょ!」


「違う、俺は裏方だ」


 ……雪森ひな。


 忘れるはずもない。いつか美術館で出会い、ゆらぎのスケッチブックにも描かれていたゆらぎの親友だ。ゆらぎと同様に芸術科に通っているはずだが、景とつながりがあるなんて知らなかった。


 クラスメイトたちは、にわかに飛び込んできた美少女に釘付けになっているようだった。よく耳をすませば、ひそひそと噂話が聞こえてくる。


「あれって……雪森ひな? モデルの?」


「本物初めて見た! ほっそいなあ、かわいい」


 景の腕にしがみつくようにしてにこにこと笑う雪森さんは、確かに可愛らしかった。噂話をしていた女子だけでなく、景の友人である男子学生たちも彼の周りに群がる。


「星川、雪森ひなと知り合いなのか?」


「まさか、彼女じゃないよな……!?」


 皆の注目を一心に浴びて、景はうんざりしているようだった。


 彼は本来、注目されるのが苦手なのだ。その性質に反して、人目を集めてしまうようだけれども。


「違う……ひなはいとこだ」


「いとこ……?」


 それは、私も初めて聞いた。そもそも雪森さんがモデルであることも今知ったところだ。ゆらぎはそんなこと口にしていなかったし、私はほとんど芸能情報を仕入れないせいで雪森さんと出会ったことがあるにもかかわらず彼女の仕事にも気づけなかった。


「初めまして! 景のいとこの雪森ひなです!」


 眩しいばかりの笑みを浮かべて、ひらひらと手を振る。こうしてみれば、景とわずかに目鼻立ちが似ている気がした。


 クラスメイトたちが、雪森さんのもとへ押し寄せる。私も彼女と会ったことがなければ近付いてみたいと思ったかもしれないが、どうしても無理だ。今顔を合わせれば、いつかの話の続きをされるに決まっている。


 しかも、景のいとこだ。私の存在に気づかれれば、余計にツルギの話題は避けられないだろう。


 雪森さんは私がゆらぎの恋人であるツルギを奪ったのだと思い込んでいるし、景も景でツルギが私をゆらぎ呼ばわりしていることに気づいている。ふたりが話題を共有してしまったら、ますます責められるのは目に見えていた。私はまだ、あの愛しい現実逃避を手放したくない。


 学祭に向けてクラスで作ったパーカーのフードを、そっとかぶる。大道具の影に隠れて作業をするふりをして、なんとか雪森さんの目に留まらないようにした。機会があれば、教室を出て行きたいところだ。


「景! この子すっごくかわいい! 景の彼女?」


 雪森さんが、驚きの声をあげる。大道具の陰からちらりと確認すれば、雪森さんが相澤さんの手を取っているところだった。


「違う。この人は学祭の実行委員の相澤さんだ」


「ええー? こんなにかわいいのに、景とよくお似合いだよ!」


 雪森さんは相澤さんの手を引っ張って、景の隣に並ばせた。


 雪森さんの手の力が強かったのか、ふらりとバランスを崩した相澤さんの肩を、景がそっと支える。


「ひな、やめろ。明日が本番なんだ。役者に怪我させるな」


「ごめんごめん、でもほら、やっぱりすっごくお似合い!」


 雪森さんは景と相澤さんの並びを見て、興奮しているようだった。


 確かに、ふたりはとてもお似合いだ。クラスメイトたちも、それに同調するように口々に何か囁いている。


「確かに星川くんと相澤さん、結構いい感じじゃない?」


「お似合いなのは間違いないよね」


 相澤さんは、どこか気恥ずかしそうに景の隣で微笑んでいた。雪森さんにも応援され、嬉しいのだろう。期待するようなまなざしで、景を見上げている。


「ひな、いい加減にしろ。相澤の気持ちも考えずにそんなことを言うな」


「そうかなあ、嫌そうには見えないけど」


 雪森さんはいたずらっぽく微笑んで、ふたりを眺めていた。思ったよりも、奔放な性格なようだ。ゆらぎならばうまく付き合えるのかもしれないが、苦手な部類だった。


「あれ……景、そのキーホルダー……」


 景の足もとに置かれていた鞄をみて、雪森さんはしゃがみこむ。そうして、鞄にぶら下がったクローバーのキーホルダーをつついた。


「アマガタヒイロのやつだ! かわいいー! 景、好きだったっけ?」


 なんだか、嫌な予感がする。そのキーホルダーには気づいてほしくなかった。


「いや、貰い物だ。……あんまり触るな」


「貰い物? ふうん……」


 雪森さんが、ぐるりと教室内を見渡す。さすがは景の親族とでも言うべきか、勘の良さは彼に負けていないようだ。


 そのとき、ちょうどよく自由時間を楽しんできた小道具班のリーダーが教室に戻ってきた。雪森さんの存在には気づかないまま、私が番をしていた小道具の置き場までやってくる。


「橘さん、お疲れ! 橘さんも少し見て回ってきたら? 三年の模擬店のケーキがおいしかったよ」


「行きたい、ありがとう」


 今までなら遠慮するところだが、食い気味に了承してリーダーと入れ替わるようにして教室をあとにする。廊下に出てようやく、一息つけたような気がした。


 ……会いたくない人が増えちゃった。


 あの様子では、雪森さんは明日も顔を出すのだろう。景とも彼女ともふたりきりになりたくない。小道具の搬出の役割がなければ、迷いなく明日の欠席を決めるのに。


 ……仕方ない、あと一日だもん。


 自分に言い聞かせるようにして、人目を避けて廊下の隅を歩く。


 陰で息をすればするほど、家の中にさした西陽のなかで微笑むツルギが恋しくなった。


 早く、あの家に帰りたい。一日の目標がそれにすり替わってしまうほどに、ここから逃げ出したくて仕方がなかった。


 ◇

 

 どうにか景と雪森さんを避け続け、ついにステージ発表の日を迎えることができた。私たちの順番は昼過ぎで、その後は後夜祭に向けた準備と、後夜祭本番だ。今日も予定は詰まっていた。


 朝から最終確認に追われ、クラス全体が本番前独特の緊張感に包まれている。張り詰めるような空気だが、今の私にはありがたい。私にも、他の誰にも余計なことを考える余裕はなかった。


「この二週間の成果を出し切りましょう。絶対に素敵なステージにしようね!」


 本番五分前、クラス全員で円陣を組みながら、実行委員である相澤さんはよく通る声で呼びかけた。今はぼろぼろのワンピースを衣装として纏っているが、誰より輝いて見える。


 相澤さんの号令を最後に、各グループはすみやかに持ち場についた。私は小道具の製作班だが、搬出作業があるためステージ裏に待機だ。暗転のタイミングでスムーズに、間違えないように運び出さなければならない。


 裏方の総指揮は景が取っていた。練習でも、ほとんど間違えたことはない。彼に従っていれば完璧な劇になるはずだ。


 ブザーと共に、臙脂色の幕が開いていく。ステージ奥の壁一面に配置されたスクリーンに、背景が映しだされた。ついに、開幕したのだ。


 舞台の中心で、相澤さんは幸の薄い不遇な少女を演じている。ただの学生にしては、きっと演技は上手いほうだろう。舞台袖からも、観客が相澤さんに釘付けになっているのがわかる。スポットライトを浴びて、彼女はきらきらと輝いていた。


 ……告白は、今日の夜にでもするのかな。


 確か彼女は景への告白を宣言していたはずだ。後夜祭の花火大会は、まさにぴったりだろう。浴衣姿の相澤さんと景が並び立つ光景を思い浮かべて、わずかに頬が緩んだ。景が、今よりもっと幸せになれたらいい。


 暗転したのを機に、急いで小道具を運び出す。薄暗がりの中でも間違いがないように、短い時間で確認をして、急いで舞台袖に戻った。


 何度もやったことなのに、薄く汗ばむほどに緊張している。だが、悪い気分ではなかった。


 舞台は、なんの問題もなく完璧に進んでいった。そうして最後に、王子役の柚原くんが相澤さんにガラスの靴を履かせて、劇は終幕を迎える。


 ……無事終わってよかった。


 舞台袖からほっとしたような心地で、ステージに並びお辞儀をする役者チームを見守る。割れんばかりの拍手が、私も自分のことのように嬉しかった。


 ふと、柚原くんに引っ張られるようにして、景も役者チームのみんなと共に並ばされ、礼をした。裏方代表の挨拶なのだろう。相澤さんと隣に並んだからか、会場がさらに盛り上がる。ふたりは他のクラスからも公認のカップル候補らしい。


 後ろ姿しか見えないから表情はわからないが、きっと照れたように笑っているだろう。そう思えば、私も嬉しいような気がした。


 だがその瞬間、役者チームたちの後ろで、樹木を模した大道具がぐらついているのが見えた。電子スクリーンに表示された背景のほかに大道具を使うことで、立体感をより演出したのだ。いつか、私が必死に緑色に塗ったベニヤ板が使われていた。


 声を出すまもなく、それは役者チームのほうへ倒れ込んでいく。会場から、悲鳴が上がった。役者チームもとっさに振り返り、表情を引き攣らせる。


 大道具は、運悪く相澤さんのほうへ倒れ込んでいた。みるみるうちに傾いていくそれを前に、相澤さんは驚いたように固まってしまい動けない。そんな相澤さんを、さっと大きな影がさらった。


 悲鳴と共に、大道具が倒れる。鈍い衝撃音に驚いて、思わず目をつぶってしまった。会場は大混乱だ。


 恐る恐る目を開けてみると、大道具のそばには、相澤さんを庇うように抱き抱えた景の姿があった。倒れ込んだ大道具は景の左肩に当たったのか、右手で肩を押さえている。初めて見るような苦悶の表情だった。


「景!」


 思わず駆け寄ろうとするも、庇うように抱き止められていた相澤さんのほうが早かった。


「星川くん!? 大丈夫!?」


 相澤さんが血相を変えて景の顔を覗き込む。景は痛みを堪えるようにわずかに息を吐いて、それからなんでもないように笑った。


「平気だ。脱臼しただけだと思う。……相澤は怪我ないか?」


 相澤さんを安心させるように微笑んでいるが、額には薄く汗が滲んでいた。


「私は平気だけれど……でも、星川くんが……!」


 取り乱す相澤さんを落ち着かせるように、他の役者たちが駆けつけてくる。柚原くんの手を借りて、景は立ち上がった。


 景の勇気を讃えてなのか、会場から静かに拍手が上がる。


「たいした人だね、星川くんは」


 隣で小道具班のリーダーが感心したように呟く。舞台袖に控えていた女子たちは、早速ひそひそと噂を始めていた。


「いまのは流石にちょっとかっこよかったね」


「身を挺して相澤さんを庇うなんて……星川くんもやっぱり相澤さんのこと……」


 そっと、舞台袖から去り、景の後ろ姿を追った。舞台から降りたころにはいくらか痛みに慣れてきたのか、柚原くんの手を借りずにひとりで歩いている。


 みんなはわかっていない。景は、相手が誰であっても助けたはずだ。もちろん相澤さんに気があって、傷つけたくないという思いもあったのかもしれないが、あの場にいたのが柚原くんでも、他の裏方でも、私であっても、変わらず庇ったはずだ。そういう人だと、私は知っている。


 ――ろくに前を見ずに走るから転ぶんだろ。いいから乗れ、運んでやる。


 遠い昔、膝を擦りむいて泣いている私に背を向けてしゃがみ込み、ぶっきらぼうにそう告げた景の姿が蘇る。泣いていたせいで彼の表情はわからなかったけれど、きっと先ほどとそう変わらない微笑みを浮かべていたはずだ。


 心配そうに景につきそう相澤さんの姿を見て、心の一部分が空っぽになったような気がした。景に背負われて家まで帰ったあの夕暮れは、きっともう一生来ないのだ。


 ……いやだな。


 やはりこの現実は、つらいことばかり繰り返される。私があさぎでいるかぎり、悲しいことばかり降りかかってくる。


 ……帰りたい、早く、早く、ツルギのところへ。


 溺れるような息苦しさを感じて、くるりと踵を返す。息ができないような心地のまま、無我夢中で舞台の後始末に取り掛かった。

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