第3話

「よかった、なんとか間に合いそうだね……」


 小道具班のリーダーが、整然と並べられた作品たちを見て満ち足りた息をつく。私も、達成感に似たものを味わっていた。


「いよいよ明日からか、楽しみ」


 校舎には垂れ幕もかけられ、学内の空気は弾んでいた。ひょっとすると、この時間帯がいちばん楽しい時間かもしれない。


 ステージ発表は二日にかけて行われる。私たちの番は、最終日の昼過ぎだった。確か、最後から二番目の発表だったはずだ。


「ね、みんなで決起集会しない? おいしいケーキ屋さんがあるの」


「いいね、行こ行こ。橘さんも行くでしょ?」


 非常に魅力的な提案だったが、おずおずと口を開く。


「ごめん、今日は行けそうにないんだ。浴衣を買いにいかなくちゃ」


 ずいぶんぎりぎりになってしまったが、流石に今日行かないと時間がなさそうだ。ツルギも見立ててくれると言っていたので、商業地区で待ち合わせをしていた。


「もしかして、星川くんと行くの?」


 小道具班の注意が、いっせいに私に向けられるのがわかる。まさか景の名前が出てくるとは思わず、驚きながらも首を横に振った。


「ううん。景はたぶん、忙しいし」


「橘さんが言えば絶対来ると思うけどなあ」


「実際、どうなの? まだ付き合ってないの?」


 相澤さんにも似たようなことを聞かれた。仲がいいとは自分でも思うし、景のことは好きだが、付き合いたいのかどうかはよくわからなかった。深く考えてみたことがないのだ。


「幼馴染ってだけだよ」


 恋に興味がないわけではないが、正直今はそれどころではない。たくさんの秘密につつまれた、見つけてよかったのかどうかもわからないような秘密に打ちのめされているところなのだから。


「じゃあ、私はもう行くね。決起集会、楽しんでね」


「早く終わったら合流してもいいんだからね! 連絡して」


 気のいい人たちだ。鞄を肩にかけ、軽く手を挙げる。


「ありがとう、じゃあね」


 手を振って、教室を後にする。廊下もまた、学祭一色に染め上がっていた。

 ふと、廊下の窓から校庭で練習をする相澤さんたちの姿が見えた。私がほつれを直した水色のドレスを着て、芝生の上で軽やかに舞っている。男女問わず、多くの人の視線を奪っていた。


 景も、例外ではないようだ。脚本を片手に、柔らかく微笑みながら相澤さんを見つめている。


 その姿を見て、気づけば私も頬を緩めていた。


 景が笑っているなら、なんでもよかった。付き合う付き合わないについて深く考えたことはないけれど、彼が笑っていられるなら相手は誰でもいい。相澤さんは景のことが好きなようだし、お似合いのふたりだ。


 世の中だいたい、私でなくても問題ないことがほとんどだ。その気軽さを、私は気に入っていた。


 ……でもひとつだけ、私でなければならないことがあるとすれば。


 ぎゅ、と指先を握り込んで、窓辺を後にした。いつも通学に使っているバスとは違う路線のバスに乗り込み、商業地区へ向かう。ツルギとは、この街の待ち合わせスポットである噴水の前で落ち合う約束をしていた。


 二十分ほど揺られ、バスから降りる。平日の夕方でも、商業地区は賑わっていた。


 数分かけて大噴水の前に向かう。待ち合わせしているらしい人々が、大勢たむろしていた。


 その中でも、ツルギは人目を引いた。灰色の髪、灰色の瞳、全体的に色素が淡く消え入りそうな儚さがあるのに、妙に意識を奪われる。それが、彼の魅力のひとつなのかもしれない。


 その姿を遠目で見かけてから、いちどだけ深呼吸をする。気持ちを、切り替えなければ。


「ツルギ!」


 はずむような声を意識して、ツルギのもとへ駆け寄る。ゆらぎならば、こうするはずだ。


「ごめんね、待たせたかな」


 ツルギは柔らかに微笑み首を横に振ると、私が肩にかけていた鞄をさっそく持ってくれた。


「ゆらぎこそ、準備は大丈夫だった?」


「ちょうど終わったから平気。間に合ってよかった」


 私たちの周囲でも、次々に人々が落ち合っていた。噴水の雫が、傾き始めた日の光をきらきらと反射している。


「調べてみたけど、どこのデパートでも浴衣フェアをやっているみたいだ。値段も平均すれば大差はなさそうだよ」


 ツルギはしっかり下調べをしてきてくれたらしい。夏休みにはこの街の名物の花火大会も行われるからどこにでも浴衣は売っているだろうと思っていたが、予想通りだ。


「じゃあ、近いところからにしよう!」


 ツルギの手を取って、最寄りの建物に向かって歩き出す。ゆらぎなら、必ずこうするはずだ。


 本当は浴衣の柄にこだわりなどなかったが、ゆらぎなら吟味するだろうと思い、いくつかの店を見て回った。ゆらぎの好きな浅葱色の浴衣を探していたのだが、近ごろの流行ではないのか、なかなか見当たらない。四店舗回った末に、結局白地に落ち着いた青と赤の草花が描かれた浴衣と、赤い帯のセットに決めた。ツルギが髪も纏めてくれるというので、それに合わせた赤い髪飾りも購入した。


 当日は、後夜祭準備のために二時間ほど時間があるので、いちど帰宅してツルギに身支度を頼むつもりだ。彼のおかげで着付けの心配をしなくていいのは助かった。


 四店舗も回ったせいで、すっかり遅くなってしまった。空には紺色が滲み始めている。今日はよく晴れているから、星が見えそうだ。


「ツルギのおかげで、納得いくものを選べたよ。ありがとう」


 なるべく溌剌とした笑みを意識して、ツルギに笑いかける。彼もまた、慈しむようなまなざしを私に向けた。


「力になれてよかった。ゆらぎの浴衣姿、楽しみだな」


 ふわりと風が吹いて靡いた私の髪を、ツルギの指先がそっと耳にかけてくれた。壊れ物に触れるような、繊細な仕草だ。


 他の大体のゆらぎの行動は模倣できるけれど、この瞬間だけはわからない。ツルギに触れられたときゆらぎは、いったいどんな反応をするのだろう。気恥ずかしそうに微笑むのだろうか。それとも、はしゃいで彼に抱きつくのだろうか。


「あさぎ?」


 ゆらぎなら、後者の気もするがわからない。この迷いこそが、不信感を与えると思うのに。


「あさぎ? あさぎだろ?」


 ふいに背後から腕を掴まれ、はっと我に帰る。自分の名前を呼ばれているのに、すぐに気づけなかった。


「あ……景」


 振り返ると、学校帰りらしい景と目が合った。その隣には、相澤さんの姿もある。相澤さんは穏やかに微笑みながらも、私の腕を掴む景の手をどこか切なそうに眺めていた。


「奇遇だね、こんなところで会うなんて。相澤さんもこんにちは」


 景の手を振り解いて相澤さんに挨拶をする。正直、今ばかりは景との邂逅を喜べなかった。


「柚原たちが教室に残っていた奴らで決起集会しようっていうから来たんだが……どこいったんだか。見かけなかったか? 連絡もつかないし……」


 柚原くんは確か王子役を務める役者チームのリーダーだ。クラスの中心的メンバーで集まる予定だったらしい。小道具班といい、きっとクラスのあちこちのグループで似たようなことをしているのだろう。


「ううん、見てないよ」


 景と相澤さんがふたりで取り残されたのはなんとなく作為的なものを感じる。きっと、気を利かせた周りがふたりにしてあげようと考えたのだろう。現に、相澤さんは景ほど必死に他のメンバーを探しているようには見えなかった。


「あさぎは? 商業地区まで何しに来てたんだ?」


「浴衣を買いに来たの。ツルギと一緒に」


 景が登場してから、ツルギは一歩下がったところで会話を見守っている。外だから、声が聞こえるかどうかぎりぎりの距離だろう。


「そうか。……買い物が終わったなら、よければあさぎも合流しないか? 限定のレモンケーキがある店らしい」


 相澤さんの表情が、かすかに曇る。相澤さんからしてみれば、せっかく景とふたりの時間に、邪魔者が現れたような気分だろう。


「せっかくだけど、ツルギがご飯の準備をしてくれているみたいだから、今日は帰るよ」


 景が、冷めた目でツルギを見つめる。


「あさぎ……さっきあいつ、あさぎのことゆらぎって呼んでなかったか? 名前を呼び間違えるような不具合があるなら、あさぎのお母さんに相談するべきだ」


 心臓が、飛び跳ねたような気がした。


 ああ、だから景とツルギを引き合わせたくなかったのだ。景の勘のよさは、私の下手な芝居も、私とツルギを結びつけている理由も簡単に見抜いてしまうだろうから。


「さあ……聞き間違いじゃないかな?」


 いちどなら、この言い訳で通るはずだ。だが、景は疑念を捨てきれないまなざしで、私との距離を詰めた。


「笑い方だって、あさぎらしくなかった。あれじゃ、まるで――」


「――景に見せない笑顔があるかもしれないって思わない? 考えすぎだよ」


 彼の視線から逃れるように一歩引く。我ながら可愛げのない言い方をしたと思ったし、景も気に障ったようだった。


「俺に見せない表情でアンドロイドごときに笑いかけているんだったら、そんなに腹立たしいことはないな」


 景の瞳が、今までにないほど冷えきったのがわかった。思わず、びくりと肩を跳ねさせる。


 その瞬間、背後から思い切り肩を引き寄せられた。


「――やめてくれるかな、ゆらぎが怖がっている」


 心地よく澄んだ、ツルギの声だった。だが、まるで怒っているかのような不思議な熱を感じる。


「ゆらぎ、って、お前――」


 景の表情に明らかな怒りが滲む。放っておけばツルギにつかみかかりそうな勢いの景と、とっさに距離を取った。


「景! これは……これは、私たちの事情だから……関わらないで。景には関係ないよ」


 自分でもわかっている。これは明確に、彼を突き放す言葉だった。景の苛立ちがいっそう強まった気がする。


「早く、行きなよ。相澤さんもいるんだし、待たせたらよくないよ」


 それ以上景の顔を見ていられず、俯いたまま促す。景と相澤さんの黒い革靴だけが、ふせた視界に映り込んでいた。


「そいつがいないところで、必ず話を聞かせてもらう。……逃げるなよ」


 答えずにいると、やがて視界からふたりの靴が消えていった。どうやら今日のところは、諦めてくれたらしい。どっと疲れが押し寄せてきた。


「ゆらぎ? 大丈夫?」


 ツルギがそっと屈んで、私の顔を覗き込む。頬にそっと触れられて、慌てて笑みを取り繕った。


「あ……ごめん、平気だよ。……さっきのことは、気にしないで」


 ツルギの指が、確かめるように口角と頬をなぞった。そうして、満足いったとでも言うように目を細める。


「そうするよ。……じゃあ、帰ろうか、ゆらぎ」


 ツルギに手を握られて、ふらふらと歩き出す。さっきの会話のどこまでを、ツルギに聞かれていただろう。


 ……でもツルギ、きっと、あなたもわかっているんでしょう。


 言葉には出せないまま、彼の後に続く。


 いつか雪森さんが言った通り、確かに誰がどう見ても、私たちは歪な関係だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る