第2話

「やっぱり、ないよなあ……」


 その日、帰宅するなり早速ゆらぎのアトリエを覗き、ツルギが整理してくれた箱の中身を確認してみたが、やはり浴衣は見つからなかった。ついでにこの二年ほどのゆらぎの写真で彼女が浴衣を着ているものはないかAIに尋ねてみたが、やはりない。気が進まないが、新たに買うしかなさそうだ。


 箱の中から取り出したスケッチブックをひとつひとつ手に取って、再び箱に収めていく。厚紙でできた表紙には鉛筆が擦れたような黒い痕がいくつもあって、ゆらぎが手を黒くしながら懸命にスケッチしたのが伝わってきた。


 なんとなく、一冊のスケッチブックをぱらぱらと開いてみる。りんごや彫像、花瓶など、他愛もないものだったが、あるときから人物のスケッチに切り替わった。


 ……あ、これは雪森さんかな。


 どこかいたずらっぽく笑う少女の姿に、いつか美術館で出会った彼女の同級生の顔が蘇った。彼女はゆらぎの親友だと言っていたが、ゆらぎも同じ気持ちだったようだ。明らかに、親しみと温もりを帯びた絵だった。


 ぱらぱらと再びめくっていると、不意に見慣れた顔が現れた。おそらく、今より少し幼い私だ。


 場所は、ゆらぎのアトリエだろうか。古びたソファーに腰掛け軽く膝を組んで、視線を手元の本に落としている。開いた窓のそばでは軽やかなカーテンがなびいていて、空気の流れがこちらにまで伝わるようだ。


 ……ちょっと、美化しすぎな気もするけれど。


 これだけを見れば、どれだけ涼しげな美少女だろうと思ってしまう。ゆらぎの贔屓目が入っているような気がした。


 その後、何枚も何枚も、私の絵が続いた。どれも静かに微笑んでいて、非常に理知的な印象を受ける。だんだん気恥ずかしくなってきた。


 ……ゆらぎの自画像はないのかな。


 同じ顔だが、明らかにここに描かれているのは私だ。ゆらぎが笑うときは、もっとぱっと花が咲くように華やかで明るいのだから。


 一枚一枚捲り続けていると、ふと、私の絵から青年の絵に切り替わった。こちらも見慣れた顔だ。人並み外れて整った目鼻立ちと、しみもほくろもない滑らかな肌。ツルギだ。


 元は絵のモデルも兼ねて迎えられたアンドロイドなのだから、モデルになるのも納得だ。どこか無機質な印象を抱くツルギの姿が何枚も続いた。


 最後のページまで見て、次の番号のスケッチブックに手を伸ばしてみる。ツルギと暮らし始めてからのスケッチなのか、途中で私や雪森さんのスケッチが挟まることもあるが、基本的にはツルギ一色になっていく。


 正直、驚いた。どのツルギの姿も、今とはまるで違う。いかにもアンドロイドらしい、機械的な表情を浮かべた姿だった。微笑んでいても、まるで熱を感じない。心があるのでは、と錯覚する絵は一枚もない。


 ぱらぱらとページを捲り続けていると、ふいに、色鉛筆で描かれた絵が現れた。ざっと色付けしているだけなのか、荒い印象を受けるが、既視感のある絵の構図に思わず手が止まる。


 それは、いつかゆらぎが描いていた星と少年の絵だった。紺色の空に金や銀の星が一面に散っていて、その空の下、静かに横たわる灰色の髪の少年が、星と同じように淡く光っている。


 これは、あの絵の下書きのようなものなのだろう。白黒のスケッチの中に突然この一枚を混ぜたことに微かな違和感を覚えながらも、再びページを捲る手を再開した。


 次のページからもツルギの絵が続いていた。だが、先ほどまでとは何かが違う。全体的に、雰囲気が丸みを帯びたような気がするのだ。


 ……目が、違うのかも。


 ツルギのまなざしが、明らかに変わった。今のツルギに近い目をしている。機械的に浮かべていたはずの微笑みにも、どこか熱を感じる。


 知らぬ間に、心臓が早鐘を打っていた。うるさいほどに頭の中に鳴り響く鼓動を聞きながらも、ページを捲る手を止められない。脳裏には、自然といつかゆらぎが見せてくれた星の形をした何かのレプリカだという作品が浮かんでいた。


「っ……」


 最後のスケッチブックの、終盤のページで、思わず息を呑んだ。


 それは、やはりツルギを描いたスケッチだった。ツルギはこちらを見て、美しい微笑みを浮かべている。


 だがその眼差しは、とてもアンドロイドと呼べるものではなかった。あふれんばかりの慈しみと、愛しさと、そして焦がれるような生々しい熱をわずかに帯びた目だった。


 明らかに、描き手への――ゆらぎへの愛情を感じる。この目は、人間が愛しい者に向ける、甘いまなざしだ。


 そしてゆらぎの絵も、それに応えているように見えた。繊細なタッチも、彼の雰囲気丸ごと写しとったかのような鮮やかな臨場感も、何もかもに彼への愛を感じる。


 明らかに、これは相思相愛の絵だった。何も知らなければ、画家が恋人を描いた絵だと思うだろう。


 スケッチブックを持つ手が震える。私は今、ツルギとゆらぎの秘密を、見つけてしまったのではないだろうか。


「ゆらぎ?」


 背後から声をかけられ、はっと振り返る。思わずスケッチブックを胸に抱きしめた。


「ごめん、いきなり話しかけて。ノックしても返事がなかったものだから、入ってきちゃった」


 ツルギは、いつも通りだった。ちらりと時計を確認すれば、夕食の時間になっていた。ずいぶん長い間、スケッチブックに夢中になってしまったらしい。


「昔の作品を見ていたの? 珍しいね」


 ツルギは、あたりに散らばったスケッチブックを一冊ずつ拾いながら、まとめて箱の中に戻した。


「それもしまう?」


「あ……」


 スケッチブックを抱き抱えていた手を緩め、ツルギに手渡す。知らぬ間に指先が震えていた。


「食事の準備ができたよ。行こう、ゆらぎ」


 床に座り込んだ私に、彼が手を差し伸べる。手を重ねた瞬間、力強く引き寄せられた。


 ふらり、とバランスを崩してしまい彼の胸に頭が当たる。つないでいないほうの彼の手が、そっと私の前髪を撫で、額にくちづけた。


 彼の指先が私の髪を梳いていく。慈しむような繊細な手つきに、なんだか泣き出したくなった。


 ……ツルギ、やはり、あなたには――。


 すべての事実から目を背けるように、彼の胸に額を擦り付ける。


 スケッチブックを見てからずっと、脈は早いままだった。ときめいているから、なんて理由だったらいっそよかったのに。


 窓から差し込んだ夕焼けが、ぴたりとくっついたふたりの影を長く伸ばす。その影はまるで恋人たちを映し出したかのようだった。


 ◇


 ツルギとゆらぎの秘密に、おそらく私は辿り着いてしまった。


 その衝撃からうまく抜け出せず、どこかぼんやりとした心地のまま日々が過ぎていた。気づけば、学祭初日は明日に迫っている。


 衣装の小さなほつれを黙々と直しながらも、頭の中ではツルギとゆらぎのことを考えていた。あの慈しむようなまなざしをしたツルギの絵が、ずっと眼裏に焼き付いて離れない。


「っ……」


 ちくりと左の人差し指に鋭い痛みが走って、はっと我に帰った。遠くに聞こえていたような教室の雑音が、鮮やかに降りかかってくる。教檀のそばでは、役者チームが演技をしながら最終調整をしていた。


 人差し指から、ぷくりと赤い血が浮き出してくる。ハンカチを取り出し、それに血を吸わせた。針で刺した程度だから大した傷ではないが、衣装が汚れてしまったら大変だ。


「あさぎ、ヒロインの衣装直ったか?」


 忙しそうにあちこち駆け回っていた景が、視界に飛び込んでくる。準備の最終日というだけあって、今までになく忙しそうだ。


「直ったよ。持っていっても大丈夫」


「手、怪我したのか」


 景の表情が曇る。案外心配性な彼を安心させるように、ハンカチから手を抜いてひらひらと振って見せた。


「ちょっとした針刺し事故だよ」


「縫合はうまいくせに、裁縫はだめなんだな。生活力のなさが露呈してる」


 いつものように軽口を叩きながら、彼はポケットから絆創膏を取り出した。鋏でわずかに切り込みを入れたかと思うと、慣れた手つきで指先に巻きつけてくれる。


「驚いた、持ち歩いているの」


 鋏はともかく、絆創膏まであるとは思わなかった。


「大道具係も小道具係もちょっとした怪我が絶えないから、持ち歩くことにしたんだ。便利だろ」


「歩く処置カートだね」


「もうすこしいい言い方しろよ……」


 景が巻いてくれた絆創膏を眺める。切り込みを入れたおかげで、指先にしっかりと密着している。動かしてもずれにくそうだ。


「……最近、ずいぶんぼうっとしているみたいだけど、何かあったのか」


 ふと、真剣な声音で景が尋ねてくる。忙しいくせに、私のことをよく見ているらしい。


「そうだね……何かあったというか、見つけてしまったというか……」


 確証のない話だ。忙しい景にわざわざ話す必要はないだろう。それに、この件にあまり景を巻き込みたくなかった。


「景! ちょっときてくれ! 最終確認がしたい!」


 役者チームのほうから、声がかかる。景は振り返ってさわやかに返事をした。


「今行く、ちょっと待っててくれ」


 断りを入れてから、彼は再び私に向き直った。私の言葉の続きを、聞いてくれようとしているらしい。


「景、私は大丈夫。今は学祭に集中してよ。あ、衣装のほつれがあったらまた直すから、持ってきてね」


 衣装を軽く畳みながら景に手渡す。特別裁縫が得意なわけではないが、手が空いている人間は少ないから請け負うつもりでいた。


「わかった、学祭が終わったらクレープでも食べながら聞かせてくれ。……たしか、あさぎに二回奢ってもらわなきゃいけないはずだからな」


「忙しさで忘れてくれてたらよかったのに……」


 この二週で小テストがふたつ行われたが、私は景に数点差で負けていた。ちょっとした計算ミスと、字が汚過ぎて判別されなかった漢字の減点分の差だ。悔しい。


「忘れるわけないだろ」


 景はどこか悪戯っぽく笑うと、ヒロインのドレスを片手に抱えて去っていった。水色の生地がひらひらと靡いている。


「橘さん! ごめん、ちょっと手借りていい?」


 教室の隅で小道具の最終調整をしていたグループから声がかかる。


「もちろん」


 眼裏に浮かぶツルギの絵から逃れるように、作業に没頭する。景にすら相談できなかったのだ。この件には、私ひとりで向き合わなければならないだろう。

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