第五章 恋

第1話

 三日ぶりに登校した高校は、すっかり学祭一色に染め上がっていた。学祭自体は二週後だが、これから朝の時間や放課後にすこしずつ準備を進めていくのだ。


「あさぎ、もう体調はいいのか」


 教室の隅でクラスメイトと作業をしていた景が、わざわざ手を止めて様子を見にきてくれた。白いシャツを腕まくりして、活動的な姿だ。


「うん、おかげさまで。もうすっかりいいよ」


「よかった。病み上がりだから無理するなよ」


 心底ほっとしたように笑う景の頬には、青いペンキが付いていた。どうやら、劇で使う小道具の制作をしていたらしい。よく見ればシャツにもペンキが点々と飛び散っている。


「景、不注意だね。ペンキがついてるよ」


 背伸びをして、景の頬についたペンキを指先で拭う。だが、薄く伸びただけであまり取れなかった。


「ごめん、却って広げちゃった」


「何してんだよ……」


 景は手の甲で頬を拭いながらも、ふい、と視線を背けてしまった。わずかに耳の端が赤い。まるで寒いところから帰ってきたみたいだ。


 制服のポケットからハンカチを取り出し、景に差し出した。なんの変哲もない、タオル生地のハンカチだ。


「あさぎの手のほうが汚れたじゃないか」


 景はそう言って、ハンカチを受け取るなり私の指先を拭いてくれた。確かに、うっすらと指全体が青くなっている。


 景の触れ方は丁寧だった。私の肌にいっさいの傷をつけまいとするかのようで、くすぐったい。


 思わずふ、と頬を緩めていると、ふいに彼の隣で長い髪が揺れた。


「星川くん、ちょっと、手伝ってほしいところがあって」


 波打つような柔らかな黒髪のその少女は、学祭の実行委員でもある相澤さんだ。景とともに、クラスの中心になって学祭準備を進めているのだろう。


「ああ、悪い。……あさぎも、元気だったら放課後にでも一緒に準備しよう。どうせ、裏方志望なんだろう」


「うん、ありがとう。そうするよ」


 みんなで何かに取り組むのは好きだが、目立つのは苦手だ。小道具作りの手伝いなんて、まさに私にうってつけだった。


「これ、借りていくな」


 景はハンカチを軽く上げて爽やかな笑みを浮かべると、そのままみんなの輪に戻っていった。景を呼びにきた相澤さんが、取り残されるかたちになる。


「橘さん……もう、体調はいいの?」


 相澤さんはどこかぎこちない微笑みを浮かべながら尋ねてきた。


「うん、ちょっと風邪ひいただけ。今はもう平気だよ」


「そう……よかった」


 挨拶程度の他愛もない話かと思ったが、相澤さんはまだ立ち去らなかった。何か言いたそうに視線を彷徨わせている。


「……あの、何かあった? 学祭準備のことなら、私にできることならなんでもするよ。役者はちょっと、遠慮したいけど」


「ありがとう。……でも、聞きたいのは、それじゃなくてね」


 相澤さんは意を決したように、伏せたまつ毛を跳ね上げた。光にあたると、頬にまつ毛の影が落ちてきれいだ。


「あのね……その、橘さんと星川くんって付き合っているのかな、って、思って」


「え?」


 相澤さんは顔を真っ赤にして続けた。


「ふたりとも、すごく仲がいいから……もしそうなら、誰にも言わないから教えてほしいの」


 白く抜けるようだった細い首まで赤くして、相澤さんがじっと私の返答を待っていた。ひどく、緊張しているようだ。


「付き合ってないよ。幼馴染というだけで……」


 事実を、ありのままに伝える。相澤さんが、ぱっと顔を上げた。


「それじゃあ……私が星川くんに告白しても、迷惑じゃないかな?」


 教室の隅でするには少々大胆な話だ。だが、ここでもなければ私と話せないとでも思ったのだろう。相澤さんはそれくらい真剣だった。


「星川くんのこと、すてきだなって思ってて……できたら、学祭中に告白したいの」


 景も隅に置けない。クラスのいちばん人気の女子に好かれるなんて。


「いいね。迷惑かどうかは景が決めることだし、私に断らなくてもいいと思うよ」


「橘さんは、嫌じゃない? 私と、星川くんが付き合うことになっても」


 景の恋愛絡みの想像なんてしたことがなかった。ぼんやりと、景と相澤さんの姿を思い浮かべてみる。


 放課後、正門近くの人混みの中で、景と相澤さんが手を繋いで歩いていて、相澤さんが嬉しそうに笑うと、景も柔らかく微笑む。


 想像するだけで、こちらも頬が緩んでしまうほど幸せな光景だった。


「そうだね、景が笑っていられるなら、いいと思う。応援してるよ」


 心からそう言ったつもりだが、相澤さんの表情は晴れなかった。それどころか、くしゃりと泣きそうに顔を歪めて微笑む。


「橘さん……それはたぶん、自覚していないだけだよ」


「自覚?」


 相澤さんは切ない微笑みを浮かべると、不意に元気付けるようにぱんと自分の頬を叩いた。


「ううん、でも、付き合ってないのはおんなじだもんね。……橘さん、私、負けないよ」


 相澤さんは何かを吹っ切るように、凛とした笑みを見せた。ころころと表情が変わる人だ。


 他のクラスメイトたちに呼ばれて、相澤さんはその言葉を最後に去っていった。

 今から手伝えることはなさそうなので、そのままいつもの定位置に座る。ついくせでタブレットに手を伸ばしたが、起動させることはしなかった。


 取り憑かれたように解き続けていた読影問題に、今日は取り組もうとは思えなかった。昨日、ツルギに色々と吐きだしたせいか、問題を解いていなくとも、心が凪いでいるような気がする。


 ……それにしても、あの話は「ゆらぎ」らしくなかったよなあ。


 泣き止んでから、失敗したと思った。ゆらぎはきっと、あんなふうに泣かないし、弱音も吐かない。ツルギに縋り付いて泣きじゃくるなんて真似、絶対にしないだろう。


 今日からは、もうすこし気をつけなければ。私はまだあの愛しい現実逃避を終わらせたくない。


 ◇

 

 学祭の準備期間であるせいか、教室は授業中もどこか浮き足だっていた。このクラスで行うのは、おとぎ話をモチーフにした劇で、どうやら代々受け継がれている脚本があるらしい。そのため衣装なども本格的なものが揃っているようだ。


 相澤さんは、その劇の主役、ガラスの靴を落とすお姫様役だ。相手の王子は景なのかと思ったが、違う運動部の男子が演じるらしい。景は、小道具制作などの裏方チーフを務めているようだ。


 ……相澤さんは、残念がっただろうな。


 朝のあの様子だと、作中で恋人同士となるような役を景と演じたかったに違いない。景も罪深いやつだ。


「橘さん、こっちもお願いできる?」


 同じ小道具制作の男子が、目の前に何枚かのベニヤ板を置いていく。今の私の役目は、この板たちに指定された色をひたすら塗っていくことだ。単純作業だが、板一枚一枚が私の身長くらいの長さがあるため、労力はそれなりにかかる。


「もちろん、これが終わったらやるよ」


 かと言って他のクラスメイトは、皆、私以上に忙しいのだ。学業を優先するために短期集中で準備期間を取るこの高校の慣わし上、のんびりはやっていられない。私としては、三日分の遅れを取り戻したい気持ちもあった。


 ……でも、楽しいかも。


 基本的に作業はひとりだが、すこし顔を上げれば同じジャージ姿でせっせと小道具作りに勤しんでいるクラスメイトがいる。今年はあまり楽しみではないと思っていた学祭も、いざ準備が始まれば悪い気はしなかった。


 ようやく一枚のベニヤに緑色のペンキを塗り終えて、額の汗を拭う。まだ本格的な夏というにはずいぶん早いが、屋外で集中して作業をすると汗ばむ気温になってきた。


「あさぎ、無理するなよ、病み上がりなんだから」


 背後から話しかけられ振り返ると、器具やら筆やらがいっぱいに詰まった段ボールを抱える景の姿があった。


「平気、楽しいよ」


「おい、まさかそれ全部塗るように言われたのか? ひとりで?」


 景は段ボールを地面に置くと、私の目の前の板に触れた。それぞれの隅に鉛筆で色指定がしてある。


「単純作業だから、そんなに苦ではないよ」


「まあ、みんないっぱいいっぱいだからな……」


 そう言いながら景は筆を手に取ると、真新しいベニヤ板を塗り始めた。


「景、いいよ。リーダーが不在だと、みんなが困るでしょう」


「今はすこし手空いてるから、呼ばれるまでな」


 景は私の倍くらいのスピードで板を塗り進めていく。手際がいいのが憎たらしいところだ。


「そういえば、あさぎが休んでいる間に、後夜祭でクラス全員が浴衣を着ることが決まった」


「え!? 浴衣? 持ってないよ」


 後夜祭では、短いが花火が打ち上げられる。花火大会に行くときと同じような要領で、確かに昨年も、浴衣を着ている学生たちはちらほらと見かけた。上級生たちには特に多かった気がする。私はもちろん、いつも通り制服姿で花火を楽しんだのだ。


「担任からは全員着ないなら誰も着るなとのお達しだ。仲間はずれを作りたくないらしい」


「そんな……」


 公平にしようとするのはいいが、これではほぼ強制ではないか。


 ……買いに行くしかないかな。


 ゆらぎも、おそらく持っていなかった気がする。ゆらぎの高校でも学祭があり、同じように花火が打ち上げられていたが、あちらでは浴衣というより仮装をして花火を見るのが慣わしのようなのだ。ゆらぎもたしか、季節外れのハロウィンのカボチャの帽子をかぶって楽しんでいたはずだ。


 幼いころに家族で花火大会にいったことはあるが、あのころの浴衣は当然もう着られないだろう。やはり、買いに行くしかない。


「あさぎ」


 景が、ペンキを塗る手を止め、私に背を向けたまま切り出した。


「その、もしよければ、学祭の前日にでも――」


「――景! こっちの大道具って、どこまで組み立てればいいんだっけ!?」


 遠くから、景を呼ぶ男子の声がする。自分の背丈ほどもある大道具を引きずって何か言っているようだ。


「組み立てすぎだ! ……まったく、どうやって校舎に入れるんだよ」


 筆を置いて、景が立ち上がる。最後はほとんど嘆くような口調だった。


「早くいってあげて、ここは大丈夫だから」


 こちらの単純作業とは違い、あちらには景の指揮が必要そうだ。景が先程まで手にしていた筆を取って、塗りを再開する。微かに、景の手の温もりが残っていた。


「あ……そうだな、悪い」


「全然、頑張ってね」


 ひらひらと手を振って、景を見送る。Tシャツ姿の景の後ろがぐんぐん遠ざかっていった。


 ……浴衣か。


 予想外の予定ができてしまったことに、小さく息をつく。


 やっかいな決めごとをしてくれた担任だが、それでも、景の浴衣姿だけは楽しみなような気がした。

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