第3話
しつこい風邪だったのか、はたまた私が弱っていたのか、その後結局三日間私は寝込んでしまった。当然高校は休み、つきっきりでツルギの看病を受ける毎日だ。
景からは、毎日メッセージが来た。学祭では御伽話をモチーフにした劇をやることになったという他愛もない知らせや、薬を持って行こうかという提案など、ずいぶん気にかけてくれている。
見舞いにも来たがっていたが、風邪を移しても困るので断っておいた。ひとりなら差し入れくらい頼んだかもしれないが、ツルギがいるおかげで困っていることはないのだ。
だが、三日目の夕方、筆不精な母がメッセージをよこしたとほとんど同じ時刻に、母が家を訪ねて来た。
「体調を崩したと聞いたけれど、大丈夫なの」
三日も休めば、さすがに親に連絡がいくらしい。あるいはあのおせっかいな養護教諭が余計な真似をしたのかもしれないが。
寝巻きから部屋着に着替えた状態で、リビングで母の応対をする。寝ていてもいいと言われたが、熱はかなり下がっているし、部屋が散らかっているとでも言われようものなら気が滅入りそうだった。
「平気だよ、連絡しなくてごめん。忙しいかなと思って」
母はSEで、AIの不具合を修正する部門に属している。AIの医師と言ってもいいかもしれない。現代では、ひょっとすると人間の医者よりも重宝される存在かもしれなかった。
「体調のこと、誰から聞いたの? 学校?」
「星川くんのお母さんからよ」
実家が近くにあるだけあって、私の母と景のお母さんは友人同士だ。景とは家族ぐるみの付き合いなのだ。
「そっか……」
「星川くんは、変わらずあさぎのこと気にかけてくれているのね。付き合ってるの?」
「そんなわけないよ……景は人気者なんだから」
「ふうん、お母さんはお似合いだと思うけれど」
母とはあまりこんな話をしてこなかったから、気恥ずかしい。
視線を彷徨わせていると、助け舟を出すようなタイミングで、ツルギがお茶を運んできた。母には温かい緑茶で、私には飲みやすいように冷たい麦茶にしてくれたらしい。
「ありがとう」
いつものようにツルギに礼を述べると、彼は何も言わずに小さく微笑んだ。話の邪魔をしてはいけないとでも思ったのか、そのままアトリエのほうへ下がっていく。
母は結局ツルギに一言もかけることはなかった。昔から、そういうひとだ。
「珍しいわね、あさぎ。あなたが、AIに親切にするなんて。AI嫌いじゃなかった?」
麦茶のコップに口をつけ、一口飲み込んでからおずおずと頷く。
「うん……今でも、得意なわけじゃないけど」
「まだ、お父さんのことを引きずっているの?」
どくり、心臓が揺れる。脳裏に、白黒のCT画像が何枚も蘇った。
「引きずって、いるというか……」
「あれは、誰のせいでもないわ。もちろん、AIのせいでも。それに、今は、あのころとは比較にならないほど精度が向上している。……聞いたわよ、他のみんながAIに任せるような読影分野に固執して、休み時間もみんなと交流せずに読影問題を解いているんですって?」
相変わらず、嫌なところをついてくる人だ。嫌いなわけではないけれど、長く会話を楽しめたことはあまりなかった。
「それも、景のお母さんから聞いたの?」
「これは、保健室の漆戸先生からよ」
またあの養護教諭か。本当に余計な真似しかしない。舌打ちがうまくできればしたいくらいの気持ちだった。
「……別に、いいでしょ。悪いことじゃないし、どれだけAIの精度が向上しようとも最後に診断を下すのは人間の医者だし。それなら、自分の目でもAIと同じくらい正確に判断できたほうがいい」
「そうだけれど、それでお友だちとの交流や星川くんとの付き合いを疎かにするのはおかしいと言っているの。お父さんも、そんなことは望んでいないわよ」
「お父さんが望んでいるかいないかなんて関係ない。私の心が楽だからしているだけ。いいでしょ、別に。誰にも迷惑かけていないんだから。それに、言うほど人付き合いを疎かにしているつもりはないよ」
こういう言い方が母の気に障るとはわかっていながらも、言わずにはいられなかった。
「お母さんは、あなたを心配して言っているのよ。どうしてそう、反抗的なの……」
はあ、と深いため息をついて、母は頭を抱えてしまう。いつもそうだ、ふたりで話すと必ずこうなる。
――まあまあ、お母さん、あさぎが勉強しているのは悪いことじゃないのは確かでしょう? あさぎも、お母さんはほんとに心配しているだけなんだからあんまりとげとげしないで。ふたりともそのくらいにしておやつでも食べようよ。
空いた席で、ゆらぎがぱっと明るい笑みを浮かべて間をとりなしてくれる姿が見えたような気がした。ゆらぎと三人でいれば、私たちは初めから終わりまで楽しく会話ができたのだ。
たぶん、ゆらぎと母はふたりでも喧嘩することなく会話ができるのだろう。母のストレスも、ゆらぎと話すときのほうが少ないのは明白で、実家にいるときのちょっとした用事や話なら、ゆらぎにすることが多かった。ゆらぎは誰とでも気が合うのだ。
「ゆらぎが、いてくれれば……」
ぽつり、と母はつぶやいた。気が合わないけれど、考えることは同じだ。
父が亡くなったときも、母をいちばん支えたのはゆらぎだった。私は悲しみに暮れるばかりで、母のことなどまるで気にかけられなかったのに、ゆらぎはいつでも母のそばにいた。
そういうところも、今に影響しているのかもしれない。
愛されて大切にされていることはわかっているから「ゆらぎでなく、私がいなくなればよかった」なんて、そんな幼稚なことは言いたくないけれど、それでも時折思うことがある。
ここにいるべきは、ゆらぎのほうだった、と。そう思う瞬間が、私の周りにはありすぎる。
「具合悪いから今日は帰って。また連絡する」
私から会話を切り上げて、席を立つ。母も反対はしなかった。
母もきっと、疲れているのだろう。ゆらぎを失った悲しみから立ち直れているとは思えない。仕事をして、気を紛らわせているだけだ。その証拠に、ひとまわり痩せたような気がした。
「……ケーキを買ってきたから、食べられそうならあとで食べなさい」
玄関で、思い出したように母は言った。そういえば、ツルギに何か白い箱を預けていた気がする。
「うん、ありがとう。……お母さんも体調には気をつけてね」
「ええ」
玄関口で母を見送って、リビングに戻る。母の帰りを悟ったのか、ツルギがリビングに戻っていた。
「お見送りできなかった。失礼なことをしてしまったね」
「大丈夫。気にするような人じゃないから」
麦茶が置かれた席に座って、ため息をつく。ツルギがさっそく、母の使った湯呑みを下げていた。
「お母さんから、ケーキを預かっているよ。食べる?」
「うん」
食欲も、かなり戻ってきた。悪くなっても困るし、今のうちに食べてしまおう。
母には、ツルギが私とゆらぎを混同していることは伝えていない。ただ、ゆらぎの使っていたアンドロイドをそのまま引き取るとだけ言って、この家に連れてきたのだ。相談すれば、きっと母は正しくツルギを直してくれるのだろう。
それでも、今は不思議なくらいツルギのことを母に伝えようとは思わなかった。この現実逃避を、壊されたくない。
「はい、どうぞ。温かい紅茶も淹れたから飲めそうだったら飲んでね」
数分して戻ってきたツルギが、私の目の前にケーキの乗った皿とティーカップを置く。
ケーキは、昔から私が好んでいるレアチーズケーキだった。ケーキの上にはブルーベリーやイチゴがたくさん載っていて、五歳の時に父が買ってきてくれたときから、私の好物になっていた。
しかも、実家の近くの懐かしい菓子店のものだ。母は、わざわざそこに立ち寄って買ってきてくれたらしい。
両親とゆらぎとケーキを食べた日のことを思い出して、ぐ、と胸が詰まる。あの光景はもう二度と戻らない。
「どうしたの? 具合悪い?」
ツルギが、心配そうに顔を覗き込んでいる。油断すれば泣きそうだ。目尻を必死に抑えて、取り繕うように笑ってみせた。
「なんでもないよ」
「本当に? 目が赤いよ」
ツルギの指先が、そっと目のきわをなぞる。くすぐったくなるほどの優しい触れ方に、余計に泣いてしまいそうだった。
「違うの……ただ、このケーキは、亡くなったお父さんとも食べた思い出のケーキだから」
私をゆらぎだと思っている彼に、ゆらぎのことは語れない。
「ゆらぎが、八歳のときに亡くなったんだよね。……寂しかったね」
ツルギは私の隣の椅子に座ると、そっと肩を引き寄せるようにして抱きしめてくれた。思わず、彼の肩に顔を埋めるようにして嗚咽を漏らす。具合が悪いせいか、涙をうまく止められなくて困る。
「私ね……私、本当は、AIなんて嫌いだったの」
涙と一緒に、心の中で渦巻いているものが勝手に吐き出されてしまう。ツルギは、私の頭をそっと撫でながら静かに耳を傾けていた。
父は、私が八歳のときに癌で亡くなった。一度は寛解して、母と同じ仕事に復帰もできていたが、私が八歳の秋に再発して、年が明けるころには帰らぬ人となってしまった。
私がCT画像にこだわるのも、父の件があったからだ。父は、夏の定期受診で頚部リンパ節の腫大を指摘されていたが、AIは95%の確率で「炎症による一時的な反応性変化」だと診断し、主治医もそれを信頼した。秋の受診時には、リンパ節腫大は身体中に広がっていて、今度は転移と診断された。
医学を学んだ今、夏の時点でのAIの判断も医師がそれを信頼したのも、まったくの間違いではなかっただろうと思う。けれど、幼い私はそう思えなかった。あの時点で気づければ、何か動いていれば、お父さんはもう少し長く、一緒にいてくれたのではないかと思えてならなかったのだ。
以来、医学の道に進んでからも、取り憑かれたように読影問題ばかり解いている。そのせいでクラスに馴染めなくても、それでいいと思っていた節は否めない。私は今も、父の死を引きずっていた。
なんとなくAIが苦手なのもそれが原因だったけれど、その私が今、こうしてアンドロイドに縋り付いて泣いているなんて我ながら信じられない。昔では考えられなかった。
ツルギと暮らしてからAIに対する考えが揺らいでいるのは自分でもわかっていた。それはあまりに人間らしいツルギのせいでもあるし、ゆらぎの死因のせいでもあるのだと思う。
あの日、ゆらぎに突っ込んだあの車が、AIの搭載されている完全自動運転車だったら。
そうしたら、車はゆらぎにぶつかるどころかガードレールに接触する前に止まって、ゆらぎは死ななかったのに。ゆらぎは今もあのひだまりのような笑みを浮かべて、私のそばにいてくれたのに。
父は医師がAIに頼ったせいで亡くなったけれど、ゆらぎはあの運転手がAIに頼らなかったせいで亡くなったのだ。その矛盾が、私の心をいっそう不安定にしていた。
「今も、AIは嫌い? ぼくのことも、苦手なの?」
穏やかなツルギの声に、また一粒涙を流す。大粒の涙の感覚が、頬を伝っていった。
「わからない……でも、ツルギのことは嫌いじゃない。嫌いじゃ、ないよ」
嫌いだったら、こうして彼の腕の中で泣くことなんてできない。自分で思っているよりも私は、彼に心を許しているようだった。
「よかった。それで、十分だよ。きみが他の何を拒絶しても、ぼくを嫌いじゃないと思ってくれるなら、それでいいよ」
ツルギはそう言って笑うと、そっと私の目尻にくちづけた。「ゆらぎ」を労るようなその行動に、余計に涙が溢れてくる。
ごめん、ごめんね、ゆらぎじゃなくてごめん。
「ごめん、嫌だったかな。大切なひとにそうするって、本で読んだから」
ツルギは慌てたように私の顔を覗き込んだ。ぽろぽろと涙を流しながら首を横に振って、再び彼の肩に頭を預ける。
「嫌じゃないから……私が泣き止むまでこうしていて」
「もちろん。いつまででもこうしてるよ」
ツルギもまた、私の頭に自らの頭をすり寄せるようにいっそう距離を縮めた。作られた温もりに、こんなに安堵してしまっている私はどうかしている。
……ずっと、このままでいいのにな。
ゆらぎがいない現実も、不安定な心とも向き合わずに、ツルギとこうして穏やかに暮らしていられたら。そうしたら、どれだけ安らかに生きられるだろう。
きっと正しくはないその選択が、ふたりきりの部屋の中では、どうにも輝いて見えて仕方がなかった。
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