第2話

 さらさらと、髪を撫でられるような感触がして、まつ毛を震わせる。


 わずかに開いた瞼の隙間から、ツルギの姿が見えた。どうやら、彼が髪を撫でているらしい。


 ……寝ている間、ずっとそばにいてくれたのかな。


 結局おかゆも食べず薬も飲まずに、長く眠ってしまった気がする。それでもなお瞼が重たくて、抗えぬままわずかに開いた瞼を閉じた。ツルギは、私が起きたことに気づいていないようだ。変わらぬ調子で、私の髪を弄ぶように撫でている。


「ゆらぎ」


 囁くような、聞いたことのない声だった。どこか、甘い響きを帯びている。瞼の重みに抗うように、ほんのすこしだけまつ毛を上げた。


「……ゆらぎ」


 もういちど名前を繰り返して、彼は泣き出しそうな表情で私の髪をとると、そっと毛先にくちづけた。


 その一連の行動に、どくり、と心臓が跳ねる。


 薄暗がりの中で人の髪にくちづける彼が綺麗だったから、とか、そんな理由ではない。今、私が見たものが、一体のアンドロイドが起こした行動だとは思えなかったからだ。


 それこそ、まるでゆらぎに焦がれるひとりの青年だと言われたほうがよほどしっくりとくる。


 使用者への好意を表す高度なプログラムなのかとも一瞬考えたが、私が眠っていると思ってあんな行動をしているのだ。意味がない。


 何か、見つけてはいけないものに気づいてしまったような気になって、心臓がばくばくと暴れ出していた。拾い集めた小さな点と点が、結びつきそうになって怖い。


「ゆらぎ……? 起きたの? ひどく心拍数が上がっているけど、どこか苦しい?」


 ツルギの手が、そっと頬に添えられる。人と同じ温もりの、青年らしい手だった。思わず、びくりと肩が跳ねる。


 私に触れているこれは、この人は、何者なのだろう。


 ゆらぎの死を知らぬまま、遺伝子情報が同じであるばかりに私とゆらぎを混同して、私に仕える憐れなアンドロイド。その像が、ぐらりと揺らいでいくのがわかった。


「あ……ツルギ」


「大丈夫? 病院へ行こうか?」


 具合の悪さも一瞬遠のくほど、動揺していた。


 それを悟られないように軽く俯きながら、体を起こす。すぐに、ツルギの手が背中を支えてくれた。


「……平気、どこも痛くないよ」


「本当に? 無理はしないでね、ゆらぎ」


 心なんてものはないはずなのに、心底心配しているような声音だった。警鐘を鳴らすように、頭の中で心臓の音がばくばくと響き渡っている。油断すると、ベッドに倒れ込んでしまいそうだ。


「……おかゆ、作ってくれたんだよね。食べたいな」


「よかった、食べられそうなんだね。今、作り直してくるよ」


 時刻を確認すれば午前十一時を過ぎたところだった。きっと、彼がおかゆを作ってから三時間ほど経過しているのだろう。


「ふやけてても平気だから、作り直さなくていいよ。……できたてを食べられなくて、ごめん」


「ゆらぎの体調が最優先だから、そんなこと気にしなくていいんだよ。……それじゃあ、温めるだけ温めてこようかな。すこしだけ待っていて」


 ツルギが部屋を出ていくのを見送ってから、深く息をつく。まだ暴れたままの心臓を、必死に鎮めようと深呼吸を繰り返した。


 何かが、つながりそうな気がするのに、熱で浮かされた頭ではあと少しのところで届かない。


 いや、本当は、もう気づいているのにわからないふりをしているだけなのかもしれないけれど。自分で自分を欺くなんて、馬鹿げている。


 呼吸を整えているうちに、ツルギが戻ってきた。手に持っているトレーの上には、深い器に入った卵粥と水、解熱剤らしき薬が載っている。


「ありがとう」


 早速トレーから木のスプーンを手に取ろうとしたが、すぐに指先から滑り落ちてしまった。先程の動揺から、まだ抜け出せていないらしい。


 ぎゅ、と指先を握り込んでもういちどだけ呼吸を整えると、ツルギの手がスプーンを取るのがわかった。そのまま、器の中のおかゆをちょうどよく一口ぶんすくって、私の前に差し出してくる。


「いいよ、ちょっと力が入らなかっただけで、普通に食べられるよ」


「ぼくがしてあげたいんだ。だめ?」


 口もとまでスプーンを差し出され、引くに引けなくなる。まつ毛を伏せて、仕方なく口を開く。さすがはアンドロイドというべきか、溢れることなく上手に食べさせてくれた。


 ……まあ、保育や介護の場でも活用されているくらいだし。


 出汁が効いた優しい味わいの卵粥だった。ゆらぎも、体調が悪いときにはよく食べていたものだ。


「食べられてよかった。口に合うといいんだけど」


 ツルギは、柔らかく微笑んで私を見ていた。だがその瞳に、不思議な熱を見つけたような気がして、ざわりと心が揺らぐ。


 ツルギはゆらぎの食事風景が好きなようだが、食べさせるのはもっと好きなようだ。結局そのまま数口分、ツルギの手ずから食べさせてもらった。


 解熱鎮痛薬を口に含み、水で流し込む。温かいものをお腹に入れたおかげか、体がぽかぽかとして少しは気分が落ち着いてきた。


「あとで、着替えを持ってくるよ。眠れそうならまた横になっていて」


 ツルギは手早く後片付けを終えると、再び私の体を寝台に横たえ、布団を被せてくれた。至れり尽くせりだ。


「おやすみ、ゆらぎ。またあとでね」


 ツルギは微笑みながらそう告げると、そっと私の前髪を掻き上げて額にキスを落とした。


 それは、私とゆらぎの間のおまじないだ。どちらかが具合が悪いときに、もう片方が額にキスをして、元気を分け与えてあげるのだ。


 ……ゆらぎはそれを、ツルギに教えてあげたんだ。


 それくらい、大切な存在だったということだ。ツルギがいなくなると同時に布団を頭まで被り、ぎゅう、と目を瞑った。


 私が考えていることが本当だったら、私は彼に、どれだけ残酷なことをしているだろう。考えれば考えるほどに、どうしようもなく、泣き出したくて仕方がなかった。

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