第四章 星とレプリカ

第1話

「ねえ、あさぎ、心ってなんだと思う?」


 ある夏の日、ゆらぎはキャンバスに向かい合ったまま、そんな抽象的な質問をしてきた。私は彼女の後ろで本を読んでいて、ちょうど、彼女が選ぶ色の美しさに見惚れていたところだった。


「なに、急に」


「あさぎの考えを、聞いてみたくなって」


 ゆらぎは珍しく、筆を持つ手を止めなかった。ゆらぎが手を休めないときは、よほど集中しているときか、なにか後ろめたいことがあるときだと決まっている。今は彼女から話しかけてきたくらいなのだから、後者なのかもしれない。


「……そうだな、情動っていう意味なら、闘争・逃走反応がもたらす精神的な機能のことだろうし、ざっくりとまとめて主観的な快・不快の経験といってもいいかもしれないけど――」


「そんなことはそれこそAIに聞けば教えてくれるよ。あさぎは、どう思っているのかなと思って」


 どんな試験より、ずっと難しい問いだった。高校で知識として学んだだけで脳科学や心理学の専門を目指しているわけでもないし、まして詩人でもないのだから彼女が納得するような美しい言葉で表現できそうにもない。


 それでも、と思いつくものならある。まとまりのない考えを口に出すのは苦手だったが、言い出さなければ、彼女の背が生み出す沈黙はいつまでも私の言葉を待っているような気がした。


「……ゆらぎ」


「え?」


「ゆらぎ、だと思う。私が考える心の、本質みたいなもの」


 彼女はついに筆を置いてこちらを振り返った。珍しく、理解できないとでも言いたげな顔をしている。


「私ってこと? 私のこと好きすぎない?」


「ゆらぎのことは好きだけど、違うよ。なんていえばいいのかな……イメージとしては、人と人とか、人と動物とか、人と物とか……とにかく、あらゆるふたつのものが紐みたいなもので繋がっていて……そのつながりのゆらぎが、感情を生んでいるのかなって、思う。原子の振動が熱を生むように、つながりのゆらぎが心を生むの」


 ゆらぎは、しばらく考え込んでいた。筆の先から、ぽたりと浅葱色の絵の具が落ちて、彼女のエプロンに染みをつくる。


「その考えだと、生まれながらにしてひとりぼっちで、何もない部屋にいる子どもには、心は生まれないのかな?」


「どうだろう……それこそ、不快情動と言ってもいいのかもしれないけど、生存に不利な環境からは逃げたくなるだろうし、恐れるだろうし……ざっくりというなら、それだって心と言って差し支えないだろうし……。さっき言った考えに照らし合わせるなら、子どもと暗闇のつながりが生んだゆらぎが、感情を生み出していることにはなるのかな、……なんて、思うけど」


 こんなふうに自分の考えを述べるのは初めてだ。なんだか、気恥ずかしい。相手がゆらぎだからまだできたことだろう。


「へえ……面白いかも、いいこと聞いた」


 言葉通り、ゆらぎは鼻歌でも歌い出しそうなほどに上機嫌だった。たいていいつでも機嫌はいいが、目に見えて楽しそうだ。


「……なあに、次回作の構想でもしているの? 心がテーマだなんて、ずいぶん挑戦的で壮大な作品だね」


「まあね。場合によっては、私の生涯でいちばんの作品になるかもね」


 このときゆらぎは確か十六歳だった。思わず、くすりと笑ってしまう。


「どんなに素晴らしいものかは知らないけれど、そう言ってしまうには若すぎるんじゃない? ゆらぎなら、もっともっとすてきなものを生み出せるよ」


 ゆらぎは、どこか大人びたまなざしで静かに笑った。同じ日に生まれ、同じように生きてきたのに、彼女はときどきはっとするほど遠い存在に思える。


「……もうひとつ、ついでに聞いてみたいんだけど、もし、もしも心がないもの

に、心を与える術を見つけてしまったら……それは、許されることだと思う?」


 今日はずいぶん抽象的な、正解のない質問が多い。しばらく迷ってから、やっぱりとりとめもない答えを返した。


「子どもを産む人は、新たに心をひとつこの世に生み出しているとも言えるわけだし……そんなに悪いことじゃない気はするな。何に心を与える想定をしているのかわからないけれど……まあでも、花とか無機物が心を持ったらちょっと不気味かもね。場合によっては争いの火種になるかも。よくわからないものは、怖いから」


 ゆらぎは静かに私の言葉を聞き届けると、目を瞑って何度か頷き、どこか自嘲気味な笑みを浮かべた。


「――私、あさぎと一緒に生まれてきてよかったよ」


 開け放たれた窓から吹き込んだ風が、薄いカーテンを揺らして、夏と絵の具の匂いを運んできた。濃い影を半身に背負ったゆらぎの姿はどこか重々しくて、とても自分の片割れだとはいえないような存在感を放っている。


「……その作品、できたら見せてよ。ゆらぎの言う通り、すごそうだ」


「いや、あさぎにも完成品は見せられないよ。レプリカは見せてあげるけど」


「そんな、一生懸命悩んで質問に答えたのに……」


 下手な試験よりずっと疲れたような気がするのに、彼女はその貢献に報いる気はないらしい。何より、どんな作品でも欠かさず私に見せてくれた彼女が、秘密にしようとしているのが気に食わなかった。


「そうだな……私が死んだら、いつかばれちゃうだろうから……そうしたら、そのときに確認してね。私の一世一代の特別な作品を」


「ゆらぎが死んだらなんて、縁起でもない」


 同じ日に死ぬとはいわずとも、同じくらいの歳で死ねたら嬉しいと思っていた。一緒に生まれてきたのだから、おしまいも一緒がいい。ひとりでは、生きている心地が半分くらいしかしなそうだから。


「ゆらぎ、お話中にごめん、昼食の準備ができたよ」


 ふと、廊下に繋がる扉からツルギが姿を表す。美しいが、機械的な微笑みを浮かべていた。使用者に不快感を与えないための、彼の意思ではない笑みだ。


「ありがとう」


 ツルギが、私にも向き直る。


「あさぎさんのぶんもご用意しました。ゆらぎと一緒に召し上がってください」


 揺らぎのない瞳が、まっすぐに私を映し出していた。


 妙な緊張感を覚えて、ふい、と視線を逸らす。無視したって相手はAIだ。失礼も何もないだろう。


「今日のお昼ご飯は何?」


「あさぎさんもいるから、ナポリタンから変更してカルボナーラにしたよ」


 ゆらぎに願われて柔らかな口調で話すツルギとゆらぎの後ろ姿を、ぼんやりと見つめる。後ろ姿だけを見れば、まるで恋人か友人同士のようだ。


 席を立ち、読みかけの本を椅子の上に置く。ふたりの後を追うようにドアへ向かう途中、ゆらぎがキャンバスに描いていたものが見えた。


 それは、紺色の空に浮かぶ金と銀の星の絵だった。その星のひとつが、浅葱色の光を放って、眠るように横たわる少年のそばに引き寄せられている。少年は灰色の髪をしていて、詳しく確認せずともツルギがモデルなのだとわかった。


 絵本の一ページのように美しい絵だったが、どうしてか胸騒ぎがしてしばらくその絵から目を離せなかった。


「あさぎー! 早くおいでよ! 冷めちゃうよ!」


 ゆらぎの声がリビングから響いて、はっとする。


「ごめんごめん!」


 最後に絵を一瞥して、慌てて部屋を後にした。


 ゆらぎが生きている間にその星の絵を見たのは、それが最初で最後だった。


 ◇


「う……」


 半ばうなされるようにして、夢から覚める。去年の出来事なのに、夢に見るまで思い出したことがなかった。あの問答の後はなんだか疲れてしまって、あまり振り返らなかったせいもあるかもしれない。


 ……星と、レプリカ、か。


 ごろりと寝返りを打ちながら眼裏に蘇るのは、いつかゆらぎの展示会で見たあの金属でできた星の小さなオブジェだ。ゆらぎはあれをレプリカだと言っていたが、あれの本物こそが、彼女が隠そうとした「一世一代の大作」だったのではないだろうか。


 ツルギがゆらぎの過去の作品を収納したと言っていた箱もざっと見たが、それらしいものは見当たらなかった。どこかに、今も隠されているのだろうか。

 寝転んだまま、壁に表示された数字を見て、渋々起き上がる。


 そろそろ、ツルギが起こしにやってくる時間だ。なるべく、彼とは起きた状態で対峙するようにしていた。寝起きでは、つい素が出てしまうからだ。


 ベッドから足を下ろすと、何だか妙に体が重たい気がした。気のせいか、視界がゆらゆらと揺れている。


「ゆらぎ、入るよ」


 壁の数字が七時を表示したのと同時に、ツルギが入室してくる。彼は早速部屋のカーテンを開けるボタンを押し、私の前にやってきた。


 眩しくて、頭がずきずきとした。ぼんやりと意識に膜が張ったような感覚だ。


「……ゆらぎ?」


 ツルギは私の前に跪くと、すぐさま私の手をとった。


「三十八度五分。……ゆらぎ、具合が悪いんだね。横にならなきゃだめだ」


 さすがは家庭用のアンドロイドだ。触れただけで体温を測定できるらしい。


「……解熱剤を飲めば大丈夫。支度しないと」


 正直、学校に行かなくていい理由ができたことを喜んでいないかと言われれば嘘になるが、この時期に休むと二度と行けなくなるような不安もあった。今の私の精神状態では、楽なほうに流されてしまう。


「だめだよ、悪化する。絶対家から出さない」


 ツルギにしては珍しく、頑固な言葉だった。そのまま、肩を押されるようにしてベッドに倒される。


「ツルギにそんな権限ある?」


 無理やりベッドに横にされたのがなんだか悔しくて、思わず反抗的なことを口走ってしまった。ツルギは表情ひとつ変えずに、布団を私の首元まで引き上げる。


「あるよ、ぼくはゆらぎの恋人だからね」


 ツルギは表情ひとつ変えずに言い放つと、カーテンを閉め、空調の調節をしていた。


 布団を首もとまでかけられて、初めて気がついた。夏の始まりだと言うのに、体が震えている。


 ……確かにこれじゃあ無理か。


 ツルギの制止を振り切って登校したところで、景あたりに指摘されて家に帰されるのがオチだ。それに、あの漆戸先生のいる保健室には絶対に行きたくない。


 そうやらツルギの判断は、正しいと言わざるを得ないようだ。


「……ごめん、きつい言い方して」


 AIに謝る必要なんてないと思いながらも、言わずにはいられなかった。ツルギは再び私のベッドのそばにしゃがみ込むと、そっと頬を撫でてくれる。


「そんなこと、気にしなくていいんだよ。今、おかゆを作ってくるから待っていて」


 彼は何度か私の頬を撫でると、穏やかな笑みを残して部屋を出ていった。


 AIのくせに、慈しむとは何かを知っているかのような触れ方だった。あれもプログラムなのだとしたら、恐れ入る。


 ……あんなふうに撫でられたのは、久しぶりだな。


 布団を口もとまで引き上げて、ふ、と頬を緩ませる。相手がAIだとしても、労られるのは悪くない。


 枕もとに放り出していた端末を手に取り、高校に「体調不良のため欠席」と短いメッセージを送る。返事も見ずに再び枕もとに戻し、布団の中に潜り込んだ。


 暗闇のなかでも、頭はずきずきと痛んだ。ツルギのことだ。きっとおかゆとともに薬も持ってきてくれるだろう。


 思ったよりも体調が悪いのか、横になっているだけで瞼が重たくなってくる。それに抗えぬまま、再び私は眠りについた。

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